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なんの変哲もない白いコーヒー ・カップと受け皿

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 なんの変哲もない白いコーヒー・カップと受け皿、というものを、かねてよりぼくは捜している。熱心に捜しているわけではないし、妙に執着しているわけでもない。ときたま思い出し、どこかにいいのはないだろうかと思ったりする程度だ。

 ぼくが捜している、なんの変哲もない白いコーヒー・カップと受け皿は、たとえば、コーヒー・カップやその受け皿というものに関して、長い歴史と伝統とを持っている国の、平凡でいいから誠実な職人が、ほとんどなにも考えずに自動的に手を動かした結果として出来てきたような、そんなコーヒー・カップおよび受け皿だ。

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 コーヒー・カップと受け皿に関する長い歴史と伝統、ということになると、やはりヨーロッパだろうか。ヨーロッパで最初に喫茶店が出来たのはヴェニスだった、という話をぼくは聞いたことがある。

 ヨーロッパの、たとえば大きな工場の従業員食堂とか、海軍の食堂、あるいは、おばさんがひとりでやっている小さな町のめし処などで使っているコーヒー・カップは、きっと白くてなんの変哲もないだろう。しかし、海軍の食堂のものにはそれらしい雰囲気が、そして工場の従業員食堂のものにはやはりそれにふさわしい雰囲気が、どこかにあるだろう。そのような、ある特定の雰囲気や持ち味のない、平凡ではあるけれど普遍に到達しているような、余計なデザインのまったくない、白いコーヒー・カップと受け皿とを、ぼくは捜している。

 ある素敵な女性が東京でみつけてくれたコーヒー・カップは、ぼくが捜しているなんの変哲もない白いコーヒー・カップと受け皿に、かなり近い。その近さは、七十パーセントくらいだろうか。フランス製で、APILCOとブランド名が入っている。ひとつのセットが九〇〇円だったそうだ。おなじスタイル、おなじプロポーションで、これよりふたまわりほど小さいドゥミタスと、対になっていた。このカップの素朴な平凡さを、ぼくは好いている。センスも知恵もないのに無理にデザインをほどこしたようなうとましさが、どこにもないからいい。

 カップの外壁は垂直だが、内側の壁は曲面とテーパーとの微妙な組み合わせだ。デザインした結果ではなく、ごく自然にこうなったのだろうと、ぼくは思う。コーヒーを飲んでいてカップの内側の壁にふと視線がとまるとき、壁が垂直ではないことにより、人はごく小さなやすらぎのようなものを、無意識に近いところで受けとめたりするのではないだろうか。

 受け皿の素朴さは、たいへんなものだ。どことなくでこぼこしていて、しかも心なしかゆがんで見えるところなど、たいへんにいい。中央のくぼみへの、カップの尻のはまり具合も、ぼくは気にいっている。把手の形とぼくの指との相性がいまひとつだが、外観上のバランスは悪くない。重さのバランスも、ごく自然だ。そして、色の白さは、これはたいへんに重要だが、このカップと受け皿はすんなり合格だ。

(2016年9月10日掲載、『彼らと愉快に過ごすー僕の好きな道具について』1987年所収)

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1987年 APILICO 『彼らと愉快に過ごすー僕の好きな道具について』 コーヒー コーヒー・カップ フランス 道具
2016年9月10日 05:30
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