
わたしの片岡義男 No.18大竹昭子「写真の無意識に導かれて」
週末の夕方、学芸大学駅前のビストロで食事をし、食べ終えて外に出ると、東急目黒線に乗れば家のある四谷まで一本で帰れるのに気がつき、沿線のどこかの駅まで歩くことにした。地図もスマホも持たずに、おおよその見当をつけて歩きだしたところ、途中で興味深い道に入ったりするうちにわけがわからなくなった。道が錯綜している上に、もともと不案内なエリアであり方向感覚がない。最後は歩きつかれて通りかかったバスをつかまえ目黒駅に出て帰路についたのだったが、迷いつつ歩いたその夜の道行きはすばらしく、これほど確かな歓びがほかにあるだろうかと叫びだしたいほど満ち足りた気持ちになった。
いま『東京22章』を開きながら、その夜の記憶がひたひたと押し寄せてくるのを感じている。一枚一枚の写真があんなにも興奮したわけを耳打ちしてくれているようで、息をひそめてページを捲っている。あのときは夜だったが、これらの写真は日中に撮られている。でも昼夜のちがいなんて些細なことだ、と感じてしまうのは、どの写真にも人影がないからかもしれない。

最初の写真は、ゆるやかに下る坂道とその脇に立つ電信柱を撮ったものだ。ページいっぱいに縦位置に配置され、対向ページには電信柱についての文章が載っている。その中ほどにこのように書かれているのを発見して深くうなずいた。
「それらすべて(の電信柱)を、幼い頃から何度となく繰り返し見た僕は、ついには電柱を自己の無意識とするまでになった。
この電柱からあの電柱へ、そして次はその電柱へと、突きささってつらなる電柱によって、僕の無意識は導かれていく。どこに導かれていくのか。」
自分のふるさとである東京の「忘れがたさ」を作っているのは電信柱であり、もし故郷の風景を写真に撮るとしたら「その光景は電信柱なしには成立しない」ことを、彼は写真を介して悟るのだ。
トタン壁、板塀、すだれ、商店前の「ラーメン」「お弁当」ののぼり旗などがつづくが、どれも繰り返し見つづけたために「見なく」なってしまったものばかりだ。カメラを携えた散策は、手ぶらの散策とは少しちがう。撮ろうという意欲を心の片隅にしのばせて歩くから、それまで意識から抜け落ちていたり、視界から排除していたものがすっと寄ってくる。こんなところにこんな建物があった、この壁こんな色をしていた、とシャッターを切るごとに意識が解き放たれ、足が前に運ばれる。片岡さんはその快感をよくわかっている人である。無意識の領域を意識化するという欲求をほかのだれよりも強くもっているからかもしれない。
いまはスマホの時代だが、カメラ機能がついているくらいではこうした意識の変化は望めないし、ものの見え方は変わらず日常のままなのは、バッグに鉛筆が入っていてもスケッチしようと思わないのと同じだ。撮ることに特化された道具を手にすることで脳内環境が変わるのである。
このときレンズを通して物や風景に注がれる眼差しは〈筏〉のようなものとなる。見ることにより意識に流れがうまれ、この身が運ばれていく。運ばれること自体が歓びなのだから、どこにいるかは気にしないし、地図で位置を確認するなどという野暮なこともしない。
歩き終えると、撮れた写真を見て〈筏〉の時間をたどる。撮っただけなら再び無意識の底に沈み込んでしまうかもしれないものが、見返されることでいまに逆流し、新たな地平へと連れていく。写真のいちばんの強みは実はここにあるのだ。
「僕は最初から気づいているタイプではなく、途中から、あるいはずっとあとになって、ようやく気づく」と彼は書くが、これはまさにこの行為の意義を言っている。無意識の川から拾い上げたイメージは見返されることで「故郷の風景を写真に撮るとしたらその光景は電信柱なしには成立しない」という言葉になる。見ただけなら忘れてしまうことが、写真に写されたことでよみがえり、膨らみ、認識につながる。
認識とは言葉でなされるものだから、それが文章へ、小説へと発展することもあるだろう。ただここで重要なのは、言葉のためにイメージを探し歩くのではなく、無意識に導かれた結果としてそれを手にすることである。まず街路に立つ身体があり、それが動くことで変化する外界がある。両者の関係をインテリア(無意識)とイクステリア(街路)と言い換えるならば、ふたつが接触する場こそが写真の出生地なのだ。彼の手足が、いや手足のみならず脳も含めたすべてが動員されて往復運動がおこなわれる。新たな認識を生み出す創作エンジンがこのとき発動するのだ。
街路を歩きながらスナップする写真家に森山大道がいて、体の内部と外部を接触させて撮る点が共通している。でも、森山さんは写真が中心で、片岡さんは文章を書くことがメインだが、そのちがいはどこから来るのだろうと考えていて、以前、写真雑誌で片岡さんと対談したときに、彼がこう言っていたのを思いだした。
「ぼくは撮れた写真について言葉がつけられないといやなんです」。
無意識の状態で彷徨い、観察し、結果を見直し、ある認識が導きだせたときにはじめて体験がしっくりと身に収まる。
「作家・片岡義男」の出発点はこの実感のなかにあるような気がしてならず、しかもそれは彼が写真からおそわったものなのだと言いたい気持ちが私にはある。なぜなら自分自身がそうだったから。
作家 大竹昭子
今回の一冊 電子版『断片のなかを歩く』(2017年)
歩くのは道だけではない。空。光。月。駐車場。ビール。無関係な断片を歩く本をご紹介。
彼女と彼がいて、主役はやっぱり・・・ 彼女のほう
時間も場所も完璧に異なる断片が、次々に続いていく。
これが直線的な物語でないことはすぐにわかる。
しかし、ほんとうに完全にバラバラなのか?
複数回出てくるものたちに注意を向けたらどうか。
さあ、断片の中を歩いてみよう。