884編公開中。 今を映す手鏡のように
『自分と自分以外ー戦後60年と今』 の一覧
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2017.10.9
引っ越しという自己点検
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 いろんな視点から自分を点検し考察しなおすための、たいへんな好機のひとつは引っ越しではないか。六年前におこなった引っ越しは、僕にとっては確実にそのとおりの機会だった。そのとき点検し考察しなおした自分というものは、それ以後…
2017.8.29
家庭から遠かった男たち
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 自分の家庭以外のところで食事をすること、たとえば街の軽食堂で昼食にせよ夕食にせよ、一回の食事としてなにかを食べることは、子供の頃の僕にとっては、家庭を中心とした日常のなかに成立しているルーティーンから、明らかに逸脱した…
2017.8.26
近未来を書きませんか
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 八月をあと十日残す、雨のような薄曇りのような日の午後、下北沢の喫茶店で二十代の編集者と会った。コーヒーと打ち合わせのひとときは気象の話から始まった。日本のとびきり暑い夏を体験しようとした彼がお盆休みに出かけた日本海側の…
2017.8.18
ワシントン・ハイツの追憶
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 一九五〇年代なかばから持っているジャズのLPを必要があって見直していたら、ラルフ・フラナガンのLPジャケットのなかに、一枚の写真が入っているのを見つけた。週刊誌ほどの大きさの白黒のプリントで、ワシントン・ハイツのおよそ…
2017.8.5
自分探しと日本の不況
縦書き
 いまの日本は消費不況のなかにあるという。物が売れないのだ。なにがどのくらい売れれば気がすむのか、という問題はいまはかたわらに置いておくとして、売れないのは人々が買わないからだ、これは誰にでもわかる。なぜ買わないのか。買…
2017.8.2
団塊の世代という戦後日本
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「あと数年で団塊の世代が日本の会社世界の現場を去っていく。いまも企業に根強く残る男社会と、それにつきもののセクハラとが、団塊の世代とともに消えていく」という趣旨の文章を、二〇〇二年の確か後半、新聞の短い記事のなかで僕は読…
2017.8.1
「がんばる」とは、なにだったか
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「がんばれ」「がんばって」と、いろんな人から自分は言われる。外部から届いて来るこの言葉を、自分という人は受けとめる。受けとめた度合いがある程度以上になると、そうか、自分はがんばるのか、と思い始める。さまざまな人たちから受…
2017.7.10
内省のアクア・マリーン
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 目を覚ます直前、ほんの一瞬、水のなかに浮かんでいる感覚がある。その感覚のなかを自分は上昇していく。水のなかからその外へと、自分は出ていきそうになる。だから水のなかへ自分を戻そうとして体に力を込めると、そのとき目が覚める…
2017.5.27
トマト、胡瓜、豆ご飯、薩摩芋
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 自分のところの畑の一角には夏にはトマトが実った。海へいく途中でその畑の近くをとおるなら、寄り道をしてそこへいき、トマトを三つ四つもいで海へ持っていった。熟れる前の緑色の不思議な球体が、半分以上は赤くなっているトマトだっ…
2017.5.11
鮎並の句を詠む
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 鮎並と書いて、あいなめ、と読むらしい。当て字だろう。電車のなかに吊ってあった清酒の広告で、初めて知った。誰が見ても鮎並にしか見えない魚が一尾描いてあり、俳句がひとつ添えてあった。鮎並の皮の旨みのじっんわりと。こういう俳…
2017.4.27
「の」の字のコレクション
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 五年ほど前、古書店のカタログを見ていて、思いついた。なんとかのかんとか、というふうに「の」の字ひとつによって、なんとかとかんとかが結びつけられているタイトルの本を買う、という遊びだ。半分までは本気だが、残りの半分は冗談…
2017.4.15
作家とはなにか
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 日本の書き手によって小説が書かれるとき、ごく一般的に言って、舞台は日本そして時はいまとなる。過去を舞台にした物語でも、書き手はいまの日本の人なのだから視点はすべて現在にあり、したがって過去のことを題材にしてはいても、語…
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