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エッセイ『作家のすべて教えます』、小説『春の海鳴り』など10作品を公開

エッセイ『作家のすべて教えます』(『月刊オーパス』創現社出版/1993 - 1994年)からの8篇、小説『春の海鳴り』『ファミリー・ドライブ』(『推理』双葉社/共に1971年)の2篇を本日公開しました。

 女性から受けた影響が、僕は非常に強い。僕にとってもっとも大事な核は、そこにこそあると言ってもいいほどだ。ごく幼い頃から三十代なかばくらいまでの間、僕の身辺にはなぜだかきちんと成熟した美しい大人の女性たちが数多くいた。彼女たちから僕は多大な影響を受けた。その影響とは、男性絶対優位社会であるこの日本で、男性絶対優位という日本的な主流から、可能なかぎり遠く距離を取り、可能なかぎりそれから無縁でいることのなかに自分の存在理由がある、というような考えかただ。やや図式的に言うと、男は左脳だけの酷使を極端なかたちで行うことを通して、社会のなかに自分の位置を見つけていく。女性は男たちのように、不気味にいびつで戦闘的なかたちで脳を使うことがないと言っていい。全体的に、丸く豊かに、自由に彼女たちは脳を使う。

(『月刊オーパス』創現社出版/1993年5月号掲載)

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 主人公とは、少なくとも僕にとっては、ストーリー展開というものを一身に体現する人たちであり、ストーリーとは僕の理解では、経過していく時間の中から切り取られた、ある一定量の時間と、その時間の中で主人公たちに起こって来て彼らが引き受け、体験しくぐり抜けていく、なんらかの変化のことだ。そしてストーリーは、それを貫く基本方針によって、大きく二種類に分けることが出来る。ひとつは現実の作りなおしとしての小説、そしてもうひとつは、現実の先取りとしての小説だ。前者は、「こういうことって、あるよね」と読者が言う小説であり、後者は、「なるほど、こうでもあり得るのか」と、読者が思うような小説だ。

(『月刊オーパス』創現社出版/1993年6月号掲載)

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 普通の日常の世界のなかでは、誰にとっても時間は一種類しかない。しかもその時間は、かなりの速度で常に経過していく。時間とは選択だ。選択をするときの基準は、直感だと僕は思う。その基準は一体何なのだろうか。それは直感だと、僕は思う。ものごとがうまくいくかいかないかは、直感の正しさによる。「小説はどうやって書くのですか」と、もし僕が誰かから質問されたなら、その質問に対する核心を捉えたひと言による回答は「直感とそのコントロールをとおして僕は小説を書きます」でしかあり得ない。書くに値すると自分が思うものを見つけるのは直感、そしてそれを書いて発表するまでのプロセスは、直感のコントロールによって統率されていく。

(『月刊オーパス』創現社出版/1993年7月号掲載)

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 直感の正しさを確認するための、僕にとっての唯一の拠り所は、子供の頃に海などで感じた、自分の体と周囲の自然とが見事に調和し重なり合った瞬間だ。このような瞬間というものは、たいへんに正しい。そしてその正しさのなかに、僕も正しく存在している。そう感じた瞬間を、僕の体が、そして僕の大脳のいちばん奥の深い部分が、いまも鮮明に記憶している。そしてその記憶に、すべての直感を僕は無意識に照合させ、その直感が正しいか正しくないかを、確認している。これはこうしてこのようにすればうまくいくのではないか、などと考えては、頭の外でかたちにしていく。僕の場合は、直感という核は言葉を媒介として頭の外へ出され、紙の上の文字つまり文章として、実現されていく。

(『月刊オーパス』創現社出版/1993年8・9月合併号)

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 日本語の世界をとるか、それとも英語の世界へいくか。直感的に判断するなら、英語のほうが少しだけ分が悪かった。英語が自分にとってどのように役に立つか、あるいは自分が英語をどんなふうに使っていくことが出来るか、そのときの僕にはすでによくわかっていた。言語とは社会システムだから。一方、日本語は、当時の僕にとっては謎の言語だった。謎であるとはその言語が作っている社会システムが、まるで見えていなかったということだ。従って、自分が日本語で何をしていけるのか、どのような状況でどんなふうに日本語が役に立ってくれるのか、ほぼ完全に不明だった。そして僕は直感的に不明のほうを選んだ。ただ、頭の中には英語の部分がすでに決定的にあり、日本語を選んだとは言っても、その英語の部分をとおして習得し理解していく日本語を、僕は自分のものにすることとなったからだ。

(『月刊オーパス』創現社出版/1993年10月号掲載)

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 作家というものは、基本的にはアンチであり、主流からは外れた存在だ。作家が最も作家的になった場合、その作家はその社会にとってたいへん危険な存在になる。ごく普通のお嬢さんにしか見えない二十代後半の女性がピストルを手に入れ、ひと夏、東京で通り魔殺人を連続させるというストーリーを、僕は書いた。すでに存在する基本的な様式は守りつつ、僕らしい方向に向けてその様式を拡大して、その中にひとつひとつの物語を収めていけばいい。殺されなければならない理由に関するアイディア、そして殺しかたや殺すときの状況に関するアイディアを、ひとりの女性主人公に託して語ってみたいというような願望は、作家の反社会性のようなところから発生してくるものにちがいない。また、性的な小説は工夫するといくらでも工夫の余地が出来てくるのが、面白いところだと僕は思う。

(『月刊オーパス』創現社出版/1994年4月号掲載)

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 大きな建物のアプローチのまんなかに彫刻が立っている。若い裸婦の全身像だ。ただ単に裸婦であるというだけの、平凡な作品だが、なぜこの裸婦像はつまらないのだろうか、と僕はふと思う。ポーズに意味がないからだ、と僕はひとまず結論する。意味を持ったとき、裸婦像もまた、美しい。意味とはストーリーだ、物語だ。見る人に物語を感じさせないような平凡なポーズを裸婦に与えるのは、芸術上の犯罪だと言っていい。僕は人と待ち合わせの喫茶店で、裸婦とその物語について思いをめぐらせ始める。裸婦は小説の主人公になることが出来る、と僕は結論する。その結論を背後にして、僕は物語の発端を捜す。発端は無数にある。自分自身の物語をきっちりと持ったひとりの裸婦像が台座の上に今日も美しく凜々しく、ひとりで立っているとして、その裸婦をどこに置けばいいか。大学など、いいかもしれない。

(『月刊オーパス』創現社出版/1994年5月号掲載)

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 石原裕次郎が歌い大ヒットした『夜霧よ今夜も有難う』という歌がある。この歌を最初から最後まで、きちんと通して聞いたことがない事実に僕は気づいた。夜霧よ今夜も有難うと言うけれど、誰がどのような事情のもとに、夜霧に対して礼を述べるのだろうかと、小さな疑問が、僕の頭のなかにふと生まれた。レコード店でこの曲が収録されたテープを買い、喫茶店に入ってウォークマンでこの曲を聞いた。小さな謎はすぐに解けた。ふたりは、自分たちが恋人同士であることを、おおっぴらには人に言えない事情の中にある。そのようなふたりにとって、夜の霧は人の目から自分たちを隠し匿ってくれているようで、うれしい。今夜もその霧が出ている。……『夜霧よ今夜も有難う』は、男同士の歌だともっとも面白い、と飲み終えたコーヒーとともに、僕は思った。男どうしの歌として受けとめるなら、この歌は、まったく異なった質感や情感の世界の歌として、生まれ変わるのではないか。

(『月刊オーパス』創現社出版/1994年6月号掲載)

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 どこといって取り立てて欠点らしいところはなく、器量も人並み以上だが、自身の姿を鏡の中に見るのが恥ずかしく、また人に見られることを恐怖と感じる三十四歳の由美子。今で言えば対人恐怖症あるいはアスペルガー症候群に近い彼女だが、性に対する渇望がないわけではない。早く結婚をして落ち着いてほしいという両親の説得で見合いの席に出掛けた由美子は、相手に気に入られ、結婚式を済ませたのち小豆島へ新婚旅行に出かけていく。そこで彼女を待ち受けていたものとは? そして彼女の決断は……。「娘の結婚」という戦後日本のフィクションのひとつの定型とも言える物語をベースに、一人の女性が抱えるものと、世間が要求する結婚という概念との対立を、若き日の片岡義男が「テディ片岡」名義で書いた短編。

(『推理』双葉社/1971年3月特別号掲載)

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 事務機器のセールスマンをしている寺本浩一は、出張先で泊まったホテルで、カナリアが入っている鳥籠を持った少女に話しかけられる。子供の夏休みが始まったばかりのこの日、ホテルでの宿泊客は彼と、少女の4人家族の2組だけだった。その夜、寺本は少女の父親とホテルのバーで1杯だけウイスキーを飲みながら、お互いの家族の話をして別れる。その翌日の午後、寺本は移動中の自動車のカー・ラジオであるニュースを耳にする。前半の何気ない周囲の様子の描写から細かく張られた伏線と、その回収を寺本の心理状態の変化で描いた短編ミステリ。「テディ片岡」名義で掲載された。

(『推理』双葉社/1971年5月特別号掲載)

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2024年4月12日 00:00 | 電子化計画

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