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『彼らを書く』より「いまからザ・ビートルズをDVDで観る。」を公開

音楽エッセイ『彼らを書く』(光文社 2020年)より、「いまからザ・ビートルズをDVDで観る。」の10篇を本日公開しました。
※(10篇を1作品として公開しています)

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さきにかねをもらわないと

 1964年の2月7日の午後、イングランドのグラナダ・テレヴィジョンという会社から、メイスルズ兄弟のところに電話があった。ザ・ビートルズの4人を乗せた飛行機があと2時間でジョン・F・ケネディ国際空港に到着するけれど、彼らの記録映画を撮影する意思はありますか、と。電話で話をまとめ、兄弟は撮影機材を持って空港へと急いだ。空港に到着すると、4人を乗せた飛行機は、滑走路に着陸するところだった。81分にまとめられたこの作品には、『The First U.S. Visit』という題名があたえられ、おそらく1964年のうちには公開されたのだろう。僕はまったく知らなかった。DVDを2018年に購入し、ついさきほど観た。55年遅れの観客だ。取り巻く人々の渦中にいて撮影されたフィルムは、インティメイト・ドキュメンタリー・スタイルと、今では呼ばれており、今日まで続いているロックンロール・シネマトグラフィのベンチマークとなった作品とも言われる。
『The Beatles Arrive In New York for their First US Visit』

ご家族みんなのザ・ビートルズ

『The Four Complete Historic Ed Sullivan Shows Featuring The Beatles』には、ザ・ビートルズが出演した『エド・サリヴァン・ショー』が4回分、CMを含めて番組の始まりから終わりまで収録してある。このDVDは貴重だと言っていい。Something for everybody.というこの番組の方針を、ザ・ビートルズはきれいに体現している。スティーヴ・ロッシやシーラ・ブラックの歌に喜んで拍手する人たちがいれば、ザ・ビートルズの演奏と歌に拍手する人たちもいる。どの人たちも、この生番組を客席で見ている観客たちだ。Something for everybody.を日本語で言うなら、ご家族みんなで楽しめる、とでもなるだろう。ご家族みんなとは、保守の見本ではないか。そのような雰囲気を出せ、と番組の方がザ・ビートルズに強く求めたのではない。ザ・ビートルズが番組の雰囲気に自分たちを無理して合わせたのでもない。レコードデビューしてからアメリカ公演にいたるまでのザ・ビートルズは、そもそもこのような中道的な雰囲気を持っていた。彼らはそのような人たちだった。
『The 4 Complete Ed Sullivan Show Starring The Beatles』(official trailer)

Can you hear me? Hello?

 1965年の夏にザ・ビートルズは2度目のアメリカ公演をおこなった。8月15日の午後9時15分からは、ニューヨークのシェイ・ステイディアムの特設ステージから、5万6千人の観客に向けて歌い、演奏した。一部始終とはいかないまでも、この日の様子はカラーの16ミリ・フィルムで撮影された。16ミリのフィルムから35ミリのポジが何本もコピーされ、全世界で公開されたという。何度もコピーを重ねた、したがってオリジナルとは画質において大きく劣るフィルムを、映画館で見た人は多いのだろう。ブライアン・エプスタインがステージのすぐそばに立っている映像がある。短いショットだが、これは見ておいたほうがいいように、僕は思う。そしてもうひとつ見るべきだと僕が思うのは、ザ・ビートルズがステージを降りてすぐ、待機していた自動車に乗り込んで、走り去る場面だ。あの時代のアメリカの、平たくて四角く大きな白いステーション・ワゴンだ。
『The Beatles live: Shea Stadium, New York』

If that question was a joke, it wasn't funny.

 1966年6月29日、午後3時20分から、東京ヒルトンホテル(現在の名称はザ・キャピトルホテル東急)の紅真珠の間でザ・ビートルズの記者会見が開かれた。参加した記者や写真を撮る人たちなど、合計で410人ほどだった。会見は45分の予定だったが、1時間30分以上となった。この様子の一部をDVDで観ることができる。東京音楽記者会。雑誌芸能記者クラブ。日本外国特派員協会。この3つに記者たちを分け、それぞれの代表者が代表質問をする、と司会の人が告げた。質問は10項目あり、そのうちの7項目を、東京音楽記者会の幹事が代表となって質問した。自分たちの音楽についてはどう思っているか、という質問があった。自分たちは優れた音楽家ではない、とポールが答えたあと、ではどの程度の音楽家なのかという質問に対して、very adequateとポールは言った。彼はこの言葉を何度か繰り返した。
『ザ・ビートルズ 1966年6月29日来日記者会見』日本語字幕付き

もとの生活に戻るための努力はしたけれど

 ジムという青年は幼い頃に父親から捨てられた経験を持っている。いまは高校生だ。大学をめざして勉強している。彼は家出をする。ワイト島で観光客を相手に半端な仕事をしながら、客の若い女性たちを物色する日々を送る。ワイト島でジムはマイクという青年と知り合う。彼も観光客たちの施設で、釣銭をごまかしながら、日々を送っている。このマイクをリンゴ・スターが演じている。もみあげを含めて、彼の髪型が良い。ジムの髪がワイト島で少しずつ長くなっていき、マイクの髪型と似ていく様子を画面に見るのは楽しい。ワイト島での屋内の遊興施設にはクラブのようなところもあり、そのステージにはロックンロール・バンドが出演している。歌っている金髪の男性はビリー・フューリーではないか。キース・ムーンがドラムスを叩く様子も、ごく短くだが、画面に見ることが出来る。ここを見るだけでも、この映画には価値がある、と僕は思う。
映画『 That'll Be The Day 』(邦題『マイウェイ・マイラブ』/1973)抜粋映像

それもアストリッドが作った

『Backbeat』は1994年の英国の映画だ。1960年、リヴァプールから客船に乗り、ドイツのハンブルクに向かうザ・ビートルズの5人の描写からこの映画は始まっている。ジョン・レノン。ポール・マッカートニー。ジョージ・ハリスン。そしドラムスにはピート・ベストがいて、もうひとりのベース奏者だったステュアート・サトクリフの5人だ。サトクリフは他界してもういない。ピートはリンゴに代わる寸前だろう。ハンブルクでサトクリフは写真家のアストリッド・キルヒヘルと出会う。ふたりの関係の始まりは、お互いの一目惚れのように描かれている。ハンブルクにいたザ・ビートルズをモデルに使って彼女が撮影した写真は、ロックンロール青年たちのポートレートを越えた芸術写真として評価されている。ポートレートではなく、彼らを素材に使った芸術作品であることは、ザ・ビートルズといえども感じ取ったのではなかったか。自分たちはアートの素材になった、と彼らがそのとき感じたとすれば、自分たちそのものがアートになり得る、とも彼らは思ったはずだ。
映画『BACKBEAT』(邦題『バック・ビート』/1994)ORIGINAL TRAILER

THE BEETLESと綴られたことは何度もある

 1964年、ザ・ビートルズは初めてのアメリカで演奏旅行を行い、2月9日にはCBSのTV番組『エド・サリヴァン・ショー』に初出演した。この事実にコメディとしてのフィクションを重ねたのが、1978年に制作された映画『I Wanna Hold Your Hand』だ。『エド・サリヴァン・ショー』は1時間の生中継のヴァラエティ番組だ。TVスタジオが映画の冒頭にあらわれる。来週の、つまりザ・ビートルズが出演する週の演物の名前が、正面のマーキーにアルファベットで告知されている。マーキーには水平に何本も溝があり、裏面に平らな差し込みのあるアルファベットひと文字ずつを使って差し込んでは、演物の名を作っていく。THE BEATLESの名もあるが、そのマーキーを作業員が脚立を立て、2つ目のEのアルファベットを抜いて、Aのアルファベットに取り替えたところだ。マーキーには最初は、THE BEETLESと綴ってあったのだろう。ザ・ビートルズは、最初の頃はThe Beetlesと綴られることが多く、そのつどさまざまに笑いを生んだ。
映画『 I Wanna Hold Your Hand 』(邦題『抱きしめたい』/1978)Theatrical Trailer

事実の断片をつなぎ合わせると、それはひとつの美しいフィクションになる

 校長がジョン・レノンに停学を言い渡すときレノンは言い返す。このときに表現されるレノンの性格の強さは、たいそう良い。エルヴィスのようになるんだ、とのちほどレノンは強く言う。そのエルヴィス当人はミシシッピ・アラバマ・フェアがテュペロで開催されたときに招かれ、野外の舞台に出て歌った。このときの映像が、ニュースの映像として、TV受信機の画面にあらわれる。すべてはつながっている。この映画『Nowhere Boy』を観るにあたって、このつながりをどこまで、どのように理解するか、きわめて大事だ。ホナーの小さいブルース・ハープが登場し、母親のジュリアが吹いてみる。ごく短く彼女は吹く。四弦バンジョーをジュリアは弾いてみせる。かなりうまく弾く。『マギー・メイ』という曲だ。マギー・メイとは誰ですか、とレノンに訊かれて、娼婦よ、と彼女は答える。バンジョーを弾くことをレノンが試みる。ごく短い時間のなかで、彼はうまくなっていく。このことが、ザ・クオリーメンの演奏につながっている。
映画『Nowhere Boy』(邦題『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』/2009)Official UK Trailer

ジャッキー・デシャノンと飛行機のなかでモノポリー

 このインタヴューの動画集を作ったセス・スワースキーは1960年生まれのアメリカの人だ。多くの歌手に楽曲を提供し、22歳のときにはグラミー賞にノミネートされた経歴を持つ。自ら歌う歌手でもあり、ソロでもデュオでも、数多くの歌を発表してきた。ある日、彼はヴィデオ・カメラを購入し、取材の旅に出た。何らかの形でザ・ビートルズと関わった人たちをインタヴューし、彼ら彼女らが語る様子をそのヴィデオ・カメラで撮影した。ザ・ビートルズの1960年代の公演ポスターを見ていくと、前座にジャッキー・デシャノンの名前がある。2010年あるいは2011年の彼女がこの映画の画面にあらわれ、1960年代の自分について語る。前座としてザ・ビートルズといっしょに飛行機で移動するときは、ザ・ビートルズは機体の前のほうに余裕のある座席を持ち、立ったり座ったり歩きまわったり、自由に出来ていた。前座の自分は機体のうしろのほうで座席からは動くなと言われ、ひとりギターを弾いて曲を作っていたりすると、ジョージがギターを持って現れ、ふたりでギターを弾いては話をすることもあったという。
映画『Beatles Stories : A fab Four Fan's Ultimate Road Trip』(邦題『ビートルズと私』/2011)Video Clip

Please don't write anymore.

 ドキュメンタリー映画を作る人であるライアン・ホワイトは2013年にこの映画を完成させた。題名は『Good Ol' Freda』という。いい作品だ。観てよかった、と思っている。リヴァプールのザ・キャヴァンという店にザ・ビートルズが初めて出演したのは1961年だったという。フリーダ・ケリーは1961年には17歳でリヴァプールの高校を卒業して会社に勤めていた。同僚に誘われてある日の昼休み、ザ・キャヴァンを彼女は初めて訪れた。ザ・キャヴァンは臭いところだったという。彼女がブライアン・エプスタインに誘われてザ・ビートルズの秘書になったのは1962年のことだ。この年には、ザ・ビートルズは最初のシングルの「Love Me Do」を録音している。秘書としての彼女は多忙を極めたようだ。ありとあらゆる用事や仕事を、彼女はエプスタインから受けとめた。1963年にザ・ビートルズはザ・キャヴァンに最後の出演をし、1964年にはファン・レターが一日に3000通は届くようになった。エプスタインの父親が営んでいたネムズという家電の販売店があった建物の二階の一室で、フリーダは仕事をした。そこにエプスタインの事務所もあったからだ。
映画『Good Ol' Freda』(邦題『愛しのフリーダ』/2013)Official Trailer

(以上10篇『彼らを書く「いまからザ・ビートルズをDVDで観る。」』光文社/2020年より)

2024年4月19日 00:00 | 電子化計画

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