882編公開中。 今を映す手鏡のように
子供 の一覧
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2017.7.31
海から見る自分の居場所
縦書き
 瀬戸内の海からその港へ入っていくとき、視界に広がる景色というものを、現在の地図を見ながら僕は思い描いている。最近の地図を見ながらだから、思い描く景色は現実にかなり近いものとなっているはずだ。海に突き出た埋め立て地が、港…
2017.7.25
イースト・サイドの、暑い日の午後の消火栓
縦書き
 それほど緊急の用事でもない、という感じでパトロール・カーがくる。歩道に寄ってそのパトロール・カーはとまり、サマータイム・ユニフォームを着た中年の警官がふたり、外に出てくる。ひとりは居心地悪そうにあたりを見まわし、レンチ…
2017.6.11
思い出のバブル・ガム
縦書き
 アメリカの駄菓子の記憶としていまも僕のなかでもっとも鮮明なのは、リコリスの味と香りだ。リコリスは甘草(かんそう)と日本語では呼ばれている。ルート・ビアをひと口飲んだとき、うへっ、薬臭い、と顔をしかめる人が日本には多いが…
2017.5.27
トマト、胡瓜、豆ご飯、薩摩芋
縦書き
 自分のところの畑の一角には夏にはトマトが実った。海へいく途中でその畑の近くをとおるなら、寄り道をしてそこへいき、トマトを三つ四つもいで海へ持っていった。熟れる前の緑色の不思議な球体が、半分以上は赤くなっているトマトだっ…
2017.5.9
アイスキャンディ
縦書き
 アイスキャンディを最初に食べたのはいつだったか。日本という失敗国家が冒した完膚なきまでの大敗戦という失敗の、あの夏ではなかったはずだ。あの夏はあのときすでに峠を越えていたし、アイスキャンディどころではなかったからだ。次…
2017.4.1
書き順と習字(1)
 僕が小学校に入る日が近づいてきていた頃について、いまの僕は思い出そうとしている。かなり昔のことだ。充分に遠い。忘れてしまったことが多い。忘れてはいないまでも、記憶は淡い。淡さは不正確さでもあるだろう。  というようなこ…
2017.3.10
白い縫いぐるみの兎
 一九四五年の二月の後半、五歳の子供だった僕は、両親とともに東京駅から汽車に乗り、途中で一度も乗り換えることなく、東海道線そして山陽本線とたどっていき、山口県の岩国に到着した。汽車のなかで一泊し、合計では二日以上かかった…
2016.12.10
だから三歳児は泣いた
縦書き
 二十五歳のとき、僕は自分の写真をすべて捨ててしまった。ゼロ歳から二十五歳までのあいだに、僕の手もとにいつのまにか蓄積した写真、たとえば誕生日に撮った写真やどこかへ旅行したときの記念写真、親戚の人や友人たちが、なにかのと…
2016.11.18
こうして覚えた日本語
 漢字の口(くち)という字は、子供の僕にとっては、ひとつの小さな四角だった。四角い一区画、つまりワン・ブロックだ。この認識は片仮名のロ(ろ)に対しても、まったくおなじようにあてはまった。この口というワン・ブロックのまんな…
2016.11.1
一本の鉛筆からすべては始まる
 いま僕は一本の鉛筆を手にしている。ひとり静かに、落ちついた気持ちで、指先に一本の鉛筆を。たいそう好ましい状態だ。少なくともいまはひとりだけでここにいる自分というものを、その自分が指先に持つ一本の鉛筆は、すっきりと増幅し…
2016.10.29
本は被写体としてかなり面白い
 わかりやすく言うなら、ぼくにとっての心の故郷が、象徴的にここにある。子供むきの本が五冊。どれもゴールデン・ブックの名で親しまれている、アメリカのウエスタン・パブリシング・カンパニーの本だ。アメリカで育った人で、ゴールデ…
2016.10.26
自分のことをワシと呼んだか
 四歳から十二歳までを、僕は瀬戸内で過ごした。山口県の岩国と、広島県の呉というところに、ほぼ四年ずつ。どちらの地方の言葉も、自分は地元の人たちとおなじように使えたし使っていたはずだと、長いあいだ僕は思ってきた。  岩国の…
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