973編公開中。 今を映す手鏡のように
社会 の一覧
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2019.7.19
僕の国は畑に出来た穴だった 3
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前回(2) この作品は、『日本語の外へ』「第2部 日本語──ペシミズムを越えようとしていいのか」 に収録されたものです。 3  幼い僕が初めて自分の国というものに気づいたら、その国は戦争をしていた。戦争をしていたという言…
2017.9.26
言葉を捨てた人たちの便利機能満載機種
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 僕はいまこの文章をオアシス・ライトのもっとも初期のワープロ(以下、WPと略す)を使って書いている。どこを捜してもいまはもう見つけることの難しい旧タイプのものだが、短いエッセイを書くにはこれで充分なので、いまでも使ってい…
2017.8.29
家庭から遠かった男たち
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 自分の家庭以外のところで食事をすること、たとえば街の軽食堂で昼食にせよ夕食にせよ、一回の食事としてなにかを食べることは、子供の頃の僕にとっては、家庭を中心とした日常のなかに成立しているルーティーンから、明らかに逸脱した…
2017.8.27
『女が階段を上る時』
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一九六〇年の日本でバーが全盛期を迎えた。 会社勤めの男たちがもっとも安心して寛げる場所だった。 『女が階段を上る時』という作品に関して、書きたいことはさほどない。このような映画を僕は苦手としている。つまらないから、という…
2017.8.9
『ハナ子さん』一九四三年(昭和十八年)(2)
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前回(1)はこちら  隣組とは、昭和十五年に日本国家が制定した、最末端の一般市民組織だ。政府からの伝達を伝え合ったり、生活物資を配給したりするときに機能したそうだ。国民をひとからげに管理しようとした国家の試みのひとつだ。…
2017.8.8
『ハナ子さん』一九四三年(昭和十八年)(1)
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 映画の冒頭、タイトルよりも先に、「撃ちてし止まむ」という言葉が画面に出る。この言葉を僕は知っている、しかし、どのような経過をへて世のなかに出た言葉なのか、背景はまったく知らない。しかし調べればすぐにわかる。一九四三年の…
2017.8.5
自分探しと日本の不況
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 いまの日本は消費不況のなかにあるという。物が売れないのだ。なにがどのくらい売れれば気がすむのか、という問題はいまはかたわらに置いておくとして、売れないのは人々が買わないからだ、これは誰にでもわかる。なぜ買わないのか。買…
2017.3.26
察し合いはいかに変形したか
 思いやり、という言葉が日本で死語になる日が来るだろうか、と僕は自問する。思いやりという言葉はとっくに死語になっている、と僕は答える。思いやりとは、なにか。思いをやることだ。自分の思いを、他者にやること。やるとは、おこな…
2017.3.25
なにも言わない人(2)
前回|1|  他者との関係ごとに相手および自分の呼称を変化させつつ、自分への利益の誘導にかまけ続け、したがって現実と立場とを離れることのついにない、小さな小さな自分という人。そのような人が、日本語世界で日本語を使う、最小…
2017.3.22
性悪説でいこうか
 監視カメラの設置される場所が急速に増えている。集合住宅のエレヴェーターとその周辺、商店街や歓楽街のあちこち、ATM、コンビニ、駅や空港、駐車場など、それぞれの管理者が、そこを利用する人たちの安全や安心、あるいは防犯のた…
2017.3.13
体に悪い日本語
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 体に悪い食べ物、というものは確かにあるようだ。ごく普通の食べ物だと思われていて、多くの人が日常的に食べているけれど、そのまま食べ続けるとやがて体のあちこちの機能を損なう、という性質の食べ物だ。このような食べ物を中軸のひ…
2017.3.12
過去と未来から切り離されて
 自分、という人にとって、いちばん楽なありかたは、どのようなありかただろうか。自分、という人は、この自分自身という意味ではなく、いまの日本に生きている人たちのひとりひとり、というほどの意味だ。  自分という人の基本は、な…
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