東京箱入り娘(その4)|ステーション・ワゴン篇

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北條一浩@編集部

この連載では、開放感にあふれているようなイメージのある片岡義男作品が、実際はそれぞれの小説なり場面なりでキッチリと閉じた空間を形成していること、その具体的な閉じ方のありようとして「箱」に注目してきました。「電話ボックス」、「エレヴェーター」、「前後して走行する2台の自動車」と続けてきて4回目の今回は、自動車の続きでありつつ、より具体的に、ステーション・ワゴンについて見てみたいと思います。

自動車の中で圧倒的な登場頻度

 みなさんは「ステーション・ワゴン」と聞いて、すぐに映像が浮かぶでしょうか? 自動車にうとい私ですが、Googleで画像検索してみたそれと、脳内にぼんやり現れたそれは、幸い、それほど大きな食い違いはなかったようです。ミニバンなんかと混同される方もいるかもしれませんが、ミニバンはボンネットがない1BOXか小さいボンネットの1.5BOXで車高が高く、ステーション・ワゴンはボンネットがしっかりある2BOXで車高の低いのが特徴です。どちらも荷物の収納に長けているので、一瞬、「ん?」となるかもしれませんが(詳しい方にはあたりまえすぎる話をしてますがもう終わるので許してください)、基本、ミニバンもしくはバンは荷物運び用の商用車で、ステーション・ワゴンはあくまで乗用車と言って良さそうです。

 そのステーション・ワゴンですが、片岡作品に出てくる92%くらいの女性が「美人」と形容されているように(ほんとですよ)、出てくる自動車のうち74%くらいは「ステーション・ワゴン」とわざわざ書かれています。それほどにステーション・ワゴンの頻度は高い。なぜなんでしょうか?

 ステーション・ワゴンを降りてドアまで歩いていき、キーでロックを開放した。そしてドアを開き、なかに入った。
 なかの空気は、よどんでいた。そして、そのよどんだ空気のなかに、瞳の香りが、まったくなかった。
 いつもなら、ドアを開けてなかに入ると、必ず瞳の香りがした。香水の香りとかそういうことではなく、とにかく彼女の香りがあったのだ。ぼくがいっしょに住んでいる女性、妻としていっしょにひとつの場所で生活している女性の香りが、家のなかにはいつもあった。そして、その香りが、ぼくは嫌いではなかった。その、瞳の香りが、いまはまったくない。(中略)  
 それから二年半たつ。二年半ぶりに、ぼくはステーション・ワゴンでその家のすぐそばをいま走っている。三年まえとは別のステーション・ワゴンだが、いまでもぼくの自動車はステーション・ワゴンなのだ。

私は彼の私」より

 「私は彼の私」という短編の一部分です。この短編は離婚をテーマにしていますが、引用した前半部分は妻である瞳という女性が去った直後を、後半はそれから2年半経った時の様子です。ここには変化と不変の両方があります。すなわち、今はもう、かつて瞳と乗っていたあのステーション・ワゴンには乗っていない、という変化。同時に、あの時とは別のステーション・ワゴンだが、「いまでもぼくの自動車はステーション・ワゴンなのだ」という不変。
 ここで私が考えるのは、「ステーション・ワゴンとはぼくだ」ということです。ぼくのステーション・ワゴンに瞳がやってきた。瞳との時間がその中にあった。そして瞳が去ってまた自分だけになった。瞳の香りのないステーション・ワゴンには耐えられない。だからそのステーション・ワゴンにはもう乗らない。しかしまた別の、あたらしいステーション・ワゴンにぼくは乗る。なぜなら「ステーション・ワゴンとはぼく」なのだから。

「夜のあいだ七時間ほど、あのステーション・ワゴンを運転して、高速国道を北にむけて走ってほしい。カーゴ・スペースは広かったよね」
「部屋がわりになるほどの広さと使いやすさよ」

彼女がワゴンを停める場所」より

 ステーション・ワゴンの登場する6つの場面をスナップ・ショットのように集めた小説の、第1話の場面です。女性と、その女性の相棒的存在であるステーション・ワゴンに対して、親しい男性がある頼みごとをします。それは以下のような、やや切実かつユーモラスなものです。

「出来ることなら今週の木曜日の夜から次の日の朝にかけて、あのステーション・ワゴンで走ってほしい。僕はカーゴ・スペースに寝袋を敷き、夜の十時には眠っていたい。僕ひとりでは出来ないけれど、誰かの助けをすこしだけ借りるなら、普通に眠れるような状態に自力で戻れると思う。 眠る僕をうしろに乗せて夜どおし走り、次の日の朝、五時から六時のあいだくらいに、とある北の町に到着する。出来るだけいいホテルにきみの部屋をとっておくから、きみはそこで眠ってくれればいい。夜のあいだ走り続けてくれるあのステーション・ワゴンのカーゴ・スペースに広げた寝袋のなかに横たわるなら、僕は良く眠ることが出来そうな気がする」

彼女がワゴンを停める場所」より

 ステーション・ワゴンのステーション・ワゴンたる所以が、強く出た場面だと思います。「部屋代わりになる」ほどの快適な居住性があり、しかもどうやら不眠症の男性に眠りのきっかけを与えてくれそうな存在。それは、夜から朝にかけて走り続けることによって可能になるのです。つまり、ただ広くて快適な部屋であるだけでもダメで、ただ走れるだけでもダメ、といってバスのように大勢がいる空間でもダメで(そもそもバスは居住性が低いですね)、まさにステーション・ワゴンだけが可能にしてくれる時間と空間がここにはあります。しかも、走っているあいだに運転している女性と寝袋で寝ている男性は一切没交渉で、役目を果たしたあとに女性はステーション・ワゴンではなくホテルで眠ることになっているというのがまたおもしろいです。

BLOG _houjyo『日本訪問記』より(写真:片岡義男)

ステーション・ワゴン──もの言わぬ愛すべき友

 ここで、作家自身がステーション・ワゴンというものをどう考えていたのかがよくわかるテキストをご紹介します。

 まずはとにかく一台のステーション・ワゴンだ、と思うこのぼくの気持ちは、とにかく自動車は実用的にこてんぱんに使いたい、という気持ちとつながっている。こてんぱんに使うとはどういうことかと言うと、自動車というきわめて野蛮で品がなくてインセンシィティヴなものを、なんとかある一定の範囲内におさえこみ、制御したい、ということなのだと思う。使いかたにおいてセンスやインテリジェンスを発揮したいという思いが、ステーション・ワゴンに結びつくのだ。たとえば自動車を女にたとえて愛でたり、野獣になぞらえて感嘆したりするのは、じつになんとも言いがたく時代錯誤だと、ぼくは思う。
 自分のものとして使いこなしてみるとわかるが、ステーション・ワゴンは、その応用範囲がかなり広い。さまざまな場面のなかに、ステーション・ワゴンは、実用的にぴたりとはまる。身を粉にして働く自分の分身として頼りになるし、お洒落に乗る、というような乗りかたにも、ステーション・ワゴンはすんなりとこたえてくれる。馬鹿げたスポーツ・タイプなどとは比べものにならないほどに、ステーション・ワゴンはよき友となってくれる。

「まずはとにかく一台のステーション・ワゴンから」より
(『ターザン』マガジンハウス/1986年7月5日号/No. 7)

 片岡義男についての先駆的なサイトで、片岡義男.comも大いに学ばせてもらっている「片岡義男百科事典」から転載させていただきました。
 バカみたいに格好を付けているのではない、「実用性」を第一義としながら野暮でない、タフな友人としてのステーション・ワゴンへの信頼がここでは語られています。

 生活の時間。自分ではない人の残り香とそれが消えるまでの時間。時には眠るための時間。雨風から身を守ってくれて、自由にどこにでも移動できて、余計な装飾やファッションはなく、しかし使い方の中に自分のスタイルを反映することができ、いつももの言わぬ愛すべき友。片岡義男作品にあってステーション・ワゴンは、そんな理想の閉じた「箱」であることは間違いありません。

 最後に、ズバリそのまま「ステーション・ワゴン」という短編があることをお知らせしておきます。さらにこの小説には、まったく同じストーリー、同じタイトルでもっと短いエッセイも存在し、文庫本では前者は『最終夜行寝台』に、後者は『コーヒーもう一杯』に収録されています。そして小説は当サイトで発売中のほか、エッセイはこちらで読むことができます。

 少年・片岡義男の原点にステーション・ワゴンがあったこと、そしてここには少年ならではの無謀さとして、あのタフなステーション・ワゴンがついに走れなくなってしまう瞬間を、つまり大人になった片岡義男の小説の主人公が絶対に冒さない危険領域が、描き出されています。

引用した本私は彼の私」「彼女がワゴンを停める場所ステーション・ワゴン

9784862394927
彼女はもういない。彼女の香りは、手がかりはもうどこにもない。彼女が「私は彼の私」と他人に言うことはもうないだろう。残されたのは、共に暮した家だけだ。


9784862396631
ステーション・ワゴンは、片岡義男の小説では特別な存在だ。なにしろ「ステーション」なのだからその居住性は抜群であり、移動もできればそこで快適にすごすこともできる愛すべき友である。


086_01
福音館書店発行の雑誌『子どもの館』(1980年)に発表された短編。12歳の少年が主人公の自動車をテーマにした片岡義男ならではの一編。

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2017年8月1日 00:00