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ジャニス、たしかに人生はこんなものなんだ 4

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ー 4 ー

 楽屋のとなりの出演者控え室は、コンクリートの四角い部屋だった。壁には白いペイントが吹きつけてあり、天井に蛍光灯が二列にともっていた。いっぽうの壁に、大きな鏡があった。

 ジャニスは、折りたたみの椅子にすわっていた。むかい側の壁の鏡に、ステージに出るための衣裳をつけたジャニスの姿が、映っていた。

 濃い紫色の、ぶかぶかのプルオーヴァー・ブラウス。肩から胸にかけて、四角く肌が出ている。下は、黒いパンタロン。両手首の腕輪と、首からかけたビーズ飾りのほかには、なんのいろどりもない、地味な衣裳だ。

 ステージ衣裳として地味すぎないかと私が言うと、ジャニスは、笑った。蛍光灯の光を受けてまっ白に見える彼女の顔に、かわいらしい笑いが浮かんだ。

「母が、よく衣裳を送ってくれてたのよ。でも、とても派手すぎて、私には着る気にはなれなかった。みんな、人にあげてた」

「バーボンを飲みはじめたのは、いつごろからですか」

「ラマー・ステート・カレッジにかよってたころね。よく勉強したし、体重を落としてボウリング場でウエイトレスのアルバイトをしてた。仕事が真夜中に終わるから、そのあと、ビールを持ってボーイフレンドと海へいき、夜中の二時には家へ帰ってた。そんな静かな期間のあと、州境をこえたルイジアナまで、酒を飲みにいくようになったの。テキサスでは、法的に許可された飲酒年齢が二十一歳だけど、ルイジアナでは十八なのよ。酒を飲んでひとさわぎしたい人は、みんな車でルイジアナまで出かけてた」

「自動車事故で死にかかったこともあるんですって?」

「ぐでんぐでんに酔っ払って、車をぶっ飛ばして帰ってくるとき、車が横転したの」

 オースティンまで酒を飲みにいったとき、ジャニスは、ザ・ゲットーと呼ばれているアパートメント・ハウスのならんでいる一帯を知った。

 一九六二年のオースティンは、保守反動の聖地だった。テキサス大学などは大勢順応の総本山のようだった。

 サンフランシスコのビートニクたちの世界が各地に飛び火していたが、どこでもすぐに消えてしまっていた。だが、オースティンのザ・ゲットーには、ビート・シーンと呼んでさしつかえない世界が定着していた。オースティンにおける反体制の中心が、ザ・ゲットーだった。

 ジャニスは、このザ・ゲットーが、ひどく気に入ってしまった。たまたまふらりとやって来たのだが、そのままいついてしまい、そのあくる日には、ザ・ゲットーの連中とグループをつくり、うたっていた。

 オースティンは、非常に熱心なフォーク・ソング運動の中心地でもあった。普通の人たちのあいだではキングストン・トリオのようなグループが全盛だったけれど、ビートニクたちのあいだでは、エスニックなフォーク・ソングが熱く支持されていた。そして、さらに少数だが、黒人ブルースの支持者たちもいた。

「ポウエル・セント・ジョンという人がハーモニカを吹き、ラニー・ウィギンスがベースをやってくれて、私がうたったの」

「ザ・ウォラー・クリーク・ボーイズというグループですね」

「そう。日曜の午後にはユニオン・ビルディングで、水曜の午後にはほとんどいつも、スレドギルという店で、私たちはうたってた」

 うたうのと同時に、ウイスキーも、めちゃくちゃに飲んだ。

「どんなうたいかただったのですか」

「ブルースなら、ベッシー・スミス。バラードはジーン・リチー。カントリー・ソングの場合は、ローズ・マドックス。自分独自のスタイルというものが、まだできてなかったのよ。聴いてくれる人たちの反応を見ては、もっとも受けやすいスタイルをいくつか使いわけてたの」

 自分のスタイルとしてロックとブルースを選びとり、ロックやブルースにふさわしいイメージを自分に関してつくりあげるにいたるまでに、ジャニスは、ソプラノの声を失ってしまった。バーボンを飲みまくったせいだと、誰もが言う。

 バーボンのほかに、ザ・ゲットーにいるあいだにジャニスはセコナールをやった。セコナールを多量に飲んでは狂ったみたいになり、夜中に外を歩きまわって自動車に何度もひかれかけたり、建物に頭からぶつかったり、たいへんだった。

 ジャニスが幸せではないことは、誰の目にも明らかだった。酒とセコナールでさわぎまわり、歌をうたい、八方破れの言動でいつも外向的にしていたジャニスは、自分自身の不幸がどれだけの深さを持ったものなのか、まだ気づかずにいた。

 オースティンのテキサス大学で、ジャニスは、学生たちから、「最高の」の第一位に選出された。苦渋に満ちた手紙を母親に書き送り、ジャニスはサンフランシスコにむかった。一九六三年の一月のことだ。チェット・ヘルムズという男が同行した。

 チェットはテキサス大学の工学部の学生だったのだが、公民権運動をきっかけにサンフランシスコのビートの世界を知った。オースティンにもどってきてジャニスと知りあい、ジャニスはテキサスにいるよりもサンフランシスコに移ったほうが可能性は開けるだろうとの判断のもとに、ジャニスをカリフォルニアに連れ出した。

「五十時間かかってオースティンからサンフランシスコのノース・ビーチへいき、すぐに、『コーヒーと混乱』という店で、うたったの。その店では、歌をうたってお客からカネをもらうのはずっと禁じられていたのだけど、私がうたうとみんながなけなしのおカネをはたいてくれて、十四ドル、集まったのよ」

 一九六三年冬のノース・ビーチは、激動の過渡期だった。ビートニクの世界は終わろうとしていて、そのあとに来る新しいものの胎動が人々にすでに伝わりはじめていた。

 あらゆるものが自由な輝きをはらんで動いていた。固定されたかたちのようなものがどこにもなく、どんな方向にでも発展していけるのだという可能性がひどく新鮮だった。

 控え室に、ステージ演出助手が、入ってきた。ステージでは、ジャニスの新しいバンド、フル・ティルト・ブーギ・バンドの演奏がすでにはじまっている。ジャニスがステージに出られる状態にあるかどうか、演出助手は確認しにきたのだ。ジャニスの出番が近い。

「公民権運動から生まれたフォーク・ソングの運動は、政治と結びついたもののように思われてるけど、政治と結びついた運動、というようなかたちすら、そのころはまだなかったのよ。六三年から六六年くらいまでが、サンフランシスコの最高の時期だった」

『コーヒー・ギャラリー』や『コーヒーと混乱』で、ジャニスはうたった。自分でオートハープの伴奏をつけながらソロでうたうこともあれば、のちにジェファスン・エアプレーンのメンバーとなったヨーマ・コーコーネン・ジュニアが伴奏者になることもあった。

「でも、うたうといっても、仕事としてきちんとやっていたのじゃないから、路上生活者なのよ。失業保険や社会保障などで社会にたかりながら生きるのを専門の職業にしている人たちばかり。でも、私には、うたうということと、うたう場があったから、その点で、ストリート・ピープルとはほんのすこしだけど、ちがってた」

「ドラグはさかんだったのですか」

「メセドリンのようなスピードの大流行があって、それからヘロイン」

 アンフェタミンには化学的には中毒性はない。気持ちが沈んだり、自分のカラの中に入りこんだまま出てこられなくなったりすることはないのだが、薬が効いている状態から現実の世界にもどっていく灰色の重荷が耐えがたくなる。

 演出助手が、またやって来た。出番です、とジャニスに言った。

 折りたたみ椅子から立ちあがったジャニスは、私を見て次のように言った。

「人生ってこんなものなのですかって、父親に手紙を書いたことを覚えているわ。父親が返事をよこしたの。人生はたしかにこんなものなんだ、その中から自分のものを見つけなくてはいけないんだ、という返事だった。人生ってほんとにこんなものなら、生きてる意味なんかないなと、そのとき私は思った。いまでもそう思ってる。そのとおりはっきり書いといてね」

(了)

『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年

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1979年 『アップル・サイダーと彼女』 アメリカ エッセイ・コレクション ジャニス ビートニク ブルース 片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』
2016年1月22日 05:30
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