972編公開中。 今を映す手鏡のように
記憶 の一覧
2018.1.29
「リーヴィング・ホーム」
縦書き
 タイトルのリーヴィング・ホームは、直訳的な理解だと、家を去る、という意味だが、このアニタ・ブルックナーの二〇〇五年の小説の文脈では、家を出る、と解釈しておくといい。そしてこの場合の家とは、母親と同義だ。母親といっしょの…
2016.12.10
だから三歳児は泣いた
縦書き
 二十五歳のとき、僕は自分の写真をすべて捨ててしまった。ゼロ歳から二十五歳までのあいだに、僕の手もとにいつのまにか蓄積した写真、たとえば誕生日に撮った写真やどこかへ旅行したときの記念写真、親戚の人や友人たちが、なにかのと…
2016.9.17
なぜいま僕はここにいるのだろうか
 尾道は三度めだ。最初は僕が六歳か七歳の頃、父親の運転する米軍の車で通り抜けた。敗戦後まだ日の浅い時期だ。夏の暑い日だった。二度めは三年まえ、ある雑誌の連載記事の取材のため、編集者そして写真家とともに、坂の町と誰もが言う…
2016.9.13
後悔くらいしてみたい
 後悔にはふたとおりがある。ひとつは、過去において自分がしたことをいまになって悔いる、という種類の後悔だ。そんなことをするとあとで後悔するよとか、あんなことをしてしまって後悔してるんだ、といった後悔がこれにあたる。もうひ…
2016.9.6
僕はチェリーを忘れてた
縦書き
 東京でいちばんおいしいピッツアの店、と僕がいつも言っているピッツアの店で、何とおりかの前菜のあと、直径三十センチのピッツアを四人がかりで四枚、たいらげた。デザートにはエスプレッソ、そしてアイスクリームにチェリー・シロッ…
2016.9.4
蟹に指をはさまれた
 四歳のときに僕は東京から瀬戸内へ移った。初めに住んだのは祖父が作った大きな家だった。二階からは目の前に瀬戸内の海が見え、うしろは裏庭のいきどまりが中国山脈の山裾の、始まりの部分だった。その家の前に川があった。地元の人た…
2016.6.14
虚構のなかを生きる
 写真機を持って東京のあちこちを歩いているとき、僕は歩くことと考えることしかしていない。だからそのときの僕は人生時間のただなかにある。僕は人生時間と一体化している。そしてその僕は、これは写真に撮っておきたい、と思う光景を…
2015.12.11
映画とヒット・ソングと、大事な彼女
 一九五〇年代のことを覚えているかい、とぼくがぼくにきく。覚えているさ、とぼくは答える。覚えているよ。たとえば、どんなことを?  ほんの少年でしかなかったのだが、記憶の奥深くまで入りこみ、いまもそこにとどまっている楽しい…