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またたく星が、にじんでこぼれる

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 五月のはじめにアメリカから友人が日本に来た。ぼくの家に泊まった初日の夜、彼はベッド・ルームのベッドの、二段になったマットレスの上段だけを居間に持って来て、ぼくは今夜はここで寝る、と言った。

 居間は、かなり広い。そして南側と西側が、いちめんガラス戸になっている。フロアから天井まで、透明な大きなガラスの戸だ。

 このガラス戸にマットレスの頭のほうをくっつけ、彼はあおむけに横たわってみせ、「ほら、こうすると、夜空の空間や星や月、それに、庭の樹が見えるんだ」と、彼はぼくに説明してくれた。

「庭に寝袋を出して、そこで寝たらもっといいかもしれない」

 と、ぼくは、提案した。今夜はここがいい、と彼はこたえた。

 野外で寝ることなど、なんとも思わない男なのだが、そのときは寝袋の気分ではなかったらしい。家のなかから、ガラスごしに夜空を見ていたいという気分だったのだ。

「ちかいうち、山へいこう。手近なところにいい山がいくらでもあるから、一泊のキャンプに出かけよう」

 と、ぼくは彼に言った。

「それは素晴らしい。ぜひそうしよう」

 ガラス戸に頭のてっぺんをくっつけてガラスごしに夜空を見上げて、彼はそうこたえた。そして、 

「星を見ながら、野外で寝るのは、ほんとに素敵だよ」

 と、つぶやくように言っていた。

 数日後、ぼくたちは、山へ出かけた。大げさな山歩きではなく、ごく簡単な一泊のキャンプだ。

 寝袋とマットレス、料理器具、ストーブ、食糧など、必要にして充分な持ち物をふたりですっきりとパックにし、かついで出かけた。東京からすぐ近くのところにも、このくらいの楽しみのための山なら、いくらでもある。

 パックをかついで電車でいき、駅からバスに乗って終点までいった。いい感じの田舎だ。

 ゆっくり時間をかけ、途中を楽しみながら、ぼくたちは歩いた。

 午後の時間をそうやってすごし、夕方になるまえに、目的地に着いた。

 場所をきめると、ぼくたちは夕食のしたくにとりかかった。一泊のキャンプで、しかも気候的にまだ五月だから、夕食のための材料は、生のものでも自由に使える。彼が巧みに料理するのを、ぼくが手伝った。ぼくたちふたりのほかは誰もいない春の夕方の山と、次第にできあがっていく料理とのとりあわせは、何度でも体験しておきたいと思うほどの、素晴らしいものだった。

 ぼくたちは、夕食を食べた。おいしかった。小さなたき火の、赤く燃える炎が最高の調味料になったりする食事を、誰もが体験すべきだと、ぼくは思う。

 夕食のあと、コーヒーを飲んだ。このコーヒーが、また素晴らしいものだった。コーヒーを飲みながら、いろんな話をした。

 そのあと、マットレスのうえに敷いた寝袋にあおむけに横たわり、ぼくは持ってきたツァイスの双眼鏡で、夜空の星を見た。かならずしも黒とは言いきれない、濃紺のあじわいを残した空に、無数のとしか表現しようのない星が、どれもみな鮮明に、くっきりと輝いていた。

 北の空に高く、北斗七星があった。山や海の地面にあおむけになってこの七つの星を見ると、そのたびに、ぼくは、非常に不思議な気分になる。

 これまでにもう何度も、ぼくはこんなふうに北斗七星を見ているが、英語でザ・ビッグ・ディパーという大熊座の七つの星は、いつ見ても、ぼくに対する角度がちがっている。北斗七星を見て不思議な気分になるのはこのせいであり、地球上のごくささやかな一角にいるぼくが、大宇宙の空間と向きあうときの、無限と言っていいさまざまな向きあい方を、そのつど、ひとつひとつ、北斗七星は教えてくれているようだ。

 ザ・ビッグ・ディパーの、ひしゃくの柄は、カーブしている。このカーブにそって、頭上に見あげる夜空をたどっていくと、オレンジ色の明るい一等星が見える。アルクトゥルスという名前の星だ。うしかい座の一等星であり、このアルクトゥルスはうしかいの左ひざのあたりに位置している。

 このアルクトゥルスから、さらに南へ視線をのばしていくと、スピカという星がある。乙女座の一等星で、これは乙女の左ひざあたりだ。白い、きれいな星だ。このくらいの澄んだきれいさなら、乙女にふさわしい。

 北斗七星の、ひしゃくの柄のカーブからはじまり、うしかい座のアルクトゥルスをへて乙女座のスピカにいたる大きなカーブは、春の大曲線と呼ばれている。春の夜空に自分の視線で描く、ほんとうの大曲線なのだ。これを見ると、春だなあ、という実感がわいてくる。都心ではひょったら無理かもしれないが、すこし郊外へいけば、肉眼でもこの大曲線を楽しむことができる。

 ぼくが寝袋のうえに横たわり、双眼鏡で空の星を見ているあいだ、アメリカ人の友人は、ひとりでもの思いの底に沈んでいる。

 そして、やがて、彼は、泣きはじめる。

 あるとき、ふと、シクシク、シクシクと、独特のリズムで、すすり泣きはじめるのだ。

 この友人は、いま三十代なかばで、ぼくとは同世代と言っていい。一九六〇年代には、アメリカのいわゆる意識革命に強くかかわり、自分という存在を徹底的に洗いなおすようなことをやり、そのことの後遺症のひとつなのだろう、もの思いの底に沈むと、やがてかならず、泣きはじめる。

 ぼくのすぐそばにいるのだが、そんなときの彼は、非常に遠い。ほんとうに彼だけの、まったく個人的な世界の内部で泣いているため、声をかけることもできない。

 泣いている彼、という物理的な、あるいは生理的な存在は、手をのばせばたやすく触れることのできるすぐそばにあるのだが、彼という人間の精神的な核のようなものは、個人的な内面の世界につくってある、曲がりくねった長いトンネルの、いちばん奥のつきあたりにある。他人の手など、とうてい届かない。

 どうしたのだい、と日本的になぐさめの声などかけてもまったく無駄なので、そのままにしておくよりほかに方法はない。

 シクシク、シク、シクシクと、すすり泣きのリズムが、ぼくのすぐそばで、つづいていく。

 存在すること自体の深い悲しみが、いまこうしてすすり泣きというかたちをとっている、という感じで、たっぷり一時間、シクシクはつづいていく。

 そのあいだぼくは、双眼鏡で夜空の星を見つづける。

 夜の山の、澄んだ冷たい空気を吸いながら、双眼鏡のレンズというフィルターごしに夜空の一角をながめつつ、彼のすすり泣きを聞く。なんとも言えない不思議な気持になってくる。

 やがて、彼は、泣きおえる。マットレスのロールをのばし、寝袋を敷き、服を脱ぎ、もぐりこむ。

「ぼくはもう寝る。きみはまだ寝ないのか」

 と彼は言う。

「コーヒーをもう一杯飲んでからにする」と、ぼくはこたえる。

「きみも飲むかい」

「ぼくはいらない」

「ではさきに眠りたまえ」

「グッド・ナイト、ヨシオ」

 といった感じで、彼は眠ってしまう。

 ぴたりとあおむけになって、きれいに真上をむき、すこしも表情を変えることなく、いつまでもじっとそのままの姿勢だ。眠ってしまったのか、まだそうではないのか、まったく見当のつかない彼の顔を、月の光りが静かに照らす。

 ぼくはひとりで湯をわかす。ひとり用のコーヒー・メーカーを使って、熱いコーヒーをつくる。

 カップを両手に持ち、コーヒーの熱さや香りをこよなくいとしいものとそ大事に楽しみつつ、空を見る。ふと、目をむけたまさにその一角で、星がひとつ、すっと流れたりする。

 コーヒーをゆっくり飲みおえたら、ぼくも寝袋に入る。あおむけになって、星を見る。春の大曲線に、グッド・ナイトと、おやすみのあいさつをする。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年


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2016年5月10日 05:30
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