アイキャッチ画像

町にまだレコード店があった頃(2)

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 海原千里・万里のLPも残っていた。名前にひかれるところもあるが、十二曲のうち八曲までがいわゆる大阪ものであることから、僕はこのLPを買ったのだ、といま僕は推測する。大阪ものへの興味は、フランク永井に触発された。「大阪ぐらし」と「大阪の女」を先頭に置いて、「こいさんのラブ・コール」「大阪ラプソディー」「天満エレジー」「たそがれの御堂筋」「宗右衛門町ブルース」「あかんたれ」などが、そのあとに並んでいる。うまい人たちだなあ、と僕は思う。ライヴで聴いたら、僕はいちころでファンになるのではないか。

 ずっと以前に買っていまも僕の手もとにあるフランク永井のLPは、『魅惑の低音 フランク永井ベスト・ヒット』というものだ。いまそれを手に取ってつくづく観察すると、的確なものを買ったものだ、という思いを僕は強く抱く。昭和四十一年、いわゆるダブル・ジャケットの、二枚組のLPだ。全部で二十八曲もある。

 フランク永井は昭和二十九年に、「恋人よわれに帰れ」を歌って、ジャズ歌手としてデビューした。昭和四十一年、つまり一九六六年は、その彼にとってはデビューして十二年めであり、「有楽町で逢いましょう」を歌ってからちょうど十年めだった。ダブル・ジャケットを開くと、なかには写真アルバムと呼ぶにふさわしいページが八ページある。その八ページの表紙に相当するページのカラー写真と、ジャケットの表の写真は、おなじ日のフォト・セッションの成果だろう。

 髪のまとめかた。白いシャツ。黒っぽい色の細いタイ。スーツの生地とスタイル。まさに一九六〇年代前半の流行だ。どちらの写真でも、フランクは煙草を持っている。ジャケットの写真での煙草の持ちかたには、僕にも身に覚えがある。若い男たちは、意識してこのように煙草を持った。彼の指先にあるフィルターのついた煙草は、まず間違いなくアメリカ製のものだろう。

 デビューして十二年めの彼は、スターの座も歌の実力も、おそらく最高のところに到達していたはずだ。日本のなかで起こった都市化への大変動に、この時期を中心にして、フランク永井は見事に重なっている。ヒットになってもならなくても、彼が歌った歌は、どれもみなこの轟々たる都市化のテーマ・ソングだったと言っていい。轟音とともに都市化という大変化を遂げていく途中の日本の、その都市化の一極集中的な象徴が東京だった。東京は現実に日本でもっとも都市化された場所であり、同時に、都市化の象徴でもあった。

 そのような東京が、この二枚組のLPのなかに、見事に収まっている。「有楽町で逢いましょう」は、東京という最先端の、さらにそのまんなかを、若い恋人どうしの都会情緒として歌ったものだ。「羽田発7時50分」という歌は、外国という華やかで輝かしい世界へつながる、憧れの場所としての空港が舞台だ。そして「夜霧の第二国道」は、東京の夜の幹線道路を男性がひとり車で走る様子が、失われた恋のバックドロップとなっている。この三つの歌は、一九六〇年代の日本で進行した都市化を象徴する、三点セットのような歌だ。

 フランク永井によって歌われたこの時代の東京の情緒的なイメージは、歌のなかから取り出して列挙すると、たとえば次のようになる。ビルのほとりのティー・ルーム。雨が小窓にけむるデパート。ロードショーの映画館。カウンターの向こうに貼ってあるカレンダーの、写真のなかの女性。細いヒールの靴音。雨に濡れる酒場のガラス窓。空港のロビーのうるむ赤い灯。青くほの暗いナイト・クラブのフロア。彼女によく似合うまっ赤なドレス。キャデラックの赤いテール・ランプ。ナイト・クラブの青い灯。甘く優しいサキソフォン。冷たいアスファルト。ハンドル片手の投げキッス。マンモス東京ジャングル。

 都市化に向けた人口大移動の底辺をになって、多くの人が東京へ出てきた。いま挙げたようなイメージをちりばめたフランク永井による歌の数々は、どこからか東京へ出てきてひとりで暮らしている大量の若い人たちの、心の支えとして機能した。都会というイメージをひとつの方向へと美化すると、そのような機能を発揮した。

 歌われている都会での若い男女の恋模様は、僕が受ける印象としては、かなり寂しいものだ。そこでの都会は、視覚的には華やかだが、触覚にとっては思いのほか固く冷たい。だから気持ちとしては寂しい。たまたま自分は都会にいるけれど、その都会は基本的には自分とはなんの関係もなく、自分の居場所もそこにはきっといつまでもないだろう、という種類の寂しさだ。

 その寂しさが歌のなかで美化された姿は、恋模様つまり恋人たちふたりの、別れだ。恋は終わり、彼女は俺から去っていく、あるいは俺は彼女と別れていく。フランク永井のこの二枚組のLPのなかに、一九五〇年代後半から一九六〇年代なかばの東京の、もっとも美化されたイメージがじつによく表現されている。都会の青い灯や赤い灯が背景として向こうにあり、こちら側には自分がひとりでいる。その中間にはかなりの距離ないしはスペースがあり、そこを自動車が走り去る。歌の伴奏の、少しだけジャズふうな演奏の最後の三小節ほどが、余韻としてその光景に重なっていく。その余韻が流れる都会の空気には、たとえば十月の終わり頃の冷たさを感じさせる夜の風のような、ひんやりとした感触がある。

 一九六〇年代前半の東京がどんなだったか、僕の記憶のなかからひと言だけ言うなら、そこにはまだ土ぼこりがあった。舗装がいまほどにはいきとどいてはおらず、舗装されてはいてもそれは不備なものであることが多かった。だから路面には土があり、その土は乾けば土ぼこりとなった。一日外にいると、靴はたいへんに汚れた。

 土ぼこりを蹴立てながら、こけつまろびつ、人々は仕事に忙殺されていた。オリンピックのあとの、高度経済成長のさらなる上昇の急坂の途中を、ありとあらゆるものが駆け登っていた。支配原理は金銭であり、それまでの生活のしかたをかたっぱしから捨てて、次の時代をこれはかたっぱしから受け入れていくという大衆化のなかに、人々はその身を置いていた。

 世のなかはけたたましく、あわただしく、あらゆるものが次々に変化していた。その変化は、いわゆる庶民の日常の次元では、生活の向上だった。それまでの生活のいっさいが、向上された新しい生活に変わっていくことを、人々は肯定していた。そして彼らの生活は、現実に向上していった。新製品を自分のものとして買うという、誇らしく輝かしい体験を中心にして、生活の向上はあらゆる歪みや矛盾を覆い隠し得た。

 十年単位でさかのぼるなら、一九六〇年代前半は、いまから三つ前の出来事だ。現在にくらべると、くらべようもないほどに、当時はすべてが素朴だった。複雑さはいまほどに巨大ではなかった。人々の質も、そのことに呼応していた。物質的な豊かさはまだ決定的に低かった。スペースにも人の関係にも、ゆとりがあった。轟音とともにすべてを飲み込みながら突進していく都会化という激変と、まだ残されていたそれ以前の時代の素朴さとの接触面に、フランク永井の歌う都会情緒の歌は成立した。

 その歌の世界は、徹底してイメージの世界だ。イメージだけがそこにある。完璧なまでに整えられたその世界には、不快なものはいっさい存在していない。すべては華やかできらびやかに明るく、せつない哀愁が漂ってどこか悲しく、くっきりとしていたものがあるときふと美しくうるんだりする。そこはフィクションの世界だ。別世界だ。ユートピアだ。フランク永井のために歌を作ったソングライターたちは、都会へ出てきて暮らしている若い男女の恋模様の舞台として、東京の有楽町や銀座を、イメージへとねじ伏せた。フランク永井の歌いかたと声の質は、そのような歌にぴったりだった。

 フランク永井の歌は、なんとも言えずうまいものだ。歌いかた、声の質、その声の出しかたなどの奥に、日本語の音の作りかたの、彼による独特な工夫を、僕ははっきりと感じる。日本語の音のひとつひとつから、しがらみを削り落とそうとして成功した、という工夫だ。しがらみとは、都会と対置して田舎である、と言っておこう。あらゆる日本的なしがらみを言葉で言うとき、その言葉の音のひとつひとつに手垢のようにこびりついている、しがらみとしての音を、フランク永井は削り落とすことに成功している。

 彼が歌うときの日本語の音にある、どこからも文句の出ることのない清潔感のようなものを、しがらみを削除した言葉の音、と僕は仮に呼ぶ。その音は、彼がジャズを歌ったときの、彼なりの英語の音を、日本語に当てはめ応用したものだ。

 当時という時代が実際にはどんなだったかを視覚的に知るには、『羽田発7時50分』というような映画を見るといい。この映画をなんとか見たいものだとかねてより思っていた僕に、佐藤八郎さんがヴィデオ・テープを送ってくれた。一本の娯楽映画としては失敗もいいとこだが、羽田空港の入口やロビー、そして二階の送迎デッキが出てくる。タクシーを降りて建物に入る入口、航空会社のカウンターがずらっと並んでいた細長いスペース、そしてそこから二階へ上がっていく階段などを、僕は久しぶりに見た。ロビーの場面は、最終便のあと人がいなくなってから、そこで撮影したもののようだ。売店がそのまま画面にあらわれる。通路やデッキの様子は、当時の日本では最先端だった。いまそれを画面に見ると、これはいったいどこの田舎の空港か、と人は思うだろう。

 箱根が出てくる。カトマンズの町はずれのようだ。江ノ島のフリーウエイ、と台詞で言う江ノ島から大磯方面へのいちばん海沿いの道路が、登場する。僕より五、六歳年上のオートバイ好きの人から聞いたところによると、この時代には江ノ島から大磯まで、信号はひとつもなかったという。この道路は、映画のなかでは、カリフォルニアのナパ・ヴァレーに入っていく道のようだ。

 自分だけの自動車、つまりスポーツ・タイプの車に対する、かならずしも手の届かないものではない憧れが、急激にふくらんでいった様子を、あってなきがごときストーリーのなかに、当時という時代の感触として僕は感じた。フランク永井は主演と言っていい役でこの映画に出演している。彼が歌謡曲歌手となった最初の歌である「場末のペット吹き」が映画になったとき、フランク永井は最初の映画出演をした。『羽田発7時50分』では、彼はいつもスラックスのポケットに片手を入れていた。それが当時の彼のスタイルだったのだろう。

 フランク永井の歌のなかでは、大阪も都会だった。東京と同列な都会としての、大阪だ。通天閣、がたろ横丁、法善寺横丁などが、大阪に生きる女性の背景として、都会情緒の発生地となった。「こいさんのラブ・コール」という歌のなかでは、大阪が東京と対等に対置してある。

「波浮の港」の小さな海も、「熱海ブルース」の熱海も、彼が歌うと都会情緒の舞台となった。「湯島の白梅」の明治の東京も、そして「君恋し」や「君待てども」そして「カチューシャの唄」の東京も、彼にかかると一九六〇年代前半の有楽町とおなじ質の都会となった。フランク永井自らの選曲だろうか、それとも側近にいた人材の、正しい判断によるものだろうか。

 フランク永井の歌が都会のテーマ・ソングであったことは、間違いない。いまから見るならすでにとっくに過ぎ去った時代に、彼のヒット・ソングは密接に関係している。その時代が終わり、次の時代、そしてさらにその次の時代になったとき、密接に関係したかつての時代から歌手当人が抜け出すのは、至難の技ではなかっただろうか。時代を差し引いた歌唱力と持ち味で、それ以後の時間を相手にしなくてはいけない。

 三島敏夫は都会的な歌手だ、と僕は思う。このような歌いかたによるこのような歌を、いつどこで聴いたかと自分で自分に問いかけると、いつかどこかで聴いたような気がする、としか答えられない。都会的なこの歌手は、特定の時代との密接な関係を、フランク永井ほどには持っていないという意味で、僕はそのように答える。

 彼の歌いかたのスタイルには、時代を超越したようなところがある。普遍的と言ってもいいようなスタイルに、彼独特の持ち味が幸せに重なっている。歌のうまさでは、彼はフランク永井と互角だろう。ひょっとしたらもっとうまいのかもしれない。都会的である歌が持たなくてはいけない要件のひとつに、さらっとした感触、というものがある。彼の歌にはそれがある。その感触は、洒落てさえいる。何年も前、フランク永井と拮抗し得る男性の歌手を探してみたとき、僕は三島敏夫を見つけた。『魅惑の歌声 三島敏夫の演歌ムード』というLPが、いまも僕の手もとにある。

(3)につづく

(『音楽を聴く』第3部「戦後の日本人はいろんなものを捨てた 歌謡曲とともに、純情も捨てた」1998年所収)

町にまだレコード店があった頃

   2月24日|町にまだレコード店があった頃ー1
   2月25日|町にまだレコード店があった頃ー2
   2月26日|町にまだレコード店があった頃ー3



1950年代 1960年代 1998年 「戦後の日本人はいろんなものを捨てた─歌謡曲とともに、純情も捨てた」 『音楽を聴く』 フランク永井 レコード 三島敏夫 大阪 戦後 昭和 東京 歌謡曲 海原千里・万里 音楽
2016年2月25日 05:30
サポータ募集中