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『結婚の生態』1941年(昭和16年)(2)

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 ふたりの結婚式の様子は省略されている。式を終わって車で出かけるふたりの、式場の玄関先での描写フィルムが、式にまつわるすべてを代表している。ふたりは彼の両親の墓参りをする。旅行が終わったらきみの両親の墓にお参りしようと佐野は言う。

 新婚旅行先へ向かう汽車のなかに、ふたりはいる。差し向かいに座席にすわっている。お腹が空いたと春子は言う。そういうこともあろうかと、佐野はサンドイッチを持って来ている。春子はうれしそうに食べようとする。隣の車輛から松本ゆみがドアを開けて入って来る、という偶然がそこで起こる。佐野は彼女に気づく。ゆみも気づく。おたがいに気づき合うふたりに、春子も気づく。知ってる人? と春子は聞く。そしてとたんにサンドイッチにはいっさい手をつけず、窓の外に顔を向けて口をきかなくなる。

 春子のこのような反応のしかたを問題にするよりも先に、松本ゆみがなぜこういうかたちで登場しなければならないのかが問題だ、と僕は思う。新婚旅行先へ向かう汽車のなかでという偶然は、現実にあり得ないことではないけれど、この映画ぜんたいにとってはたいへん不利に作用しているはずだ。こんな無理な偶然に頼るほかに、松本ゆみの出しかたはないのだろうか。それに、こうした偶然に頼ってまで、ここで彼女を出さなくてはいけない理由はいったいなにだろうか。彼女をここで出現させることに、意味はほとんどない。

 松本ゆみと佐野の関係は、すでに終わっている。関係の推移と結末に関して、佐野は真面目に反省もしている。しかし、松本ゆみに関する記憶は、一生残るだろう。夫は自分だけのものだと春子が思うなら、その夫には松本ゆみについての記憶も含まれている。松本ゆみにとっても問題はおなじだ。佐野とはとっくに別れた。彼との関係はもう二度とないだろう。とは言え、どこかで偶然に会えば、挨拶とそれに続く世間話くらいはするだろう。

 佐野とゆみは過去のある時期を共有する関係だ。その過去を夫の記憶から消し去ることは不可能なのだから、かたくなにゆみを拒否せずに、夫のかたわらから春子はゆみと向き合ったらどうか。新婚旅行中の出来事として、夫とかつて恋仲にあった女性と偶然に会うのは、妻になったばかりの女性にとって愉快なことではないだろう。しかし、愉快ではないことは、これからもたくさんある。不愉快なことと面と向き合う練習のチャンスにしたらどうか。

 窓の外に顔を向け、いっさい口をきかなくなるとは、いったいどういうことか。宿に到着してからも、すねた春子は窓の外を見ている。夫が宿帳を書く。部屋の係の女性が下がってから、春子は口をきく。さっきの人はゆみさんなのね、きれいな人ね、ほんとは好きではなかったというのはほんとなの、なぜそんなことがあったの、などと春子は夫に質問する。

 仕事が出来るようになっていく年齢の独身の男性に、佐野が松本ゆみと体験したような男女関係は、頻繁にあってはどちらも困るかもしれないが、一度や二度はかならず、あるといっていい。しかし佐野の場合、その関係はすでに終わっている。春子との結婚にはほとんどなんの関係もない。

 僕の過ちだった、と佐野は言う。過ちなどと言う必要はどこにもない。そんな言葉を使ってもいけないはずだ。松本ゆみとの関係は、人としてあってはいけないことなどではなかったはずだ。しかし彼はそれを過ちと言い、その過ちゆえに、誰よりもいい結婚生活をと願い、その願いを実現させることをとおして過去を償おうと思った、しかしそれは自分の思い上がりだったか、と佐野は言う。

 過ちではないものを過ちと言うから、それに呼応して償いという言葉が出て来ることを彼は自覚していない。彼が勝手に償うための結婚を、春子はパートナーとして引き受けるのか。佐野はそのことにも気づかない。春子は窓辺から唐突に夫へ駆け寄る。自信をなくさないで、私はよくわかってるの、ごめんなさい、などと春子は言う。

 結婚生活の日々が、佐野にも春子にも、始まっていく。バーへ誘う友人を断って、佐野は自宅へ帰る。春子は熱を出している。しかし彼女は熱を計っていない。体温計あったの? と彼女は夫に聞く。夫は体温計を出して来て、妻に体温を計らせる。体温を読んであげる。8度2分ある。夫は彼女の布団を敷く。着替えを手伝おうとする妻に、寝てろよ、と夫は言う。妻は布団に入る。

 しばらくして、隣の部屋の夫に、あなた、と彼女は声をかける。隣は書斎だ。そこの襖を開けておいて、と妻は言う。そして泣き出す。なんにも出来ないのにやっかいをかけてばかりで申し訳ない、と妻は言う。おたがいにこれからだよ、と夫は答える。「良き結婚生活建設の精神」の第一歩は、このようにして踏み出されている。

 自分たちの生活について、佐野は兄夫妻に報告する。妻の春子は子供っぽくて強情で、虚栄心が強く人の悪口を言う、と佐野は語る。しかし、これから五年、十年とかけて、それを直していく自信はあります、と彼は言う。春子の姉には、僕は注文が多いので春子さんは苦しそうです、と佐野は言う。

 佐野は新聞社で社会部に所属している。サンマの季節だが国民六人に一匹の割合でいきわたる予測である、というような取材を彼はデスクの電話でおこなっている。世のなかの動きは激しい、我々の仕事も変わりますね、と彼は部長と語り合う。そして、乳児の栄養問題についての連載ものを僕にやらせてください、と部長に頼む。

 戦争に向けての大傾斜は、この時期の日本では、もはや決定的だった。食料も含めて生活物資は人々にいきわたらず、栄養は不足ぎみだった。乳児においてそのことはもっとも端的にあらわれていた。この事実が、乳児の栄養問題についての連載ものの必要性を、新聞に感じさせた。なんとか健康体を維持し、それによる勤労を国家に捧げる、という価値観も関係していただろう。

 春子は妊娠する。『新育児法』というタイトルの本を夫は書店で買う。妊婦の春子は食欲にむらが出る。気持ち悪いから食べられないと春子は言い、お腹の子供のためにも気持ち悪くても食べろ、と夫は言う。喧嘩になる。仲直りしてふたりはスケートを見にいく。そこへ松本ゆみも男性とともに来ている。

 終わって外に出てから、お久しぶり、とゆみは佐野に言う。一度お会いしたかったのよ、きれいな奥さんね、怒ったかしら、などとゆみは言う。なんか用? と佐野は聞く。これはよくない。もっとほかに言いかたはあるはずだ。べつに用ってことはないけれど、久しぶりだから挨拶したかったの、奥さんにはあなたから謝っておいて、と言って彼女は連れの男性と歩み去る。

 春子はいっしょに来た姉、そして友人とともに、少し離れたところに立っている。今夜はお姉さんのところに泊めてと言う春子に、松本ゆみさんにあなたたちを邪魔する力はない、と姉は言い聞かせる。そう言われて思いなおした春子は、私たちはあの人に負けない自信が出来た、と夫に言う。

 松本ゆみとは、いったいなになのか。ふたりにとって、彼女はそんなにマイナスの力なのか。ゆみはなぜここまで恐れられなければいけないのか。ゆみにとっても、佐野との関係は完了している。かつて親しくつきあい、いまはもう終わった関係の相手だ。佐野とゆみは対等のはずだが、なぜゆみは悪者のように言われるのか。このことに関して説明はいっさいない。夫の過去の女に大きく揺れ動く新妻の心、という程度のことだとしても、新妻を動揺させるのがそんなにいけないのだろうか。

 冬は去り、春となる。そして夏が来る。佐野は翻訳のアルバイトを始める。給料の足しにするのだろう。あなたは外に出られてうらやましい、私はもうひと月も出ていない、と春子は言う。その春子に対して、佐野は注文をつける。かたづけはしない、家計簿はつけない、新聞は読まない、と。私はつまらない女? と春子は姉に聞く。彼は私にはあなたのことを褒めてるわよ、と姉は答え、いまなら私よりあなたのほうが結婚生活をじょうずにこなせます、とつけ加える。

 春子は男の子を生む。自信が出来た、と春子は夫に言う。そして、私が死んだらどうする? と聞く。結婚には二度と熱中出来ないまま、アパートでひとり暮らしをするよ、と彼は答える。その彼は、特派員として広東へいってほしい、という話を部長から受ける。その場で佐野は承知する。

 産院から赤子とともに春子は自宅へ帰って来る。庭の草がのびている。花を植えて、と春子は夫に言う。花よりも野菜がいいかもしれない、そして鶏も飼ってみたい、と彼女は言う。広東へいく話を彼は妻に伝える。危なくないの、と妻は心配する。広東を根拠地にしてあちこちへいく、と彼は言う。たいそう危ない。きみを信用していると言う彼に、いってらっしゃい、私も負けないようにやっていきます、と妻は答える。

 身内で夕食会が開かれる。佐野を送る会だろう。料理は春子の手料理だということだ。男の仕事の大切さや結婚生活の大変さが、ようやくわかってきたと春子はいう。とはいえたいへん平凡だ、と佐野は感想を述べる。これは佐野にとって、早くも結論と言っていいひと言ではないだろうか。

 空港に双発の飛行機が停まっている。佐野が乗り込む。見送りの人たちが来ている。『兄とその妹』〔島津保次郎監督、1939年〕の最後と、ほとんどおなじだ。飛行機は飛び立つ。自宅には春子が赤ん坊を抱いてひとりでいる。飛行機のなかで席にすわって、佐野はいろんなことを思っている表情だ。昭和16年の『結婚の生態』という映画は、ここで終わる。民間人を唐突に中国大陸へいかせてしまうのは、国家から厳しく強制された国策への、映画製作者たちの苦肉の迎合だ。

 佐野が自分で言ったとおり、彼と春子との結婚生活は、子供が出来た頃には、早くもきわめて平凡なかたちと内容に落ち着いた。その平凡さを彼らに獲得させた力の土台は、新聞記者という社会の第一線の仕事を彼が有能にこなすことによって手に入れる、給料と社会的な位置、そして彼がひとりの人として持っている、その他の多くの能力だ。この能力のなかには、良き結婚生活を可能にするに足る、妻や子供のことを真剣に考えて行動するための、感情や能力の質も含まれる。

 映画のなかでは妻の春子が前面に出してあり、佐野はややうしろにまわっている、と僕は感じた。しかしふたりの世界の中心軸は、佐野が獲得している職業人としての社会性であり、その軸を中心にして、彼と春子そして子供を乗せた日常生活は支えられ回転していく。

 支えられ回転していく日常のなかでの、さまざまなルーティーンのより円滑な運営の能力のぜんたいが、良き妻そして良き母ということだ。家庭内のもっとも現実的な位置から、すべてを引き受けることの出来る能力、そして出産と育児。ものすごく平凡なありかた、つまりかたちとしてはとっくに完成の域に達している結婚生活のありかたを、佐野と春子も自分たちのものとして引き受け、作り出した。

 「良き結婚生活建設の精神」とは、このことだったのか。佐野の人生にこれから波瀾はあるかもしれないが、職業人としての位置は出来上がっている。内的にも外的にも、彼は結婚生活を引き受けることが出来る。誰よりもいい結婚生活を作っていこうという意志も、強く持っている。確立された個人というものが彼のなかにどの程度まであるのかは不明だが、彼にくらべると妻になる春子は、自分という個人をまだほとんど作っていないうちに、結婚生活というルーティーンのなかに自分を置いた、と僕は感じる。

 日常のこなしかたは、日を追って身についていく。早くも子供を生んだ。自信がついた、と彼女は思う。実際にそれは頼りになる自信でもあり得る。結婚生活のなかでさまざまに身につけていく現実的なことがらは、春子という妻や母は作り得るが、春子という個人を作るかどうか、充分に作り得る。しかし、充分には作らないままに身のまわりという現実を身につけていき、それを個人の確立と取り違えることはたやすく可能だ。

 そうなったときの春子が持たざるを得ない最大の弱点は、夫が回転させている舞台の上から出られないという点だ。運命も人生もその舞台に預けたままとなり、彼女はそこに固定される。個人の確立に関してきわめて心もとないひとりの女性が、このような生きかたのスタート地点に固定される話、それが『結婚の生態」という映画だ。

 「良き結婚生活建設の精神」とは、可能なかぎりの多視点からの、自由で徹底した検討であるはずだ。昭和16年の日本では、どこからも文句の出ないような平凡なひとつの生きかたに人を固定せずにはおかないほどに、旧来の価値観が強力に人を支配していただろう。そして時局は、動きが激しいどころではなく、奈落の淵へ急速に向かっていた。東京の都市化とともに女性が少しずつ前面に出ていき、市民生活の多くの領域で女性が力を持っていくことは、すでに決定的だった。このエネルギーと、従来どおりのシステムが男女の役割を従来どおりのかたちと内容に固定しようと図るエネルギーとの、ふたとおりのエネルギーにはさまれて押し出されて来たものとして、「良き結婚生活建設の精神」を託すに足る「新たな物語」の模索への意志は、充分にあったのだと僕は推測する。

 しかし、どこからも文句の来ないような結婚生活をひとつだけ具体的に描くとなると、佐野と春子のそれのような、たいへん平凡なものにならざるを得なかった。結婚とそれ以後のふたりの生活という、小さなドラマへ視線を内向させることによって、当時の平凡な勤労市民たちは、国家が破綻していくプロセスという、当時としてはもっとも大きな物語に、加担し得た。夫が飛行機で広東へ向けて飛び立つとき、妻の春子は、赤子を抱えて自宅の縁側にひとり放心したようにすわっている。戦争という国家事業への、これは彼女になし得る最大の参加のしかただった。

[了]

(『映画を書くー日本映画の謎をとく』1996年所収、底本:『映画を書くー日本映画の原風景』2001年 *エッセイ・タイトルは1996年の初版にもとづく)

今日のリンク:キネマ写真館ー日本映画写真データベース『結婚の生態』

今井正監督『結婚の生態』1941年(昭和16年)7月公開・南旺映画・モノクロ・98分|脚本:山形雄策 原作:石川達三
キャスト|夏川大二郎・原節子・日高ゆりゑ・石黒達也・沢村貞子
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1996年 『映画を書くー日本映画の原風景』 『映画を書くー日本映画の謎をとく』 今井正監督 原節子 戦争 映画 昭和 結婚
2016年2月12日 05:30
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