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菖蒲湯そして乾杯

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 端午の節句には京都にいた。なんの用件も目的もないまま、ただでかけてみたくなってやってきた京都だった。イノダでコーヒーを飲めばそれで充分だというような、一泊するだけの小旅行だ。

 イノダでは、たしかにコーヒーを飲んだ。三条境町の、大きな円型のカウンターのある店だ。店の奥の、ささやかな庭に降り注ぐ春の陽ざしが、窓ガラスごしにカウンターからでも見えた。なんにもせずに、無為に時間をすごすための京都だったのだが、完璧になにもしないということは、やはりありえないようだ。

 古風なおもむきを充分に残した旅館に、ぼくは泊まっていた。この旅館で、昼間、菖蒲湯に入った。

 京都に一泊し、夕方おそい時間の新幹線で東京に帰ってくるつもりだった。しかし、神戸へもいってみることにきめた。なんの理由もなく、ふと神戸へもいってみよう、と思ったからだ。

 久しぶりの神戸だった。子供の頃には何度もよく来た町なのだが、もうながいあいだずっと、来るたびにいつも久しぶりの町なのだ。

 神戸でも、やらなくてはいけないことは、これといってなにもなかった。午後の早い時間に神戸に着き、町を歩いた。

 歩いているうちに、せっかくだからめったにやらないことをやろうかと思いはじめ、そのとおりにしてみた。神戸ではここがもっとも国際色ゆたかだとかねてから友人に聞かされていたホテルへいき、バーに入って酒を飲んだ。

 午後の三時をまわっていたから、もう夕方だと言えば言えただろう。午後のこんな時間から酒を飲むことは、ぼくの日常生活のなかでは、めったにない。

 友人が言っていたとおり、自分はいま外国に来ているのだと思えば思えなくもないバーのカウンターに席をとったぼくは、非常に上等なカナダのスコッチの瓶と氷の入ったグラスを目の前に置き、しばらくのあいだぼんやりしていた。

 カウンターは午後の早い時間からけっこうにぎわっていて、席はほとんど埋まっていた。見わたしたところ、ぼくの右どなりにある空席が、ぼくの周囲では唯一の空席だった。

 その空席に、アメリカ人の女性が、ひとりであらわれた。ぜんたいの雰囲気や身のこなしで、アメリカ人だということは、すぐにわかる。三十代なかばだろうか、意識しすぎにも思えるほどきれいにぜい肉をそぎおとした体をしていて、スーツを着ていた。ダークブルーを基本の色とした、きわめて正統的なスーツだ。くすんだ紫色や、おなじく渋くくすんだ灰色などの微妙に混じり合った、ヘリンボーンだった。ラベルの飾り穴に、細長い長方形の、薄いゴールドのバーが、アクセサリーとして挿してあった。スーツの下には、絶妙に淡いベージュ色の、薄い生地のシャツを着ていた。

 ウオッカをホワイト・グレープのジュースで割ったものをバーテンダーに注文する彼女の声を、ぼくは、聞くともなく聞いた。砂糖入りではないジュースを使うようにと、彼女はバーテンダーに念を押していた。

 カナダの上等なスコッチの瓶を手もとにひきよせたぼくは、ふたをとり、氷の入っているグラスのなかに、注いだ。

 注ぎおえて、ふと、右どなりのアメリカ女性のほうを見た。彼女も、ぼくのほうを見ていた。目が、合ってしまった。

 ぼくは、微笑した。彼女が、微笑をかえした。

 スコッチの瓶をカウンターに置いたぼくは、グラスを指さし、

「ごく平凡な氷が、身にあまる栄光を楽しんでますよ」

 と、言った。英語で言うと、不定冠詞も含めて、八語ですむ。

 いたく感銘したような表情を、もちろん半分以上は演技なのだが、彼女は顔いっぱいに浮かべてみせた。そして、首を左右に振りながら、

「まあ、ほんとうに詩人でいらっしゃるのねえ」

 と、アメリカ人まる出しで、言った。

 ごく平凡な氷が身にあまる栄光を楽しんでますよとは、つまり、氷を入れたグラスに上等のスコッチを注いだばかりの状態を多少とも面白く言ってみた一例にすぎない。

「いいえ、詩人ではなくて、どちらかと言えば、広告のコピーライターですよ」

 と、ぼくは、こたえた。

 さすがにアメリカ女性だと、ぼくは感心し、そしてうれしくなったのだが、

「その平凡な氷を売るための広告宣伝コピーとして、いまの文句はほんとに素敵だわ」

 と、ぼくのこたえに、彼女はきりかえしてくれた。

 ぼくたちは笑った。彼女の注文した、ウオッカのホワイト・グレープ・ジュース割りが、届いた。ぼくたちは、乾杯した。

『ターザンが教えてくれた』角川文庫 1982年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年


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2016年5月5日 05:30
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