アイキャッチ画像

虚構のなかを生きる

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 写真機を持って東京のあちこちを歩いているとき、僕は歩くことと考えることしかしていない。だからそのときの僕は人生時間のただなかにある。僕は人生時間と一体化している。そしてその僕は、これは写真に撮っておきたい、と思う光景をときたま目にとめる。僕はその光景を写真に撮るために、そこに立ちどまる。歩いていく僕と一体化して経過していた人生時間の外へ、そこに立ちどまることによって、僕は一歩だけ出る。

 そこに立ちどまるまでは僕とともに動いていた人生の時間は、立ちどまって写真機を構える僕をそこへ置き去りにして、比喩として前方へと経過していく。後方からは次々に新たな時間がやってくる。そのような時間は、ファインダーごしに光景を見ながらシャッター・ボタンを押したりしている僕を愛撫するかのようにかすめては、次々に前方へと去っていく。写真に撮りたいと思った光景を写真に撮っているときの自分も、歩いていたときとまったくおなじように、人生の時間のなかにいる。経過していくその時間の外へ、いま書いたようにふと一歩だけ踏み出す、というようなことは不可能だ。しかし、経過していく人生時間の外へ足を踏み出し、僕だけは止まっているような錯覚は、常にある。写真に撮る光景のなかに、そのときそこで経過しつつあった時間の断片を、写真として停止させ封じ込める。僕だけは時間の外へ出たような錯覚は、ここから生まれてくるのだろうか。写真機と一体化している一瞬、つまりシャッター幕が走って開閉するあいだのごく短い時間のなかに、僕は入り込んでいるようだ。そしてその短い時間は、写真に写し取られた画像となってフィルムの乳剤面に停止し、停止したままとなる。

 このようにして撮影したカラー・リヴァーサルのフィルムを、後日、ライト・テーブルにならべて僕は観察する。あの日あのときのあの瞬間という時間が、フィルムにならぶいくつものフレイムのなかに、具体的な画像として固定されている。この光景はいったいなになのか、と僕は思う。時間だけが真実なら、フィルムに写し取られているすべての光景は、真実ならざるものなのか。フィルムのなかの画像はすべて、シャッター幕の開閉に要した二百五十分の一秒というような、短い時間のたまものだ。しかもその時間は、光景から反射する光として、光景とともにフィルムのなかに固定されている。だからフィルムのなかのあらゆる光景は、やはり真実なのか。

 真実は時間だけであり、それ以外のものいっさいは、ほんの仮のものでしかない。これこそ現実だ、これこそ抜き差しならないリアリティだ、と人々が頭から信じて疑わない現実の光景は、じつはすべて真実の擬態なのだ、虚構なのだ。だからこそと言うべきか、フィルムに写し取られたさまざまな虚構の光景は、なんとも言いがたく徹底して人間じみている。人間そのものと言ってもいい、精緻な出来ばえの虚構の舞台装置だ。そして人間には、この虚構の舞台装置が、どうしても必要なのだ。このなかでしか、人間は生きていくことが出来ない。虚構の光景のなかを、誰もがほんのいっとき生きては、次々に消えていく。人生とは、長い短いにかかわらず、そのなかで自分が記憶した、いくつかの光景にしか過ぎない。僕が東京を歩いては撮影する、何本ものフィルムのなかにあるような。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


今日のリンクとお知らせ:小説、エッセイにつづき、「片岡義男全著作電子化計画」の新たなコンテンツとして「写真」が加わります。サポータのみなさんのお力もお借りしながら、片岡義男の写真5000点をおさめるフォト・ライブラリー《kataokaフォト》をただいま公開準備中です。まだご覧いただけるのはほんの少しですが、昨日、サンプル版をオープンしました。こちらよりご覧になれます。

スクリーンショット 2016-06-13 9.10.33

→サポータの方はサポータ本棚よりログインしてください(β版公開中。

flickr-ky-photo-album



2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 写真 時間 東京 記憶
2016年6月14日 05:30
サポータ募集中