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1. 少年時代編

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 写真集『LONESOME COWBOY』の刊行、そして東京および大阪で行われる写真展の開催を記念して実施される「佐藤秀明・写真ものがたり」。
この企画では佐藤さんの写真作品をご本人とともに振り返りながら、少年時代から現在に至るまでを語っていただきます。第1回のテーマは「少年時代」。写真家としての道を歩み始めたばかりだった佐藤さんが収めた、昔懐かしい日本の姿をお楽しみください。
雨戸の節穴から漏れた光

 最初にこの写真からご覧ください。私が高校生の時に撮ったものです。1960年代、昭和35年頃です。場所は大和川。奈良から大阪に流れる川で、この場所は八尾飛行場の近く。写っている4人は近くの工場で働いてる人たちでしょうね。そういえば、この頃はどの自転車も大きな荷台がついていて荷物が運べるようになっていました。右端の人みたいに襟に手ぬぐいを巻いてる人もたくさんいましたね。
 当時私は父のカメラで撮って、写真屋さんで現像してもらっていました。この写真もそうです。高校時代から自分でもいろいろと現像をしてみたけど上手くいかなかったんです。だから今も残っているのは写真屋さんで現像してもらったものばかり。
 父は写真が好きで、オホーツクの流氷をよく撮っていたんです。仕事は新聞社のパイロットで、青函連絡船の洞爺丸が沈んだ時(※1954年)にカメラマンを乗せて浜に強行着陸して特ダネをものにしたという武勇伝もあるんですよ。
 その時のカメラマンとは生涯付き合いがあって、実はその人が僕の写真の先生なんです。槇野尚一さんという方で、しばらく朝日新聞で写真部のデスクをされていました。怖い人でしたね。
 僕はもともと小学校の頃から光に興味があったんです。例えば雑誌の付録で付いてくる日光写真の印画紙に手形を焼き付けて遊んだりしていました。そういうのが大好きで。特に印象に残っているのは小学校5年生くらいの時、付録で付いてきた現像セットですね。押入れにこもりきって、それはもう夢中になって現像しましたよ!
 それから、小学校に入る前は山形に住んでいたんですが、ぼろ家なものだから雨戸に節穴が空いていたんです。そこから漏れた光が障子にあたって外の画が投影されるのが見られたんですよ。針穴写真の原理ですね。不思議に思って見ていたけど、あとでカメラの原理を理解した時に「あの頃の興味が写真に繋がっていたんだな」と改めて思いました。
 実際に写真を撮り始めたのは中学の頃です。下駄箱の上に置いてあった父のカメラを勝手に持ち出したりしていました。高校の修学旅行に行く時には、自分用としてオリンパスペンをもらいましたね。「俺のばかり使うな。このほうがたくさん撮れるからいいだろ」と父から渡されたんですよ。
 ただ、その時撮った写真が残ってなくて……。あのカメラ片手にずーっと九州を回って、いい写真撮ったはずなんだけど。他にも、修学旅行でこっそりタバコ吸ってたところに先生が怒鳴り込んできた瞬間を撮ったり。いっぱい撮ったのになぁ……。

 同じ大和川での写真。アイスキャンディー売りのおばあちゃんです。のぼりの一番上に「衛生殺菌」って書いてありますよね。当時、アイスキャンディーで赤痢になったという事件があって「アイスキャンディーは食っちゃいけねぇ」とか言われていたんです。右端の乳母車のようなものは売り子のおばあちゃんが歩行補助に使ったり、キャンディーの箱を入れて運んだりしてたんでしょう。この乳母車といい自転車といい、今じゃまず見られない光景ですよね。
 この写真を撮った頃から「写真で食っていこうかな」って考え始めたんです。でも、撮ろうと思っても「撮らせてください」と頼むだけの勇気がないから少し離れて、向こう向いてる隙にサッと撮ったりしていたわけ。レンズも50mmの標準レンズ1本でした。この写真はすごく自然でしょう? 50mmっていうのはちょうど人の目と同じ視角だから自然に撮れるんです。
 写真を考察し始めるとレンズだとかいろんなものに凝り始めるんですが、そうすると変になっていくんです。まだ技術がそこに到達していないのに、レンズだけで変わったアングルや画で撮ろうという下心が写真に出てきてしまって。

 この写真もまた大和川の河川敷です。このあたりは木綿の産地で、河原に木綿を晒すのが名物だったんです。当時はこういう光景が一面に広がっていました。

 これは大学に入る直前、写真を真剣に取り始めた頃のものです。場所は大阪郊外。50mmレンズ特有の味があっていい具合です。
 昔は日本中にこんな風景があったんです。きれいな水が流れていて、小鮒を捕って歩くのが楽しいんだ。真ん中にいる少年が何か狙っているじゃないですか、ちょうどああいう感じでね。

人知れずスッと撮ってしまう芸術

 日大の芸術学部に入る予定で東京へ出てきた時に撮ったものです。東京が嬉しくてしょうがないから、電車であっちへ行ったりこっちへ行ったりして色んな写真を撮ったんですよ。
 場所は木更津。この子たちが砂のお城みたいなのをこしらえてて、波が来て崩れた瞬間の写真。昭和35〜36年です。

 こんなふうに地引き網を引いている人たちもいました。男の子たちも一所懸命手伝ってるね。
 この頃は田舎と東京ではファッションもまるで違っていました。東京に行くってこと自体大変なことで、情報も今みたいには伝わってこなかったから。
 ご覧いただいている写真には人を写したものが多いですが、特に意識的に人ばかり撮っていたわけじゃないんです。でも、撮ったものをあとで伸ばしたりすると風景より人のほうが面白くって。「ああ、こんな人がいたな。こんなことやってたな」って。

 この頃は写真の構図として下を広くとるのが好きでしたね。さっきの子供たちの写真も下の砂浜が多かったじゃない。「撮ってる意味があるんだぞ」という撮り方でしょ、なんとなく。
 漁師さんがアルマイトの弁当箱でご飯食べているのを見かけたから「いいシーンだな」と思ってすかさず撮ったんです。今は肖像権だとかすごくうるさいけど昔はそれほどじゃなくて、撮られることが嬉しいって人もたくさんいたんです。ジャンルとして「キャンディッド・フォト」(candid photo)っていうものまであったほどで。
 キャンディッド・フォトっていうのは、要するに「人知れずスッと撮ってしまう芸術」。その人が知らない間に一番自然な姿をスッと撮るという写真です。そういう写真の先生がアンリ・カルティエ゠ブレッソンだったり、ああいう人たちですね。
 今はそれができなくなってるんですよ。人に声をかけて「撮らせてください」なんて言ってから撮る写真は実のところ偽物じゃないですか。

 たぶん、後ろにいるあの男の子は観光客ですよ。右の子とは着てるものが違う。靴をちゃんと履いてチョッキを着て。
 おばあさんが複雑そうな顔をしていますよね。このなんともいえない距離感も標準レンズの良さですよ。遠慮しつつ、かといって興味があるから近づきたい。そんな感じをほどよく撮れるんです。

雪、ホコリ、戦争未亡人

 大学1年の時、北海道で撮った写真です。何かのイベント会場と町を結ぶ馬車が吹雪の中を走っていたんです。この時いい写真が撮れたんだ。次、いい写真が出てくると思います。

 この姉妹、見てよほら! この写真は流石に「撮らせて!」と頼んで撮らせてもらったんだけど、はにかんでちょっと嬉しそうでしょ。よく見たら下の子が鼻水垂らしているんです。しかも両鼻から(笑)。
 この写真だと下の子が5歳で上の子が7歳くらいだろうから今は70歳ぐらいかな。まだ生きてるでしょうね、この子たち。

 これも何かのイベントに来てたおじさんですね。髭はやしてかっこいいね。日本人離れした顔立ちだしアイヌの人かもしれないです。撮ったのは濤沸湖(とうふつこ)のあたり。この時も吹雪いてたんですよ、ビューって。

 ほら、この子も鼻が出てますよ。僕が小さい頃は田舎でも都会でもこういう子が典型的でした。袖で鼻を拭いちゃったりするからみんな袖がテカテカになっていました(笑)。
 少し坂になっている場所で、ソリで滑って遊んでたんです。

 これは大学2年の時、札幌郊外。ナンバープレートに小さく札幌の「札」って書いてあります。周りを見てください。当時は高い建物がなくて、こういう木造の家がザーッと続いていて、だから遠くからでもバスが土埃をもうもうと立てて走ってくるのが見えたんです。
 その頃よく北海道に行っていたんですよ。バイトで稼いじゃ夜行列車で。

 これも札幌です。もう決死の思いで撮りました。シャッ!って。実際はこの二人以外にもたくさん靴磨きが並んでいたんです。当時は戦争で夫を亡くした女性がいっぱい外で働いていて。札幌か苫小牧でメーデーの集まりがあった時もほとんど女性でした。男は少なかった。みんな戦争で死んじゃったんだと思います。

多摩ニュータウン前史。そして薬莢の思い出

 これはどこかの団地。具体的にどこで撮ったかまでは覚えていないんです。新しく団地というものが登場して脚光を浴びつつある時で、こういうものがあちこちに続々と出来たんです。壮観でしょ。
 僕が中高生の頃、西宮で住んでいたのもこういう建物で、屋上の金網にストライクゾーンを書いて野球の練習をしたりしたなぁ。ボールを投げるとカシャーンって音がして、下の人から「うるさい!」って怒られたりもしました(笑)。

 これは霞ヶ浦、大学1年の頃かな。帆曳漁(ほびきりょう)といって、今でも観光客とか写真愛好家のためにやることがあるんです。霞ヶ浦名物ですよ。やる時はカメラマンがどーっと集まってきて撮っています。

 松坂屋の配達員。御徒町(おかちまち)あたり。こうやって自転車で走って配達していたんですよ。

 崖っぷち。多摩ニュータウンの造成地で、最後まで居残って頑として立ち退かなかった農家。嫌味でこんなに周りを削っているんです。
 よく撮りに行きましたよ。新しくすごい団地が出来るというので見物に。昔は丘陵地帯で、こんなわらぶき農家が残っていたりしてすごくいい所だったんです。
 この近くには米軍の射撃場があって、小学校の頃はそこへ薬莢拾いに行ったりもしました。拾った薬莢や銅線は鉄クズ屋に売って小遣いにするんです。買ってくれない鉄釘とかまで「これは重要だ」とか言って拾い集めて遊びに使っていました。大きな鉄釘はレールの上に置いて電車に押しつぶさせるとナイフみたいになるんです。それを投げて遊んだりしました。
 他にも、線路に耳をつけて電車の音がカタカタと聞こえてきた時に鉄橋を渡るっていう度胸試しをやったりしてたなぁ。今考えると危ない遊びばっかりですね(笑)。

 江ノ島。奥の二見館という旅館は今はもうなくて、代わりに豪華な温泉が建っています。手前の二人の格好あまりにも大胆なものだから、後ろの自転車のオヤジが思わず振り返ってますよ。「近頃の若いやつらは……。あんなに前はだけやがって」って顔してますね(笑)。
 当時は映画の『太陽の季節』が流行っていまして、影響を受けて真似する奴がたくさんいたんですよ。「太陽族」なんて呼ばれていましたね。

 これも大学時代ですね。鎌倉の建長寺です。大学に入るとレンズとかも揃ってきますので、こういったしゃらくさい写真が出てきます。
「いい写真を撮ってやろう」っていう意気込みがだんだん出てきた時です。この写真は学校の自由課題で出したものなんですが「これは俺が撮ったんだ」「おお、いいじゃねーか」なんていって仲間に見せびらかしていました(笑)。
 仲間が撮っていたのはコマーシャル写真がほとんどで、僕みたいな外に出てパシャパシャ撮ってくるタイプの写真家は珍しかったんです。なんせ、コマーシャル写真が一番お金になる時代だったから。

大正を生きた女流写真家

 これは新潟の燕駅、僕の生まれ故郷です。大学3年生くらいになって、卒業制作を何にしようかと思い始めた頃の写真ですね。
 燕は当時、洋食器産業が盛んで、日本から輸出される洋食器の90%が燕で作られたものでした。それで毎朝燕駅からは工場で働く人たちがザーッとなだれ出てきたんです。
 僕の実家は元写真館なんですよ。屋根から自然に光が入って来るようにこしらえてあるし、廊下には乾板がズラーッと立てかけてあって、カメラもすごく大きなやつがあった。ちょうど駅が見える位置にベランダがあって、そこから望遠レンズで撮ったのがこの写真です。
 経営していたのは僕の祖母なんですが、昔はすごく儲かったそうですよ。今みたいにパシャッと撮ってすぐ終わりとはいかないから、泊まりで順番待ちするほどだったとか。寝泊まりできるように、みんな馬車に布団を積んで写真を撮りに来ていたそうです。
 祖母が写真館を始めたのもお金を稼ぐためでした。好きな男の夢が歯医者になることで、そのために東京の歯医者の学校を出なくちゃいけなくて。彼の学費を稼ぐために、新潟の写真館に弟子入りして写真家になったんだそうです。実はその好きな男というのが僕のおじいさんなんですよ(笑)。
 おじいさんが歯医者になって帰って来ると同時に写真館は畳んだんだけど、家の造りは全部写真館の造りのままだったし、いろんな道具が残ってた。もったいないことに僕がニューヨークに行ってる間に伯父が全部売り払っちゃったんだけど。
 写真館を畳んだ後も、祖母はやっぱり写真が好きだったようです。桜を撮るのが好きで、道具を抱えて人力車に乗ってる写真を見たことがあります。それから、晩年入院してる病院に見舞いに行ったら突然「秀明、お前フィルムの現像液は何使ってるんだ?」と聞かれて「76(ナナロク)っていう現像液を使ってるよ」って答えたら「あれは良い現像液だ」って。そんな会話をしたこともありました。祖母の時代からずーっと使ってる現像液なんですよ、コダックの76って。

故郷 新潟・燕の風景

 これは燕の洋食器工場。職人の前にある大きな丸いものはヤスリですね。ピーっていう金属音が鳴っていました。
 最初にニューヨークに行った頃はまだ燕の洋食器がかなり輸出されていて、僕が入ったレストランの食器にも “made in Tsubame” って書いてあったんです。それを見た時は嬉しかったな。「おーっ! 僕のふるさとで作られたものだ」って。こういう工場で作られたものがはるばるニューヨークにまでたどり着いたんだと思って。

 これも燕。町から一歩出ると穀倉地帯。燕はこういう所に行っても後ろのほうからプレス音と研磨のキューンという音が聞こえてくるんです。
 この並木は稲架木(はさぎ)といってこれに稲を干すんです。昔は平野じゅう見渡す限りに稲がぶら下がっていたんですが、今はもう稲架木自体がないんですよ。
奥に見える左の高い山は弥彦山(やひこやま)、右の方は角田山(かくだやま)。僕はその合間を通って向こうの海へ遊びに行ったりしました。

 新潟の内野っていうところの漁港です。ここへ時々バケツを持ってカニを買いに行きました。バケツ1杯千円で買えたんですよ。それを茹でて腹一杯になるぐらい食べました。
 左端の赤ちゃんは頭の後ろをきれいに刈り上げている。『サザエさん』によく出てくる髪型ですね(笑)。バイクの横に立ってるおじさんは地下足袋にハンチング帽を被って、手ぬぐいを腰に挿して、この頃の人の典型的な出で立ちですね。
 一見すると、とんでもなく昔に見えるでしょ? でもそんな昔って訳じゃないんですよ。車もバイクもちゃんと走ってるしね。

 燕の駅前。通勤ラッシュが終わると、行商人が魚や野菜を売りに来ました。こうやって3人一緒に駅を降りてきてここから分かれていくわけです。売り場が重なっちゃまずいですから。東京でも両国あたりに行くとこんな行商人がたくさんいました。
 見てください、下の路面。舗装が剥がれて水溜まりが出来てる。まだ、戦争が終わって間もないからきれいじゃないんです。

 上野です。修学旅行の最後にここで集合するんですよ。おみやげをいっぱい買って。修学旅行生だから高校3年生でしょうね。左の子たちは髪も伸ばしているし女の子かな。右の男の子たちが着ている少し丈の短いコートは、ダスターコートといって当時流行っていたんです。きっとみんな、東京を実際に目にして「卒業したらこっちに来た方がいいかな?」なんて思ってるんでしょう。

 26枚の写真を見ていただきました。私が少年時代に見てきたものです。そして、今では全てが失われてしまったものです。40〜50年前の昔を知る人にとってはとても身近な、しかし、今はもう写真の上にしか存在しない光景です。でもこうして写真の中にある当時のままの世界を見ていると、シャッターを切ったことがつい昨日のことのように思えて仕方がないんです。

次回はアメリカ編part1


2018年11月9日 12:31

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