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女性作家の作品を支持する

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 いまのアメリカの小説は、女性作家たちの作品が面白い。面白い、というのはぼくの個人的な言いかたでありポジティヴだけではなくネガティヴな領域へ広がる部分をも含めて、ぼくは面白いと言っている。つまり、たいへんに興味深いわけだ。そしてその女性たちは、作品のなかに登場するさまざまな女性たちであり、その女性たちの物語を描いていく女性の作家たちだ。

 アメリカは、最初から近代国家としてスタートしたと言っていいほどに、新しい国ないしは文化だ。国を造ることそのものが、自分たちのかかげる理想を実現してみせるプロセスでもあったという、実験的な国としての側面を、その新しい国は持ってもいる。しかし、近代国家としてはまれに見るほどに、そのアメリカの内部では、男性と女性との性差は大きい。その差は、ちょっとびっくりするほどに、大きい。だからこそ、その結果として、たとえば小説の世界で女性たちが面白いのだし、女性の解放にかかわる具体的な運動や、それを支える理論がアメリカにおいてもっとも多くの問題を提示しつつ、もっとも興味深く展開してもいるのだが。

 男性と女性との性差がきわめて大きい事実は、男性と女性との関係という、社会にとってもっとも基本となるべき土台のような関係がすでに尋常とは言いがたく変形されたままでここまで来たことを意味している。その変形されつくした関係のなかから自らを脱出させ、社会のなかにすでに出来あがっているさまざまな関係を根本から作りなおしていく問題のなかに、いまのアメリカの女性の作家たちはいるのだと、ぼくは思う。このような問題の内部にいるのは、もちろん作家たちだけではないけれど、ぼくにいちばん近いのは、小説を書いている女性の作家たちだ。

 いまのアメリカの女性作家たちが書いている小説は関係の小説だ。誤解が生まれるのを承知で、おおざっぱにひと言で言うなら、彼女たちの小説は、関係の小説だ。そして、関係の根本的な改善を模索していく小説だ。

 男性と女性の性差が大きい社会のなかでは、たとえば女性たちは、信じがたいほどにいびつな役割を、おなじく信じがたいほどに隔離された位置で、男性たちから強制されてきた。女性の作家たちが描く物語は、自分たちのこのような惨憺たる歴史と現状とを冷静に正確に認識することからはじまり、いまの社会のなかに存在して機能している、ありとあらゆる関係を、その根本から変革することまでを、途方もなく広くその領域としている。このような小説が、おなじ時代に生きる人たちにとって、面白くないわけがない。

 彼女たちが根本的な改革をはかろうとしているさまざまな関係は、極端に言うとそのすべてをじつは男性たちが作ってきたのだ。女性たちを奇妙な位置に追いこんできた男性たちは、自らが奇妙な位置に追いこんだ女性たちとの関係において、自分たちをも、変形されつくしたと言っていい奇妙な存在にしてきた。その彼らを支えてきた考えかたのなかで、もっとも中心的なものは、対立ということだった。人がふたりいればそこには対立の関係が生まれるのがもっとも自然であり、その対立には自分が勝たねばならない、という考えかただ。対立関係のなかで勝利者になるということは、対立する相手を出来るだけ効率よく自分のための犠牲者にすることを、当然のこととして、まるで普遍的な正義のように、意味している。女性とも対立するなら、男性たちは女性に勝たねばならず、とりあえず彼らが勝っているからには、女性たちはいつまでもセカンド・クラスにとどまるのだ。

 こういう馬鹿げた関係のありかたを、その土台からやりかえることは出来ないだろうかと模索することにかかわる小説を、いまのアメリカの女性の作家たちは書いている。母親とその娘との関係をテーマにした小説が、たとえばこの二十年ほどのあいだにどのくらい書かれたか、正確にはぼくは知らないが、たいへんな数だと思う。母親と娘の関係も、じつは男性によって彼らの都合に合わせて作られてきた側面を大きく持つのであり、妻と夫の関係も、母親と息子との関係も、およそありとあらゆる関係のなかに、男性のしわざによる悪しき変形がいたるところにあり、しかもそれらの変形はいまでも力を持って機能している。

 男性たちが社会のなかに作ってきた、人と人との関係のありかたを、その根本で変革していくことを考えている女性たちがめざすのは、たとえば対立のない関係という、いまのところ途方もなく理想的な関係だ。ひとつひとつの小説としては、ひとりの母親とその娘との関係を容赦なく解剖していくことに終わったり、どうしても妻と対等になり得ないひとりの夫の姿を描くことに終わったりするのだが、いまの女性の作家たちによる小説作品をある程度まで読んでいくと、個性ゆたかな彼女たちがめざしている共通のものが彼方に見えてくる。

 大きな性差は、女性の作家が書く小説と、男性の作家が書く小説のあいだにも、存在する。女性たちは自分の存在のあらゆる方向から現実を引き受け、その現実を自分の問題として徹底的に相手にしていくことのなかに自らの活路を開こうとしている。男性たちは、ゲームのような小説を書いている。そうではない男性作家もごく少数は存在するはずだが、いまのところ女性の作家と彼女たちの作品を、ぼくは興味深く読み、支持している。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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2016年10月9日 05:30
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