【特集】12.8 真珠湾攻撃 映画で読む、あの頃の日本
太平洋戦争の始まりとなった1941年12月8日の真珠湾攻撃から83年。当時のことを覚えているのはもう90歳以上の方々が中心、という時代になっています。1939年生まれの作家・片岡義男もまだ幼児であり、当時のことを直接知る世代ではありません。しかしハワイに官約移民として移住した祖父と、ハワイ生まれの父親を持つ片岡にとって真珠湾での出来事は、自身の物心がついたという1945年8月6日の出来事まで地続きとなっています。
今回の特集では片岡義男の『映画を書く』(2001)から、日本がハワイの真珠湾でアメリカの太平洋艦隊を奇襲攻撃した年から戦中、そして終戦直後までの時期に公開された映画作品について書いた評論を主にご紹介します。国が戦争にひた走っていく中で、映画の内容やテーマがどのように変化をしたか、当時の人々の暮らしぶりがどのように描かれていたかを片岡義男が「描写」します。
1)「大変なときに生まれたね」
片岡義男が生まれた1939年の日本がどんな状況だったかは、1975年の夏、当時担当していたFM番組『きまぐれ飛行船』のインタビューで横溝正史さんの別荘を訪れた際のことを書いたエッセイに書かれています。横溝さんに「君は何年に生まれたの?」と聞かれた片岡は生まれた年(昭和14/1939年)を答えます。「大変なときに生まれたね」はその際の横溝さんの言葉です。このエッセイでは当時の日本国内の物資事情を資料をもとに時系列で追いながら、いかに「大変」な時代であったかを追体験します。
2)「『純情二重奏』一九三九年(昭和十四年)『兄とその妹』『東京の女性』『新女性問答』『暖流』」
片岡義男が生まれた昭和14(1939)年、日本は急斜面を転げ落ちるように戦争に突き進み、様々な面で国による統制や制限が行われていきました。9月には第二次世界大戦が始まり、日常生活に必要な物資もその多くが配給制となっていきますが、そうした現実がひとつも出てこず、夢や憧れを描いた音楽映画や恋愛映画、女性を主人公とした映画などが作られ、上映されていました。この年に公開された『純情二重奏』『東京の女性』など5作品から、当時の風俗や女性たちの生き方、考え方を読み取っていきます。
3)「『結婚の生態』一九四一年(昭和十六年)」
石川達三の自伝的作品を原作とした家庭劇で、原節子がヒロインを演じています。この年の12月、日本軍はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃してイギリスとアメリカに宣戦布告をします。この映画の中で庶民の厳しい暮らし向きが語られるのはわずかであり、国策への迎合も見られますが、男性が出征する中、市民生活の中で女性が少しづつ前面に出てくることによる「新たな物語」を作ろうという制作者たちの模索はあったのだろう、と片岡は推測します。しかしある1組の夫婦という小さなドラマに視線を向けさせることによって、国家が破綻していくプロセスには目を瞑り、逆に加担させられたのではないか、とも言います。
4)「『ハワイ・マレー沖海戦』一九四二年(昭和十七年)」
『ハワイ・マレー沖海戦』は開戦一周年を記念して昭和17(1942)年に海軍省の命令によって東宝映画が製作、同年12月3日に公開された国策映画です。実際にはその年の6月、ミッドウエーで日本軍はアメリカ軍に大敗。8月にはガダルカナル島での戦いが始まり12月に日本軍は撤退、太平洋戦争での攻守が転換した年と言われています。この映画の特撮は円谷英二が担当していますが、戦後押収したフィルムを観たGHQは、飛行機の編隊がハワイの山間を飛行する場面を実際の記録映像だと信じ込んだという逸話があります。
5)「『ハナ子さん』一九四三年(昭和十八年)」
1942年6月、日本軍はミッドウェー海戦で大敗北を喫します。そして翌1943年1月、ニューギニアの日本軍は全滅し2月にはガダルカナル島から撤退します。そんな中で公開された映画『ハナ子さん』の冒頭には「撃ちてし止まむ」の言葉がありました。映画自体は戦意高揚のためのミュージカル映画でしたが、それでも検閲で多くのシーンがカットされたと言われています。隣組、召集令状、バケツリレー、空襲警報など、戦時下での庶民の日常も描かれますが、そこには正しい情報を国から遮断された、素朴で善良で無防備な多数の人たちの姿がありました。
6)「『熱風』一九四三年(昭和十八年)」
九州の製鉄所を舞台としたこの映画は『ハワイ・マレー沖海戦』のような戦場ではなく、市井の「銃後の戦士たち」を描いた物語です。戦争遂行に必要な鉄の生産を行っている製鉄所で増産を阻み、「魔の溶鉱炉」と呼ばれている溶鉱炉のひとつに挑む人々を描く戦意高揚映画であり、当時の他の映画同様「撃ちてし止まむ」の言葉が最初に画面に登場します。片岡は「女性が登場する余地がない映画」と言いますが、それでも女性が働いている姿が描かれているのは、この翌年に「女子挺身勤労令」を発令した国家の意思に事前に合わせたのだろう、と推察します。
7)「『東京五人男』一九四五年(昭和二十年)」
映画『東京五人男』は横山エンタツ、花菱アチャコ、古川ロッパなど当時の有名コメディアン5人を主役に据え、戦後間もない1946年の正月映画として公開された喜劇です。当時、映画はGHQの指導管理下に置かれており「自由と民主を旨とせよ」とされていました。片岡義男はそうした環境で公開されたこの映画について、「ある日を境にして突然に民主主義になった日本の、庶民の次元での民主主義の理解や実践の程度に関する戯画」であり、そこに映し出される生活物資配給のシステムや役人の対応は、今現在の日本の現実でもある、と書いています。
8)「広島の真珠」
広島の真珠というタイトルは、広島の原爆資料館を取材した『ライフ』の記者、ロジャー・ローゼンブラットが語った「ノット・ア・シングル・パール・イン・ヒロシマ(広島に真珠はひと粒もなかった)」から採られています。どんな事態にせよそれを引き起こした原因つまりコーズと、引き起こされた結果であるエフェクトとは常に一対になっており、社会や世界のなかで起こるすべての出来事の基本は、コーズとエフェクトとの連鎖である。戦争もそうだ、と彼は語りました。この一言は、原爆投下という悲惨な現実を体験した私たち日本人が忘れてはならないものであると同時に、今この瞬間にも報復の連鎖が続いている、現在の世界でも忘れてはならない言葉ではないでしょうか。
■And one more thing...
日系二世の父親を持ち、日本とアメリカ双方の文化を浴びて育った片岡義男。彼が自身のエッセイ作品の多くで戦後とアメリカにこだわるのは、真珠湾から始まった日米戦争の終わりを象徴する「原爆の光」を子どもの頃に見たことも無関係ではないでしょう。その原爆の生みの親でもある、ロバート・オッペンハイマーを中心に進められた「マンハッタン計画」の全貌を知ることができるのが『ヒロシマ・ナガサキのまえにーオッペンハイマーと原子爆弾ー』です。
今年、ノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が選ばれました。選考委員会はその理由について「日本被団協は“ヒバクシャ”として知られる広島と長崎の被爆者たちによる草の根の運動で、核兵器のない世界を実現するために努力し、核兵器が二度と使われてはならないと証言を行ってきた」と評価しました。被爆者を生み出した、その原点は一体どこにあったのか……。この本でご確認ください。
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