884編公開中。 今を映す手鏡のように
言葉 の一覧
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2017.9.26
言葉を捨てた人たちの便利機能満載機種
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 僕はいまこの文章をオアシス・ライトのもっとも初期のワープロ(以下、WPと略す)を使って書いている。どこを捜してもいまはもう見つけることの難しい旧タイプのものだが、短いエッセイを書くにはこれで充分なので、いまでも使ってい…
2017.5.11
鮎並の句を詠む
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 鮎並と書いて、あいなめ、と読むらしい。当て字だろう。電車のなかに吊ってあった清酒の広告で、初めて知った。誰が見ても鮎並にしか見えない魚が一尾描いてあり、俳句がひとつ添えてあった。鮎並の皮の旨みのじっんわりと。こういう俳…
2017.4.23
世界はすべて片仮名のなか
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 日本語には片仮名という書きかたがある。どんな外国語であろうとも、おおよそのところでよければ、その音を片仮名で表記することが、じつにたやすく可能だ。僕の好きな冗談のひとつに、全篇を片仮名書きした『風とともに去りぬ』という…
2017.4.21
平成十一年の五つの安心
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 平成十年に日本で首相を務めている人物が、自らを「ヴォキャ貧」であると評したことは、日本にとって記念すべき出来事だ。戦後の五十数年を体験してきた日本がついに到達した、マイナス領域におけるひとつの頂点だ。  平成の十一年め…
2017.4.20
主体的に判断しながら様子を見る日本
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二〇〇三年十月二十九日  いわゆる国際社会、つまり世界各国の複雑微妙な関係の重なり合いのなかで、日本はどのような考えにもとづいてどの位置に立ち、どんな方向に向けてなにをしようとしているのかといったことがらをめぐって、次の…
2017.4.19
言葉はきわめて人工的に身につく
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 言葉というものは誰もがいつのまにか自然に身につけていくもの、と信じて疑わないのが日本人だ。生まれてからの自分の身辺に続く日常生活という成りゆきのなかで、人は言葉を覚えていく。三歳児になると二千語を覚えていて、三歳児なり…
2017.4.18
いつもの自分の、いつもの日本語
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 かつて日本の首相がアメリカのTV局で時局討論番組に出演したとき、放映されたその番組を僕は見た。このときのこの番組に対する、あるひとつの視点からの感想は、すでに別の本に書いた。今度は別の視点から、さらに少しだけ書いておこ…
2017.4.17
ペラペラとはなにだったか
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 英語がペラペラ、という言いかたがある。なにを言っているのか自分にはわからないが、日本人が外国人と英語で滑らかにコミュニケートしている状態に見えるとき、その日本人の英語はペラペラである、と表現されてきた。まったくたいした…
2017.4.14
縦書きか横書きか
縦書き
 メモや下書きを書くとき、僕は横書きしている。いつ頃からそうだったのか、もはや自分にもわからないほどのずっと以前から、メモや下書きのようなものすべてを、僕は横書きにしてきた。あらゆる文章を横書きするわけではない。メモや下…
2017.3.26
察し合いはいかに変形したか
 思いやり、という言葉が日本で死語になる日が来るだろうか、と僕は自問する。思いやりという言葉はとっくに死語になっている、と僕は答える。思いやりとは、なにか。思いをやることだ。自分の思いを、他者にやること。やるとは、おこな…
2017.3.25
なにも言わない人(2)
前回|1|  他者との関係ごとに相手および自分の呼称を変化させつつ、自分への利益の誘導にかまけ続け、したがって現実と立場とを離れることのついにない、小さな小さな自分という人。そのような人が、日本語世界で日本語を使う、最小…
2017.3.24
なにも言わない人(1)
 戦後の日本人にとって、人生とは会社に勤めることだったようだ。なんらかの会社組織に雇用されてそこに所属し、仕事をして給料をもらい、なおかつ生活のほぼ全領域を会社に依存させること、これが戦後の日本人の人生だった。どこからも…
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