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瀬戸の潮風、うどんの香り

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 岡山県の宇野と四国の高松を結んでいた宇高連絡船に僕が初めて乗ったのは、三十代のちょうどなかばだった。そして最後に乗ったのは、瀬戸大橋が完成して連絡船が廃止されることになる前の年、一九八七年の夏のことだ。三十代なかばから四十代の後半が始まったばかりまでの、十年ちょっとのあいだに、僕はこの宇高連絡船に十五回は乗っている。往復で一回と数えているから、乗船回数は三十回ということになる。乗っておいてよかったといまつくづく思うし、もっと乗っておけばよかったのに、とも思う。

 東京生まれの僕は本質的にはただの東京の子供であり、いまもその本質になんら変わりはない。しかし太平洋戦争の大敗戦の前年から十年ほどの、幼年期と少年期の前半を、瀬戸内で過ごした。だから僕は、ただの東京の子供でありながら、瀬戸内育ちの側面を、本質のすぐ隣にいまもあるものとして、かなり強く持っている。おそらくそのせいだろう、瀬戸内全域に対しては惹かれるものがある。そしてそれに惹かれるままに、三十代の僕は、岡山から宇野へいき、そこから宇高連絡船で四国へ渡り、高徳線、徳島線、土讃線、予土線、予讃線と、四国を時計まわりに一周し、高松から連絡船で宇野に戻るという、ただそれだけの小旅行を思いつき、実行に移した。思いつくきっかけは、時刻表の前のほうに掲載してある鉄道路線地図を見たことだ。

 なんの用もない旅だから、ただひたすらぼんやりと、列車の窓から外を見ていればそれでいい。夏はかならずいき、都合に合わせて春ないしは秋に、もう一度。一年に一度だけという年も何度かあった。毎回おなじルートをたどった。徳島から海部までいき、二、三時間をそこで過ごして徳島へ戻る、というヴァリエーションを加えたことが、一度だけあった。高松から多度津までいき、そこから土讃線で琴平をとおって徳島線へ、というヴァリエーションもアイディアとしてはあったのだが、実行はしないままとなっている。

 宇野から連絡船に最初に乗ったとき、乗船したその瞬間に僕はうどんの香りを全身で受けとめた。昆布といりこ(煮干し)によるの香りだ。船のなかでうどんを食べることができるのだと直感した僕は、探すまでもなく讃岐うどんの店を見つけ、出航する前にすでに食べていた。これほどにおいしいうどんを、それ以前にもそれ以後にも、僕は食べたことがない。帰り道にふたたび僕は船内でうどんを食べた。そしてそれ以来、三十回を数える乗船のたびに、連絡船のうどんを食べた。ただし、往路で一度だけ、売り切れで食べられなかったことがあった。そして帰路に一度、もう一杯食べようとして店へいったら、すでに売り切れだったことがあったのを、いまもはっきりと記憶している。

 香り高い美味な熱いうどんの満ちたどんぶりを持ち、乗客の立ち入ることのできる最上階の甲板のようなところに出て、そこにある船室の前で船の進行方向に向けて両脚を開きぎみに立ち、瀬戸の潮風を全身に受けながら、瀬戸の陽光をおなじく全身に受けながら、うどんを全身の感覚の総動員で食べていくという、至福の状況と時間を僕は二度目の乗船で発見した。乗船回数はすでに書いたとおり三十回だとしておこう。一回に二杯食べたことが何度かあったから、売り切れで食べられなかった一度を埋め合わせて、食べたうどんの杯数は三十杯を楽に超えている。あれほどまでにおいしいうどんを、宇高連絡船以前に僕は知らないし、宇高連絡船以後においても、僕は知らない。

 あのうどんをいま一度、食べたいものだ、と僕は思っている。その強い思いに支えられて、いま僕はこの文章を書いている。文章はどんなふうにでも書くことができるけれど、あのうどん、つまりあれとまったくおなじうどんは、二度と食べることはできない。宇高連絡船の甲板で、瀬戸内の潮風と陽光を全身に受けながら食べたい、と願っているのだからその願いはなおさらかなえられない、絶対に不可能なものだと言っていい。

 出汁だけなら、あのときのあのうどんの出汁に、限りなく近いものを、僕でも作ることはできるだろう。瀬戸内の煮干しと醬油を使い、昆布をさまざまに変えてみながら何度か試行錯誤すれば、これだ、と思い込むことの可能な出汁は作れる。問題はうどんだ。いまから二十年、三十年前のうどんとおなじものを、いま作ることができるだろうか。うどんは進化している。その進化の過程を逆もどりすることは、とうてい無理なのではないか。さらにもっと大きく問題なのは、あのうどんをめぐる僕なら僕がいま持っている記憶の、精度だ。これだ、これはあのときのうどんだ、と叫ぶことはできても、ほんとにそうなのかどうかを正確に確認することのできるほどの精度の記憶を、その当人が持っていない事実を、当人自身が認めなくてはいけない。

底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年


『ピーナツ・バターで始める朝』
2016年5月7日 05:30
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