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オートバイはぼくの先生

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 自動車は面白くもなんともない。乗っていても、すぐに飽きてしまう。たったいま書いたように、窓がテレビジョンのように思えてきて、退屈このうえない。それに、自動車でいくら長距離を走っても、自分の車の室内には、いつもの生活のにおいとかたちが残りつづけ、解放感などありはしない。

 自動車の中にすわってハンドルを握りながら考えることなんて、たいていはろくでもないことだ。考えても考えなくてもどちらでもいいようなことをぼやっと考えつつ、うつろな目で外を見ている。

 オートバイは、飽きない。見ただけで、胸がときめく。自分の好きなタイプのオートバイなら、じんわりと熱くなってくる。あまり好きではないタイプのオートバイでも、ライダーがきれいに乗りこなして一体感を見せつつカーブを抜けていくとこなどを見ると、なんという凜々しく美しいものだろうか、と思ってしまう。

 オートバイは、ごまかしがきかないから、好きだ。ごまかしてたらいつかは必ずしっぺがえしがくるし、自分自身の精神的・肉体的な状態の良し悪しが、はっきりとオートバイをとおして自分にはねかえってくる。横着を許容してくれる範囲は、自動車にくらべたらオートバイのほうがはるかにすくないはずだ。全身のあらゆる感覚を、いつもバランスよく緊張させなくてはいけないし、ライディングにあたってはやはり全身が総動員させられる。そしてその全身は、いつだって空間の中にむきだしだ。

 オートバイに乗るよろこびは、とても個人的でしかもぜいたくなものだと、ぼくは思う。ある程度の排気量になってくると、実用的な価値などゼロに近くなる。あのすさまじい機械にまたがって風を切りつつ、右に左にリーンしながら走っていく快感にもし実用的な価値があるとするなら、それはライダーひとりひとりの心の内側での出来事に限定されてくるように、ぼくは感じる。

 たとえばぼくは、日本という国の地理や気候が一体になってかもしだす季節感の中を、なんの目的もなくひとりで走るのがいちばん好きだ。

 こんなふうに走るとき、ぼくの気持は、とても高揚している。このうれしい、熱い気持ちは、伝えようと思ってもなかなか人には伝わらないようだ。

 しかし、自己満足とも、すこしちがっている。オートバイが偉大な先生で、ぼくはその弟子。弟子が先生といっしょになって、やるべきことをやり、学ぶべきことをひとつずつ学んでいくプロセス。これが、オートバイの楽しさだと、ぼくは考えている。オートバイは、ぼくにとっては、先生なのだ。いい先生にめぐりあえて、よかった。オートバイは人間が考えだして工場で大量生産した機械なのだが、よくできたオートバイの、その機械じかけのずっと奥のほうに、なにかとても偉大なものがじっとひそんでいるような気がしてならない。

 オートバイはぼくにとっては非常に個人的な楽しみだから、たとえば自分用のオートバイを選ぶときには、ほんとに自分だけの好みを基準にして、マシーンを選んでいる。

 かたちは、非常に大事だ。重量感の造型バランスの中に、クラシックなオートバイからひきついでいる、ある種の雰囲気がこもっていないとぼくは楽しくない。たとえばカフェレーサーは、人が巧みに乗っているのを見ると美しいと思うが、自分では乗ろうとは思わない。カフェレーサーをうまく乗りこなすことがぼくにはできないし、そのような適性がないように思う。

 古風なメカニズムには執着しないが、機械はやはりシンプルなほうがいい。どんな細部でも自分で部品交換できるくらいのメカニズムだと、エンジンがまわっているときの各部の状態を頭の中に描くことができる。これは、オートバイに乗るときにはとても大事なことだと思う。

 音にも、こだわりたい。オートバイの排気音はいろいろと攻撃の的になっているようだが、徹底すべきところはきちんと徹底したあげくの、良くできたメカニズムが、その作動の結果として必然的に生みだす音は人間の生理にとってけっして不快な音ではない。

 オートバイの音を、誰に対してもうるさがるなと強制するつもりはぜんぜんないけれど、いい音と悪い音の区別くらいできるようにならないと、いかなる領域においても、いいものと悪いものとの判断ができなくなってしまうのではないのか。

底本:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年


1979年 『アップル・サイダーと彼女』 オートバイ 自動車
2015年10月19日 14:22
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