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丘の上の愚者は、頭のなかの目でなにを見たのだったか

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 丘の上の愚者は、沈んでゆく陽を見たのだった。そして、この愚者には、目がもう一対あり、その目は彼の頭のなかにあったのだ。頭のなかのその目で、丘の上の愚者は、まわっている地球を見たという。

 そのときのその愚者には、まわっている地球しか見えなかった。あるいは、ひょっとして、「まわっている地球」とは、人間の言語がはじまって以来最大のスケールをそなえたおだやかな比喩であったのかもしれないが、とにかく、丘の上の愚者は、頭のなかの目で、まわっている地球をはっきりと見た。このことを否定する人はいない。ビートルズがそう言っているのだから。

 とりあえずたしかに地球は、まわっている。ほんのとるに足らない小さな、しかし絶対的な片隅にその地球は回転をつづけていて、その片隅以外のすべては、これはもうあまりにも広く、とても広すぎるがゆえに「広い」というなんらかの実感が常にともなうひとつの概念すらあてはまることのけっしてない一種の立体状のスペースとなっている。

 この広さには、そういえば、いっさいのありとあらゆる概念が、まるであてはまらないようだ。透明であると同時に、単なる完璧な暗さを静かに突き抜けて超えたような暗さを持ち、絶対的な静粛の内部になにかさかんに各種の音があるようでもあり、おそろしい空白のヴォイドでありつつぎっしりとなにものかがつまっているかもしれない。ようするに、単一な既成の概念は、それがいかに確固たるものであっても、丘の上の愚者が頭のなかの目で見たスペースによって拒否されている。

 ビートルズを古文のように解釈するのではないけれど、「丘の上の愚者」とは、そのときたまたまその丘の上にいた、ある特定の愚者ではなく、たとえば、ぼくたちひとりひとりのことであったとするなら、ぼくたちは、その誰もが、頭のなかに全宇宙を見てしまったことになる。

 宇宙はあまりにも広いから、壮大で静かな虚構として、ほぼ完全に頭のなかに描きうる。誰の頭のなかにも、いまや、宇宙があるのだ。とても現実味のある、刺激的な虚構として。

 頭のなかに空想で描きうるスペースが、そっくりそのまま宇宙のぜんたいであるという、丘の上の愚者たち以後のぼくたちの現実は、これはいったいどういうことなのだろうか。深刻に考えつめるまでもなく、もちろん、自分と宇宙ぜんたいとの関係の自覚のありように、なにかひとつ、重大な変化がおこってしまったことを、それは物語ってくれている。

 これまで、宇宙というものは、どうしたって人間の外にあるものだった。この地べたから、何億光年かのはるか遠い暗闇のむこうまで飛んでいけば、ここはどうやら宇宙らしいという実感が得られるといったぐあいに、人間からずっとはなれたところに、宇宙は常にあった。中学校の科学の教科書の記述どおり、宇宙は人間からもっとも遠いところにあるものとして、いつも意識されていた。

 そのような意識が、ずっとながいあいだつづいたみたいだった。つづきながらも、その意識は、微妙なところですこしずつ確実に変化し、ある日、気づいてみたら、宇宙は自分の頭のなかに入りこんできているのだった。

 当然、地球はその宇宙の一部分だから、宇宙が頭のなかに広がると同時に、人間は地球との一体感をよりいっそう緊密に意識しはじめたという、めでたい事態になったかというと、そうではなく、むしろその逆なのだ、頭のなかにほぼひろがりつくした宇宙は、人間が地球からもの静かにはじき落とされていく現実を、ぼくたちに見せてくれた。

 丘の上の愚者の、頭のなかの目に、まわっている地球とそのむこうの果てしない宇宙が見えはじめると同時に、ぼくたちが地球や宇宙についていとしげに抱きつづけてきた気の弱い薔薇色の錯覚は、こなごなに打ち砕かれてしまった。ぼくたちは、あるひとつのまちがいに気がついたのだ。

 人間そのものは、まちがいではなかったのだろう。何億年にものぼる時間の経過をその内部にたたえた、偉大なる中古品である地球に、ごくはじめは、なにかプランクトンのようなものとして人間は登場したのだから、さまざまな条件のよりあつまりのなかからすくなくとも自然発生したことだけはたしかだと、安心していられる。

 発生の端緒がすこぶる生命的であった人間たちは、そのみじかい歴史のなかで、いろいろな錯誤に身を投じつつも、一貫して生命的でありつづけた。人間にとっては生命のみが現実であり、その人間がひたすら生命的であったのはとてもよいことだったのだが、その生命が、たとえば、「ふくれあがる地球の人口」というような現実をつくり出すとき、人間の生命そのものが、当の人間たちに対して、ふと目をむけただけで呆然となってしまうようなとてつもなく圧倒的に大きい、非生命的な日常を創り出してくることになる。

 生命に対する生命の側からのしっぺ返しなどという生やさしいことではなく、今日はもはやひきつづき明日にはなり得ないという、問答無用の巨大な全能の支配律の到来だ。

 どこかでなにかのまちがいを、人間はおかしたらしい。どのようなまちがいをどこでおかしたのか、ふりかえってみればわからないでもないようなのだが、ふりかえってみても、生命に対する手ざわりの感触のようなものが失われてしまってすでに久しい事実が、もういちどわかるだけだ。

 日常は、非生命的なもので、ことごとく埋めつくされてしまった。その日常のなかで、人間の生命は増えつづけ、地球を食いつぶしてゆく。ひとつひとつをていねいにいつくしむべきであるはずの日常の現実は、見上げるだにおそろしい荒涼たる巨大なひとかたまりと化していて、いつくしむ手がかりすらそこにはない。「緑化運動」とか「ゴミをすてないキャンペーン」などがその馬鹿大きい現実に対してなんの力をも持ち得ないとわかったとき、愚者が歩いてゆくさきは丘の上であり、そこで沈んでゆく陽を見たくなる気持ちは、よくわかる。

 そして、頭のなかの目が開いた瞬間、身のまわりの現実は、ひどく出来のわるい夢にかわり、まわっている地球つまり宇宙ぜんたいが、ありうべき唯一の現実そのものとして、押しよせてくる。

 こちらへむかってやって来て、最終的な結論をくだそうとしている偉大な支配律を眼前にして、反省の淵に身を沈めるのは、とてもユーモラスだ。そして、そのユーモラスな行為は、非常にダークな色あいをおびることになる。たとえば、地球の人間がこれほどまでに増えなかったならば、と反省してみるその当人が、生まれたときからすでに、この地球にとっては不要なもののささやかな一部分であったのだ。ささやかな一部分は、現実につもりつもって、とんでもない事態をひきおこしはじめた。

 その、とんでもない事態のさまざまな局面が、小さくわかりやすく分解されて、ぼくたち誰もの日常生活のそこ比処に、薄気味のわるい均一の質感をたたえていくらでもころがっている。

 小さくわかりやすく分解されたひとつひとつに関しても、ぼくたちはどうすればいいのかわからないまま、ごく具体的にせっぱつまっているようだ。せっぱつまったというなにかせつない実感は、風のなかにすら感じられる。この実感の、目に見えないつらなりが、どこかに丘を想定し、その丘の上にひとりの愚者を置いたのだ。そして、地球と自分、あるいは、宇宙と自分、というような意識ないしは観念が、そのとき、うらおもてひっくりかえった。

 いったんひっくりかえってしまうと、そこには、絶対的な正解がただひとつあるのみだ。澄みきった循環系が持つ唯一の汚点が自分たちであり、循環系そのものは厳としてそこに存在しつづけ、ぼくたちとは、明白に無関係に、循環をくりかえしている。ぼくたちがきたならしい汚点でありつづけるかぎり、汚点とはならずにきれいなまま、肩身は多少せまくても、おとなしくこの地球に寄生していればよかったという後悔がつきまとってはなれない。

 この後悔の念は、しかし、過去をただくやむだけではなく、それ以上に有効な力となってくれる。なんとか汚点であることをやめるための対応策は、すべてこの後悔の念にその根源が根ざしているからだ。

 地球は、ときとして「自然」とか「緑」とか呼ばれていた。いまでも、一部の人たちがそう呼んでいる。宇宙と自分との関係にかかわるいっさいの意識が、うらおもてひっくりかえったからには、この「自然」や「緑」に対するものの考え方も、完全に位相は異ったものになりきっているはずだ。

「自然」や「緑」は人の目に美しく、雄大にやさしく人間をとりまいて守ってくれていて、あくまでも人間のために存在し、人間はあまねくそれを利用し、ときには鉄面皮にもそれを征服していくのである、というような考え方がかつて支配的だった。美しくない「自然」は野蛮な「自然」であると考える人たちが圧倒的に多いとき、この地球のうえでとにかく最優位に立っているのは人間であるというおろかな虚構がかたちづくられる。ぼくたちは、その虚構の内部に、かつては住んでいた。

 ひとりひとりの頭のなかに宇宙のスペースがひたひたとひろがるとき、「自然」や「緑」が人間のために存在するなどという馬鹿げた意識はきれいさっぱりと洗い流されてなくなってしまう。「自然」は、人間の存在など、はじめからまったく考えに入れてはいず、美しくもやさしくも雄大でもない、ただひたすらに自然な生命を持った「自然」として存在をつづけているだけなのだ。

 青い空の下で陽に照らされつつ起伏する草原のつらなりとか、白い砂浜に寄せる緑の波のひろがりとかをつくづくながめて、「ああ、美しい」と、脆弱な感動にひたることをぼくたちはもはやおこなわない。そういった光景が持つ、かたくなな自然さには打たれるのだが、その光景が人間にとって美しいと思いこむことはとても出来ない。いったん「自然」のなかに人間が置かれたとき、その人間がその「自然」に対していかに不器用で役たたずで力が弱いかは、「自然」と人間とはまったく異質の別々の存在であり、一体感などはどこにもありえない事実を具体的に知ることによって、身にしみてわかるだろう。

 さきほど見たばかりの一枚のポスターが、記憶のなかによみがえってくる。大きなそのポスターのほぼ全面に、どこか遠い南太平洋の小さな島の無人の海岸と、そのむこうの海、青い空、そして手前のほうから画面へななめにかたむいてあらわれている椰子の樹などをひとつの構図としてとらえたポスターだった。新しくできたショッピング・センターのような建物の開店を告げるポスターであり、さあ、いまこそ太陽の下へかえろう、というような意味のコピーがそえてあった。

 ポスターの頭上にあった空よりも、そのポスターの中におさまった南太平洋の空のほうがはるかに青かったのは確実にひとつの不幸だろう。そして、その不幸の間隙をぬって、青い空や照りつける太陽といった「自然」がほんの一時的にお金で買えるものとして目の前にぶらさげられる。「自然」は美しい、と思いこむだけでもすでに充分におろかしいのに、その「自然」はさらにお金で買う対象となり、身のまわりから「自然」が消失するとこんどはどこか遠くの「自然」が、あらゆる消費や売りこみの前口上としてひっぱり出されるのだから、悲劇は決定的だ。効き目の薄い前口上だが、この際は効き目の薄さが問題なのではなく、「自然」に対する人間の側からのごく根源的な対応のメカニズムがいっさい失なわれている事実こそが問題なのだ。「自然」は、ポスターに使ってちょうどふさわしい薄気味のわるいきれいな光景ではぜったいにない。陽の照りつける南の島で椰子の樹に触れてみるとよいのだ。椰子の樹は椰子の樹なりに、人間のことなどこれほども意に介さず、自分をとりまく自然にそれこそ必死に対処していて、ひたむきに荒々しく、ある種の狂暴ささえをも、一定の水準で常に持続させている。自然の中にその自然の一部分としてあるものどうしの弛緩を許さない緊迫した関係のなかへ人間が入りこんでいける余地はほとんどない。

 丘の上の愚者は、頭のなかの目で見た宇宙の光景のなかに、人間のための場所がない事実を知った。その愚者にとっては、そのとき、自分自身が絶望そのものであった。丘の上にのぼる以前、その愚者は、ごく普通の消費者としてきっと都会にいたのだろう。都市生活のなかで多少とも意識の触手をのばし、納得のいく手ざわりのようなものをさがしはじめると、そのようなものはひとつとしてのこされていないことに、すぐに気がつく。都市のなかで消費の都合にあわせて、いつでも何度でも再構成されていく迷路のなかに、いつも追いかえされているうちに、自分をとりまいている現実のぜんたいが、自分にとってののっぴきならない敵として姿をかえている事実が見えはじめる。

 愚者は誰とも口をきかず、丘の上へ出かけていった。そして、わが身を宇宙のなかでの本格的な唯一の絶望としてとらえなおした。そして、そのような自分をも、やはり愛し楽しまなくてはいけないことを知ったのだ。

 愛したり楽しめたりするうちは、そのことによってそこになにものも生み出されなくても、愛し楽しむ行為そのものが、宇宙のぜんたいをおさめている支配律の原則と同質になりうる。自分の頭のなかのスペースに宇宙のぜんたいをひきこむと、宇宙と自分との関係についての完全な唯一無二の正解が手に入る。その正解を持って、愚者は丘を降りてこなくてはいけない。そしてその正解は、都市をおおいつくしている非生命的な日常や、食いつぶされていく地球に対する対応策の要だ。

 まわっている地球を見てしまった人の言葉は、しかし、まわっている地球をまだ見ていない人の言葉とは、外見はおなじでも意味はまるでちがっているから、たとえば空から降ってきた一滴の雨を、「私は愛し楽しむ」とその愚者が言うとき、彼の澄んだ官能のひろがりを支える本物の絶望を自分も知りたければ、のぼるべき丘はその人の目の前にある。

 ざっと以上のようにソロの禅問答みたいなことを素直な実感として書きつけてきたあいだにも、人間と地球との関係のなかにおこったとりかえしのつかない事態は、そのとりかえしのつかない密度を刻々とたかめている。

(『ワンダーランド』創刊号〔1973年8月〕掲載、『10セントの意識革命』1976年初版、2015年改版)

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『10セントの意識革命』|2015年改版|晶文社|書籍詳細ページ


今日のリンク

ビートルズ公式サイト|SONGS|The Fool On The Hill |歌詞と関連動画(The Beatles.com)

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The Beatles, Magical Mystery Tour(英:1967年12月、日:1968年3月 発売)

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1973年8月 1976年 2015年 「フール・オン・ザ・ヒル」 『10セントの意識革命』 『マジカル・ミステリー・ツアー』 『ワンダーランド』 ビートルズ 宇宙 考える 自然
2016年6月29日 05:30
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