884編公開中。 今を映す手鏡のように
2000年 の一覧
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2017.7.4
すべての価値は個人から始まる
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 アメリカ的な価値を主題とした、さまざまな文章を集めたアンソロジーだ。隅から隅まで熟読して確認できるのは、アメリカ的な価値という力はすべて個人から出発する、という厳然たる事実だ。それまでは存在しなかった新しい価値は、個人…
2017.6.30
会社で学んだこと
縦書き
 会社に就職するとどうなるのかという僕の好奇心に、わずか三か月ではあったけれど、会社は充分に答えてくれた。会社に入って最初にわかったのは、ただの新卒はほとんど人ではない、ということだった。新卒はまず会社の備品になる。備品…
2017.4.25
人生階段のぼり降り
縦書き
 東京の階段は写真の被写体になり得る。いろんな写真を撮ることが出来る。なぜ誰も撮らないのだろうか。東京で過ごした人生の、現実と自分との折り合いの収支決算は多少の赤字だがそれはまあいい、というような写真の主役として、階段は…
2017.4.21
平成十一年の五つの安心
縦書き
 平成十年に日本で首相を務めている人物が、自らを「ヴォキャ貧」であると評したことは、日本にとって記念すべき出来事だ。戦後の五十数年を体験してきた日本がついに到達した、マイナス領域におけるひとつの頂点だ。  平成の十一年め…
2017.4.18
いつもの自分の、いつもの日本語
縦書き
 かつて日本の首相がアメリカのTV局で時局討論番組に出演したとき、放映されたその番組を僕は見た。このときのこの番組に対する、あるひとつの視点からの感想は、すでに別の本に書いた。今度は別の視点から、さらに少しだけ書いておこ…
2017.4.12
明日もたどる家路
縦書き
何点かの写真を連続させてひとつのフィクションを作ることが出来る。ここにある十六点の写真〔ページ末参〕は、1から16まで連続させることによって、家路というフィクションになっている。自宅の最寄り駅を出て駅周辺の商店街を抜けて…
2017.4.2
書き順と習字(2)
前回|1|  なにごとも適当でいいとは、ごまかす、さぼる、ずるく立ちまわる、というようなことではない。自分に出来る範囲が自分であるという決意、つまり、そのときの自分自身を、いったんは全面的に肯定することだ。  入学式のあ…
2017.4.1
書き順と習字(1)
 僕が小学校に入る日が近づいてきていた頃について、いまの僕は思い出そうとしている。かなり昔のことだ。充分に遠い。忘れてしまったことが多い。忘れてはいないまでも、記憶は淡い。淡さは不正確さでもあるだろう。  というようなこ…
2017.3.31
忘れがたき故郷
 二〇〇〇年の残暑の日、僕はここにある九点の写真を撮った。九点のうち七点までは、東京の世田谷のとある一角でのものだ。残る二点はおなじ東京の別の場所で撮った。東京を生地とする僕にとって、この九点の写真を撮った場所は、故郷と…
2017.3.28
梅ヶ丘まで歩いて七分
子供の頃から三十代の終わり近くまで住んだ場所から、小田急線の梅ヶ丘駅まで、歩けば七分くらいだったと思う。故郷のすぐ隣が梅ヶ丘だ。いまでもそのくらいの親近感は続いている。 高校生の頃に自転車で学校へいくには、自宅を出てすぐ…
2017.3.26
察し合いはいかに変形したか
 思いやり、という言葉が日本で死語になる日が来るだろうか、と僕は自問する。思いやりという言葉はとっくに死語になっている、と僕は答える。思いやりとは、なにか。思いをやることだ。自分の思いを、他者にやること。やるとは、おこな…
2017.3.23
赤い矢印文化圏
 東京のどこを歩いても、とにかくいたるところに赤い矢印がある事実を認識している人は、思いのほか少ないのではないか。数は多いしどこにでもある、そして多数の赤い矢印がどこにでもあることが当然のようになってもいるから、視覚では…
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