アイキャッチ画像

ジャパニーズ・スタイルを撮ってみましょう

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

「アメリカで刊行されていて、日本でも買えるのですが、絵葉書の本というものがあるのです。何枚かの絵葉書を一冊に綴じたもので、テーマ別になっています。マティスやピカソたちの有名な絵画からはじまって、子猫の写真からジェームズ・ディーンにいたるまで、テーマの幅は広いのです。その絵葉書の本のなかに、『ジャパニーズ・スタイル』というのがあります」

「見たことあるなあ、きっと。日本の風物を定石的に様式美的に撮った写真を絵葉書にしたものでしょう」

「それです。僕たちがこれからやろうとしているのは、その絵葉書の本の反対側と言っていいような気がします。様式と言えばこれも様式でしょうけれど、ジャパニーズ・スタイルとしか呼びようがないので、僕たちの撮ってくる写真もまた、ジャパニーズ・スタイルなのです」

「きみの言うジャパニーズ・スタイルの典型をひとつ、例を添えて説明してもらえるといいんだけど。ここで、あらためて」

「東京の一角の、僕がときどき歩くところに、一軒の天ぷら屋さんがあるのです。何度か入って食べたこともあるのですが、その店のおもての、木の桟が縦にならんでいるところに、夏のあいだずっと、ポスターが一枚、貼ってあったのです。細い縦長で、白い枠をつけた赤い地に、『夏こそ天ぷらを』と、白い文字で抜いてあるのです。僕はそれを写真に撮りました。ここにあります。そのポスターのまえを歩くたんびに、僕は、なぜか、なにかが、いつも気になったのです。なにが気になるのかよく考えてみたら、コピーのなかにある『こそ』の二文字が気になるのだ、ということに気づいたのです。夏こそ天ぷらを、というこのコピーの意味を、ぜひとも解釈してください」

「夏は暑くてなにかと体力を消耗するから、そんなときこそ天ぷらを食べて元気に過ごしてください、という意味ですよ」

「僕が気にしている『こそ』は、解釈されずにそのまま残っているではないですか。この『こそ』は、声に出して口で言うときには、普通なら0.3秒くらいのほんのちょっとした音でしかなく、日本人ならまったく気にとめないし、気にもならない、そこにそのように存在してごく当然の、普通のことです。でも、なぜ、夏には、ではなくて、夏こそ、なのですか。日本の人たちの文脈の外にふと出てみると、『こそ』は気になります」

「夏には、と言ってしまうと、夏と天ぷらは対等だけれど、夏こそ、と言うと、夏と天ぷらは、ともに強調されてるね」

「僕が考えをめぐらせて到達したところによると、『こそ』という一見したところたいへんに簡単そうな言葉の裏に、日本の夏の風物詩に関して、日本人ならほとんどの人が暗黙の了解として理解の内部にたたんでいる、ひとかたまりの情報がかくされているのです。それはなにかと言うと、夏は暑くて食欲が減退するから、人々は冷たいさっぱりしたものを食べ、カロリーも栄養も不足しがちだけれど、そのような夏には、いつ食べてもおいしいはずの天ぷらを盛んに食べてください、という意味なのです。天ぷらのむこう側には、まずそれと対になる、そうめんに梅酒というような、さっぱりした冷たい食べ物、というものがかくされているのです。そのことが了解されていてはじめて、『こそ』が生きてくるのだと僕は思います」

「それは高級な各論だ。そしてそんな微妙なことは、いまでは誰にも通じないと思うな」

「夏で暑いから、さっぱりしたものを食べてすませる、という習慣もいまでは薄れていますからね。人々は季節に関係なく、塩と脂肪まみれの食事をしてます。ですから、夏こそ天ぷらを、というコピーは、かつては充分に通用した暗黙の了解を前提にしているだけに、訴求力は弱いと言えるかもしれないです。『こそ』という、日本語のきわめて日本語的な部分が、日本の大衆に通用しなくなっていきつつあるのです。というようなことを、ジャパニーズ・スタイルとして、僕は写真で拾い上げては観察してみたいと思うのですが、はじめの二、三回は総論になるでしょうね」

「きみとは、別な雑誌の連載で一年間にわたって、日本の地方都市をまわっては、いま言っているようなジャパニーズ・スタイルの写真を撮り歩いた下地があるんだよね」

「これまでとはまるでちがった感触の写真だと思うのですが、こういう写真を撮るのはどんな感じがしますか」

「撮影と言うよりも、標本採集だね」

「ぜんたいから部分を切り取り、それを持って帰り、観察し分析する。自然科学の第一歩ですよ。僕にとっても、写真を撮ると言うよりは、カメラを使って35ミリ・フィルムのあの枠の内部へ、超縮小コピーしてはがしてくる、という感じですね」

「地方都市と言えば、どこへいっても僕は東京を感じるね。地方都市で東京を感じるとは、つまり、東京がいつもものすごく明るく照らされている場所だとすると、どこの地方都市も、その明かりが届くか届かないかの微妙なところに位置している、ということです」

「東京へのすべての一極集中ぶりを、東京からはずれるとひしひしと感じる、ということですか。とにかく東京にすべての中枢があり、その中枢を中心にして全国に網の目が複雑にかぶさってはいるけれど、ひとつひとつの場所は網の目のひとつでしかないのでしょう」

「東京という中心がひとつあり、その東京になろうとしているところが二つ三つあり、あとは東京になろうとしている度合の高低差によって、東京からの距離感がきまるという印象はあるね」

「写真を撮りにいこうと思って、ふたりで新幹線に乗ってどこかへむかうとき、窓の外を見ているだけで、総論として思うことはたくさんありますね。たとえばいくつもの民家を窓の外に見るのですが、新しい家になればなるほど、造りが一律なのです。一律と言うよりも、もはや強制と言ってもいいほどです。たとえば窓です。既製品のおんなじサイズでおんなじ造りの窓が、壁面のなかにあるとき突然、ぼかんとあるのです。ここは窓、だから窓をくっつける、窓はいまはこれ、だから、はい、これで窓、という印象の窓です。自分の家のその部屋にとって、どのような窓がどんなふうに機能するともっとも快適でしかも自分たちの生活に適合するかというようなことは、まったく考えないままに、とにかく窓なのです。戦後から現在までにかけて、日本は無から立ち上がり、いまやおかねを持っているのは世界でも日本だけなどとおだてられるほどになったのですが、その間ずっと、日本の人たちは、自分の生活というものに関して、これっぽっちも自分では考えず、発言もしてこなかったのです。自分の生活ということに関して、センスも教養も知識も、まるでないのですね。窓をひとつのとっかかりにして、いまの民家を新幹線のなかから見ているだけで、このくらいのことははっきりとわかります」

「自分の生活、というものがないんだね。日常生活のなかに自分独特の根性が入ってないということは、日本の町のどこを歩いても、いつも感じますよ」

「総論と言えばまさにこれが総論になりますけれど、自分の生活がないとは、いったいどういうことなのかについて考えていると、目的地に到着して新幹線を降りたときにはすっかり打ちひしがれ、意気消沈してしまい、心理的にはへとへとです」

「自分の国のなかでこんな思いをするようになろうとは、思いもよらなかったね」

「日本とは、仕事を頑張る、ということでしかないのです。ですから自分の生活はないですし、ましてや街に美しさなどあるわけがないですね」

「仕事に頑張ってるなによりの証拠として、どこへいっても車が走りまわってるね。軽自動車から巨大なトラックまで、ぜんたいがひとつになって、轟々と音を立てて」

「経済大国と言われている日本は、企業制社会主義、などとも言われていて、いまの日本の経済の力は、いい成績を上げている数多くの企業の、その成績を全部足したものなのです。ですから日本はそのぜんたいが会社です。会社の仕事を今日よりも明日はもっと頑張る、ということにむけて、あらゆるものが存在していますね。会社とはつまり生産部門です。そして街という公共のものは、日本という巨大なひとつの会社の、生産部門の外に仮設された、ほんの間に合わせの、じつにみじめな歓楽街および商店街でしかないのです」

「日本のひどい街、などという特集を、週刊誌がグラビアで特集したりしてますよ。日本の街がいかにひどいかは、もう世界じゅうに知られてるでしょう。あまりにひどすぎて、当の日本人はなんとも思わなくなってしまった」

「京都駅に新幹線で到着し、あの駅の八条口に降りて外を見渡したときの失望感について、怒りに体をふるわせながら僕に語ったイギリス女性がいました」

「あそこもいくたんびにひどくなるね」

「1960年代の京都はとても良かったのです。ところが、二度のオイル・ショックと円高ショックとによって、日本はそれまで以上に、すさまじい勢いで、そのシステムぜんたいが、生産部門になったのです。安くて品質のいい物をたくさん作り、出来るだけたくさん売る、というシステムです。そのシステムの進展に合わせて、日本は破壊されていきましたね。見事に符合しています」

「どこの街のどこを見ても、あらゆるものが雑然として不統一だよね。まるでわざと好んでそうしたかのように」

「看板やポスターなどの文字に、横書きと縦書きがあるだけでも、見た目にはたいへんに雑然とします。それに漢字、カタカナ、平仮名、英文字などが自由自在に入り乱れ、書体にはまったく統一がなく、ほとんどの場合はもはや不気味ですらあるほどにセンスのないデザインがなされていて、色の使いかたはめちゃくちゃですから、統一感はなくなるし醜い、のひと言でかたづけられても文句は言えないですね」

「どれもみな、それぞれにばらばらなんだね。これはどうしてだろう。あの統一のなさは」

「あらゆるものが、当座しのぎの間に合わせだからですよ。とりあえず間に合わせて、その場をしのげればいいのです。中心軸としてひとつの基本的な理念がしっかりとあり、それにしたがってすべては運営されていくという方針ではないですから。アメリカとのいわゆる摩擦問題も、根はおなじ当座しのぎにあるのです。ほとんどすべてのものが、極大から極小まであるにしても、すべて企業のものです。誰もが自分のとこの売り上げを上げようとしていて、しかも既得権益のせめぎ合いのなかに街もほうり出されていますから、結果としてたとえば街は、現在のようにならざるを得ないでしょう」

「日本を三年も離れて戻って来ると、あまりの変わりように驚くね。かつてあったものがなんにもなくて、すべて新しくなっている」

「経済を回転させなければならないからでしょう。再開発とか活性化などと言って、あたりいちめん根こそぎなくなったりします。そしてその過程のなかでは、小さなものが大きなものにつぶされ、のみこまれていったりするのです」

「日本のほとんど全部が、企業のものなんだね。人々は仕事があるということ、つまりおおざっぱに言って、なんらかの企業に属しているということが唯一の財産で、あとはかつかつすれすれの生活をしているわけだ」

「そういった現実は、街なら街の外観にかならず出ますよ。いたるところ全部そうですけれど、いまここにある写真で言うなら、この横断歩道の写真は、怖いですね。日本のどこにでもある、ごく平凡な、ほんとになんの特徴もない横断歩道とそのむこうの町なみですけれど、陽影になっているむこう側へ渡っていくと、暗黒の奈落へ吸いこまれてそれっきりというような恐怖を感じます。都市というものは、もともと悪や暴力、恐怖、得体の知れない不気味なものなどがばっする場所としての歴史は持っているのですけれど、そういった古典的な怖さではなく、会社主義の過当競争経済でつるつるに整理されているはずのいまの街角がこれほどに怖いとは、興味深いことです」

「路面に描いてある白い矢印は、浮き上がってきて人を突きさして血祭りに上げるような雰囲気を持ってるし」

「庶民がささやかに生きる、平凡な日常生活の現場は、いまや単なる醜さを越えて、不気味な怖さをたたえています」

「陰鬱だね。なにごともけっして報われることのない、夢も希望もない時空間だ。ジャパニーズ・スタイルの標本採集者のきみとして、カメラを持って街を歩いていて、特徴的に目につくものはなんですか」

「いくつもありますし、どれもみなやがて各論として取り上げていくことになると思うのですが、たとえば若い女性の顔や姿を写真であしらったポスターがものすごく多いのは、ひとつのはっきりした特徴です」

「ふと視線をむけたところに、かならずと言っていいほど、そういうポスターがあるよね。日本全国ではものすごい数だろうな。しかもごく短い期間だけ街角に貼ってあって、そのあとはどこへともなく、おそらくはただのごみとして、消えていくんだ」

「若くてきれいな女性の笑顔や全身は、それだけでメディアになるのです。なにかのメッセージを託した媒体ですね。十人並をちょっと越える程度の顔をした若い女性が、ごく普通に愛想笑いをしている顔は、安易ではあるけれどなんのポスターにでも使えます。使えないものがあるとするなら、それは墓石や仏壇くらいのものです。もっとも、おばあさんや四、五歳の女のこは、霊園の広告に登場しますけれど。ごく簡単にメッセージを託する媒体として、若い女性の写真を使ってしまいがちであることはよくわかるのですが、それにしても多いですね。もともと女性たちは、男とは別の枠のなかに入れられていて、都合のいいときだけ一方的に、しかも便利に使用されているだけという基本構造を、僕は彼女たちのポスターから感じます」

「女は別扱い、ということだね。基本原理として広くゆきわたって浸透していて、そのことに関して誰も奇異に思ったりはしていない。ごくあたりまえのことで、それがなぜいけないんですか、てなもんだね」

「経済力がこれだけ大きくなり、それが世界じゅうにむけて突出し、欧米に敗北感をあたえ、嫉妬され、それをもとに批判や攻撃を受け、摩擦をとおりこしていまでは不気味がられているのですが、その不気味さはたとえば、女性の別扱いを平気でおこなっていることの自覚もない、という不気味さと直接につながったりするのです」

「水着のポスターはさすがに最近は少なくなったね。夏のボーナスの時期になると、ボーナスはここへ持ってきなさいという意味をこめて、銀行がさかんに水着のポスターを出してたけど」

「何年かまえの夏に、朝日新聞の投書欄で読んだ投書を僕はいまでも覚えています。夜遅くまで会社で仕事をして帰ってきて、電車を降りて駅を出て、人どおりのない歩道を歩いていくと、銀行のウインドーのなかがとても明るく、そのなかに陽に焼けた水着姿の女性のポスターが貼ってあり、にっこり笑っている顔を見るとほんとに不気味なものを感じる、という投書でした。20代なかばの女性の投書です。女性団体の抗議運動があり、それを受けて企業は水着やそれに類するポスターをしぶしぶ引っこめた、という経緯もあるのです」

「水着のポスターをいま見かけると、時代遅れやマイナーな印象を受けるけど、大資本を感じさせる大企業が出してくると、メジャーなものとして見過ごされてしまう雰囲気はまだあるね」

「というようなことは、女性たちもすでに充分に気づいていることですから、僕としてもっとも興味があるのは、日本の街角に女性のポスターが作り出している、なんとも言いようのない、貧しく寂しい独特のせきりょう感のほうですね。一枚のポスターを中心にして、その周囲に、はからずもある種のアート空間が生まれるのです」

「今度そういう写真ばかりふたりで撮って、ならべてみようか。まさにジャパニーズ・スタイルになるね」

「多少とも敏感な女性が見たら、目をそむけるだけではなく、泣き出しかねない光景になりますよ」

「それもこれも、戦後から現在まで、生産につながる会社の仕事だけのなかで生きてきて、そのなかにどっぷりとつかり、それ以外のことは考えずに来たことの結果だね」

「正しい日本批判はたくさんあり得ますけれど、現実の日本はそのような批判のかなり先へいってしまっているような気がします。およそいまだかつてなかった、前代未聞のことが起こりつつあるのだと、僕は直感します。その事態のまえには、もはや批判などまったく無力ではないかと思うこともあるのです」

底本:『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年

今日のリンク:片岡義男.com「掲載情報|「BRUTUS」森山大道と作る写真特集」


1992年 『ノートブックに誘惑された』 写真 女性 戦後 日本 東京 歩く 社会
2016年2月15日 05:30
サポータ募集中