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彼の後輪が滑った──5(夏)

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 真夏のかんかん照りの太陽の下を、ぼくはオートバイでかいくぐっていく。エンジンの周囲を経由してくる風の熱を、両脚に感じる。風の通る経路は、きまっているのだろうか。ぼくが左にリーンすると、熱い風は右の脚により強く感じる。そして、ぼくが右にリーンすると、こんどは、熱風は左の脚により多く当たる。道路の両側が深い林で、そのために道路ぜんたいが陽かげとなっているところでも、カーヴに入ると、右では左の脚に、左では右の脚に、より熱い風をぼくは受けとめる。

 片手を下にむけてさしのべ、エンジンを経由してくる熱い風を掌に受けてみる。脚で受けとめているときよりも、はるかに熱い。掌に感じるこの熱さは、そっくりそのまま、冬のライディングで体験するエンジンの熱でもある。

 冬の寒い日の午後、海に沿った道路を、ぼくはオートバイで走る。小さな漁港の町を出はずれるあたりで、信号が赤となる。ぼくは、その赤で止められる。オートバイを停めているあいだ、分厚いグラヴをはめた両手を、シリンダー・ヘッドにのせる。燃料タンクにかがみこむようにし、顔を起こして前方の冬景色に目をむけ、両手はシリンダー・ヘッドの上だ。

 ヘルメットのシールドごしに見える、横位置の長方形に区切られた光景のなかを、ぼくの目のすぐまえで、小さな雪の結晶がひとつ、白く軽く、流れるように横切っていく。その雪の結晶を、視線で追っていく。結晶は、やがて路面に落ちる。

 ぼくは、視線を正面にむけてのばしてみる。のびていく途中のすべての空間に、小さな白い雪が降っている。ついさっきまでは降っていなかった雪だ。赤信号で止まっているあいだに、その雪は降りはじめた。

 海に沿っておだやかに左へカーヴしていく道路のむこうに、トンネルがある。そのトンネルまで、ぼくの視線はのびていく。雪が、ぼくとトンネルとのあいだの空間に、点々と無数に白い。その白さによって、空気はさらに冷たくなったように思える。

 信号がグリーンに変わる。ぼくは、発進する。トンネルまで、アクセル・グリップのひとひねりだ。トンネルのなかに入る。排気音が何重にも乱反射して、結局はぼくに戻ってくる。その音のなかを、トンネルと同時に、ぼくはくぐり抜けていく。トンネルを出る。

 視界が、ぱっと開ける。さきほどよりも、海が大きく見える。雪の量が多い。空間はどこもすべて、その雪によってまっ白だと言っていい。結晶の小ささと白さは、トンネルに入るまえと変わらないが、トンネルをひとつへだてただけで、降ってくる結晶の量は、はるかにこちら側のほうが多い。グリップを握る両手から、さきほど楽しんだシリンダー・へッドの熱は、とっくに逃げている。

 雪のなかを海に沿って走っていくと、鉄道の線路が道路に寄り添ってくる。道路と鉄道とは、かなりの距離にわたって、ならんでのびていく。

 ぼくが走るのとは反対の方向へ、特急が走っていく。ぼくの視界の片隅を、その特急は後方へ飛んでいく。

 その特急の、海の見える窓側の席にすわっている自分を、ふとぼくは想像する。車内販売のコーヒーを、ぼくは買ったばかりかもしれない。わざと持ちにくく作ったような紙コップを、ぼくは窓枠の上に置く。コップのなかのコーヒーは、充分に熱い。

 窓枠に置いたそのコーヒーから、湯気が立ちのぼる。その湯気は、すぐ隣りにある窓ガラスを、コップの縁から上にむけて、長くひきのばした楕円形に曇らせる。

 その曇った部分を、ぼくは見る。そしてそこをとおして、窓の外の景色を見る。冬の景色のなかを、特急列車は走っていく。

 ある年の盛夏の日の午後おそく、高原のふもとの小さな踏切でオートバイを止め、列車が通過するのをぼくは待った。走っていても暑いのだから、止まるともっと暑い。流れ落ちる汗を拭いながら、特急が通過するのをぼくは見守った。

 そのときのぼくは、西に背をむけていた。特急は、その西陽の直射を片側に受けとめて走った。どの窓にも、カーテンが閉じてあった。終わりのほうになって、ひとつだけカーテンの開いている窓があった。白いシャツにタイをしめたおじいさんが、缶入りのウーロン茶を飲みつつ、その窓ごしに外を見ていた。缶を口に当て、顎をあげて飲みながら、踏切を通過していく特急のなかから、彼はオートバイのぼくを見た。

『個人的な雑誌1』角川文庫 1987年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1987年 1996年 「彼の後輪が滑った」 『個人的な雑誌1』 『彼の後輪が滑った』 エッセイ・コレクション オートバイ 季節 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』
2016年8月12日 05:30
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