アイキャッチ画像

僕の国は畑に出来た穴だった 3

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

前回(2)

この作品は、『日本語の外へ』「第2部 日本語──ペシミズムを越えようとしていいのか」
に収録されたものです。

 幼い僕が初めて自分の国というものに気づいたら、その国は戦争をしていた。戦争をしていたという言いかたは、問題を戦争だけに限定してしまう。可能なかぎり範囲の広い言いかたに換えるなら、自分の国というものに初めて僕が気づいたとき、その国は方針を悲劇的に間違えていた、とするのがもっとも正解に近いだろう。ぜんたいの状況を決定的に読み違え、その上に間違った政策を乗せ、その政策にもとづいて無謀に外へ打って出た。読み間違えにもとづいた方向の誤りは、ただ単に死者の数を数えただけでも、五百万人が消えたというたいへんな結果を招いた。

 間違った政策を新聞が煽り、それに大衆が乗った。大衆という存在は、なにかいい話はないものかと、常に待っている人たちだ。理性とは反対側に位置する心情の持ち主だ。外に打って出て領域を広げるという政策を、そりゃあいい話だ、と大衆は受けとめた。明治維新から十五年戦争をへて敗戦まで、事態はいったいどうなっているのか、大衆はなにも知らなかった。そして敗戦となり、占領、新憲法、民主主義と、それ以前をなんにも知らないところへ、予備知識も考える余裕もないまま、新しい事態が矢つぎ早に起こっていった。

 知らないこと、そしてわからないことばかりだったが、大改革された現実を国民の頭数で割ると、それは誰にとっても、なんともありがたいマッカーサー様、ということだった。難しいことはなにも考えずに、全員で走っていくことの許された唯一の方向、それは日本の経済復興だった。経済復興は、実現されればされるほど、身のまわりの現実の向上となって目に見えた。一九五〇年代には復興は早くも立ち上がっていたし、それから五年後には、もはや戦後ではないと国が宣言してもいいほどに、復興は進んでいた。

 明治維新から戦争をはさんで新憲法そして民主主義まで、自分の国に関して自前で考えて持つべき国家や歴史に関する、可能なかぎり客観的な視点という、もっとも重要なことを戦後の日本は見事にバイパスした。戦争が方針の間違いであった以上に、戦争以後もじつは間違っていた。しかしそのバイパスの見事さは、それ以後の経済活動にとって、原動力のように作用した。

 戦争は終わっていないという言いかたは、文芸的にではなく、しごくまともな文脈で成立する。戦争が終わっていないのであれば、大事なことはなにひとつ考えずにきたという意味で、戦後を知らないと言わなくてはならない。戦後を知らなければ、たとえば冷戦がなにだったか、本当には知らないことになる。外に打って出る政策を、そりゃあいい話だと支持した大衆は、理性とは反対側の位置にいた人たちだった、とさっき僕は書いた。理性とは、自分の頭を使って考え抜くこと、つまり個人の自由だ。昔にはこれがなく、昔以後もなかったという状態は、経済活動つまり物を作って売るためのエネルギーに、姿を変えた。

 新憲法の制定は天皇制の維持と引き換えだったとする説が本当なら、それは大きなねじれを生んだ。引き換えでなければ天皇制は否定されていたのだろうか、日本が外でおこなった戦争はすべて侵略行為とされ、明治からの日本は世界によっていったんは否定されたのだろうか。しかしそれはまぬがれた。昔のシステムを日本は復活させ、経済活動にあてはめて頑張った。

 国というものは、そこに生きる人々を抜きにして考えると、単なる概念にしか過ぎない。国とは、そこに生きる人々だ。そして国の力とは、その人々の生産性のことだ。今日と明日はたいして変わらないかもしれないが、十年、二十年と経過すれば、経過した時間の量に相応して、人々の生活はより良き方向に向けて、目に見えた変化をしていなくてはならない。そうなるように、おおもとの枠組みを考えて実行に移すのが、国の仕事だ。

 日本という国はそういうことをしているかどうか。人々の生活はより良い方向へと変化しているだろうか。戦後の自国内での自分たちの生活の変化は、たとえばアジア地区のいくつもの国の人たちにとって、目標的なお手本になるだろうか。ヴィデオ・カメラが小さくなってきみの生活は向上したかいときかれたなら、なんの関係もないよと答えるほかない。

 人々の生活にとって、もっとも基本となる土台は、住む家だろう。神戸の地震でそのことはきわめて具体的に立証された。人々の家のために、日本という国はどんな政策を採用してきただろう。いまのアメリカでの場合と比較すると、一軒の民家の建築費は少なく見積もって日本はアメリカの四倍、そして税金はこれは確実に五倍だ。アメリカで家が安いのは安くなるような政策を国が採択したからだ。日本で高いのは高くなるような政策をそのまま維持し続けたからだ。

 材料費、建築費、税金という直接的な費用がすべて日本ではずば抜けて高いだけではなく、一軒の家が建つまでの物の動きの経路のぜんたいに、コストを押し上げる原因が数多く貼りついている。この高コスト体質から逃れるために、たとえば製造業はインフラストラクチャー費用の安い海外へ逃げていく。製造業が海外へ出ていくのは人件費が安いからであり、人々が裸足で歩いている貧乏な国では人件費も安いさ、というような理解は間違っている。人件費は製造に必要な費用の十パーセント以下だ。製品が出来てからそれを動かすための費用が、日本にくらべて三分の一のところがあれば、製造業はそこへ出ていく。日本でなぜ高いかというと、状況の進展をなにも見ないままに高く放置しておく政策が敷かれているからだ。

 状況を見ないこと、そして昔は有効だったがいまはもはや有効ではない政策を、頑として守りとおすことを、日本という国は仕事にしている。土地価格の高さは政策の間違いから生まれた典型的な症状だ。戦後の日本の経済成長の原理は、他とのあいだにある差が儲けになるという、資本主義の原理だった。他との差とは日本の技術力だ。しばしば言われてきたとおり、いい物を安くたくさん作って売るという作業ぜんたいが、他では出来ずに日本では出来た、ということだ。

 この原理による経済活動の成長期には、企業は資金を大量に必要とした。持っている土地を担保にすると、銀行はおかねを貸してくれた。企業活動の規模を拡大し、新しい領域に広げていく作業には、当然のこととしてリスクがともなう。日本では土地の担保力がこのリスクを引き受けた。成長期だから企業の業績は上がっていく。株が上がる。企業はさらに拡大していく。持っている土地の価格も上がる。そのことによる利益に税金はかからないしかけだ。土地価格の上昇は他のすべての土地へ波及していく。銀行はさらに資金を提供してくれる。

 土地は会社のもの、そして銀行のものだ。企業や銀行を過剰に支える政策が五十年も続いた。企業や銀行は確かに支えられたけれど、そのことによる弊害や矛盾を政策の側の人たちは見なかっただけではなく、五十年はほんの仮のことにしか過ぎないのに、これはこのまま続いていくと思ってしまったことが、これから以後に対してたいへんなマイナスとなって作用する。経済活動にはかならずなんらかのリスクがともなう。もっとも純粋なリスクは、次に来る新しい状況というものだ。その状況によっては、なにがどうなるかわからない。長期的に見とおす視点は現在の弊害や矛盾をかならずすくい上げるはずだし、次に来るべき状況もとらえるはずだ。しかしその視点は日本にはなかったようだ。

 銀行が企業に融資した資金は国民の貯蓄だ。次の時代をわざわざ大いなる危機として迎えることに、その資金は使われた。戦争をすることを別にすると、国民にとって国が犯し得るこれ以上の間違いがあるだろうか。日本の経済活動はからくりのなかに守られてきた。世界を巻き込んだ巨大なからくりならまだしも、すぐに駄目になる児戯に等しいものであっただけに、国民としてはなおさらつらいところだ。

 製品は大量に生産され売られたが、それらの製品の質や内容において、日本企業は真の競争をしてその競争に勝ったのだろうか。そうも言いがたいと思うなら、その思いの向こうにからくりのすべてがある。企業どうしが持ち合った株や銀行の保有株は、証券会社によって誘導されて高値となる。一夜にしてなんの苦労もなしに資本が増える。株が下落すると含みの目減りというじつに情けない事態、つまり日本システムの総体が、日本の企業にとってあっさりとコストへと転換していく。からくりとは日本システムであり、それらすべてがこれからの日本にとって膨大なコストになる。

 からくりの有効期限は終わった。日本の企業千五百七社の、一九九〇年と九四年との利益を比較した数字を、僕はカードにメモしておいた。それを僕はいま見ている。九四年の利益は九〇年のそれの半分だったという。これは驚愕すべきことではないか。個々の企業の問題ではなく、明らかに日本システムの問題だ。しかも半分に落ちたその利益は、株と土地を処分してようやく達成したものだということだ。真の利益は九〇年の三分の一だと知ると、もはや惨状と言っていい収益の低さに対して、責任を取るシステムはあるのだろうか、などと僕は思う。そのようなシステムは日本の企業にはない。

 低い収益でもいいからとにかくシェアを拡大する、というような方針はたとえば株の持ち合いによって守られてきた。自分たちで持ち合うことによって、自分たちの外にいる人である株主の発言を限りなくゼロにしておく。そんな低い収益では困る、と発言するチェック機能を消してしまう。株を保有している銀行は、融資が稼ぎだから企業に融資する。この場合の融資とは、拡大や進出のことだ。収益率は低くてもいいからとにかく出ていくということになり、アメリカへ進出したりした。

 日本の貿易黒字がしばしば話題になるのを見るが、そんな黒字は本当なの、という気持ちにならないだろうか。儲かるのはいいことじゃないか、などと思っていてはたいへんだ。総合収支は恐怖を覚えるほどの赤字だし、黒字だけを切り取って観察しても、黒字の数字の大きさは、日本にとっての怖さが世界じゅうに広がりきっていることを教えてくれる。世界で唯一の貿易黒字があるとは、それだけ途方もなく買ってくれたマーケットがあり、日本は完全にそこに依存しているということだ。製品を作るためには原材料やエネルギーを輸入しなければならないのだから、貿易黒字の大きさはその点でも日本が決定的に外に依存していることを語るものだ。エネルギーの外への依存度は九十パーセントを越えているのではないか。

 円高のとき日本の貿易黒字は減ったと言われた。売ることによる黒字は減るかもしれないが、原料やエネルギーは安く買える。為替的に安くなったものをあまりにも買うから、減った黒字を補っただけではなく、円高になる以前よりも黒字はさらに増えた。外の世界に対する日本の依存度の高さは、そこまで到達していた。日本が貯め込んだ対米黒字は日本がアメリカで売りすぎたからだなどと難くせをつけながら、アメリカは円高へ誘導した。それまで灯っていた明かりが消えたかのように、おもてになっていたカードが風のひと吹きで裏にひっくり返ったかのように、日本の稼ぎは文字どおり一瞬にして消えた。

 公的年金基金、企業年金、共済年金、生命保険、信託、簡易保険、郵便貯金、といった言葉もその実態も、僕の生活にはほとんど関係はないけれど、これらの基金つまり国民の貯金で国家はアメリカの国債を買い、為替の差による損失は五十兆円に達している、とメモしたカードも僕のファイルのなかから出てきた。僕は夢を見ながらこのメモを書いたのではないかとも思うが、どうやら本当のことらしい。円高の対策として、という名目でデリヴァティヴにも手を出すことを強制され、そこでも巨額の損が出ているという。国民の貯金がいっさいなんの利益も生まないどころか、いつのまにか消えてなくなるという政策を国家は採択し実行した。

 一九八〇年代の前半、日本の円は一ドルに対して二百八十円もしていた。この安さはそもそも間違っていた。もっと高く評価されるべきだったのだが、この安さは日本の企業にたいへんな儲けをもたらした。儲けは企業内部に蓄積された。一九六五年の円高誘導で円は百二十円にまでなった。それ以前の巨大な儲けの内部蓄積があったから、企業はこの円高を切り抜けることが出来た。そしてその頃はバブルに向けてすべてが膨らみつつあった。虚構の内需が爆発のように拡大された。値上げしてその内需に支えてもらうというからくりの上を、企業群は轟々と滑走していった。

 円高の頃、海外とくにアメリカで、ダンピングの批判が日本に集中した。からくりの正体を見るためのヒントがここにある。ダンピングだという批判とは、日本は不当に安く売っているではないか、という批判だ。不当に安く売るとは、この場合は日本が値上げをしなかった、ということだ。製品の価格を日本企業は据え置いた。そのぶんを国内の合理化と内需が引き受けた。合理化も遠くを見とおした上での確たる方針ならいいけれど、外でつらいから内に無理を言うといった種類のものだったから、円高はたいへんだたいへんだと騒がなければならず、騒いだついでに値上げがおこなわれ、国民はその値段で買ってからくりを支えた。

 日本は会社になった。日本のすべてが会社に囲い込まれた。官が会社を手厚く保護して支え、その構造ぜんたいに対して政がもたれかかる、という聞きなれた三角形の決定的な弱さは、あらゆることが会社単位でしかおこなわれないという点にある。会社の営業品目にあることだけが、世界のすべてになってしまう。国家百年の計を練り上げて支えるだけの人材は探せば民間にいることは確かだが、国家百年の計を会社が引き受けるわけがない。

 出来るだけ正確な情報を広い範囲にわたって自前で集め、それらを自分の頭で分析して方向を導き出し、それにもとづいて自主的な判断を下しつつ、適切に行動しその責任を自分で負う、というような確立された強い個人を、会社は作り出さなければならない。世界と直接に接する最前線では、そのような人材が切実に必要とされている。必要のあるところに、その必要にふさわしい人材が集まってくる可能性は、否定出来ない。

 この五十年間の日本をひと言で言いあらわすと、すさまじいまでの変化、というようなひと言がふさわしいと僕は思う。外見上の変化だけを見ても、変わり果てた我が祖国がそこにある、と言っていい。それほどまでの変化を土台のところで支えているのは、三流の土木建築工事の積み重なりだ。そしてそれは政財官の癒着の象徴でしかない。人々が邁進した経済活動は、そのまま日本のすさまじい変化へと姿を変えた。我が社の利益やシェアは、個人の利益や欲望の象徴だった。

 それだけがこの五十年間のすべてであり、それを越えたものはどこにもない。それを越えたものと言われても、ちんぷんかんぶんに近いのではないか。内容的に見ても、この五十年間は急激な変化の連続だった。ついさっきまでは最新だったものが、あれはもう古いものとして打ち捨てられてそれっきり、ということが繰り返されて生まれる変化の連続だ。作っては壊し、壊しては作るという高回転の上に、すべては支えられた。

 激しい変化とは、その前後とつながりを持たない状況のひとつひとつ、ととらえていい。だからそのような激しい変化の連続は、人々のあいだに断絶が多く生まれたことを意味する。激しい変化の連続とは、世代間のかたっぱしからの断絶だ。世代ごとにぶつぶつと切れてしまって、脈絡のあるつながりはなくなった。断絶の単位はいまでは世代どころではなく、もっと細かい。人々は細かな単位で切れてしまっていて、つながりを持っていない。

 そのような社会がまっ先に失うのは、どの世代にとっても共通して作用すべき重要なもの、というものだ。人々が社会を作り出して支えていくにあたって、人々の価値観のなかをつらぬくもっとも重要な中心軸。これが早々と失われるから、そのようなものが自分たちの社会のなかに存在していないことに、人々は気づかない。そういうものがないのだから知らなくても当然だし、世代から世代へと確実に伝わっていくことなど、最初から期待出来ない。個人のあの欲望やこの願望を越えたところにある、したがって社会ぜんたいに共通する大きな価値。なんですかそれ、という状況に五十年かけて到達した。五十年前にはそれがあったのかどうか、その時代にはいなかった僕にはなんとも言えない。

 次々に現れてはつながっていく時代というものが、自分たちにとっていったいなにであるかを正しく認識するためには、これこそ自分たちが信じる価値なのだ、と言いきれる判断の基準となるものが必要だ。そういうものが頭の端にのぼることもなく、信じられるのは個人の利益や欲望という、そのときどきの小さな実感だけだというなら、かつてもいまもこれからも、時代などなにひとつわからないままとなるだろう。いつまでたってもしがらみとしてのいまが連続するだけであり、そのなかには個人の欲望の消費的な充足だけがある。

 自分たちの社会を自分たちでは支えられない、という事態がすでに生まれている。社会を自分の手で作っていくことが出来ない、という状態がいまの日本であり、いまの日本の弱さや貧しさの源はここにある。自分たちの社会を自分たちで支えられないのなら、国の力は低下を続けていくほかなく、このような意味での国力の低下こそもっとも危険だ。そしてこのような事態の上にいまも乗っているのが、日本システムという奇怪なねじれだ。

 密室のなかにいるごく少数の人たちが、ほとんどなんの根拠もないままに、間違った決定をする。決定されたとたん、その決定は正しくて不動のものとされる。多くの優秀な頭脳が集まって、その決定を多くの視点から厳しく検討する中立の機関という夢のようなものは、どこにも存在しない。したがって間違った決定はそのまま一方的に全員に強制される。どんな問題がおこっても決定はくつがえらず、変更も修正もされない。日本システムそのものが、変化への対応が悲劇的に遅れるしかけになっている。このシステム、そしてそのシステムによる遅れが、世界というものがいまおこなっている日本に対する評価だ。

 国会は唯一の立法機関であるはずなのに、現実はまるでそうではないというふうに、システムとその運営そのものが大きく間違っている。ほとんどの法案は行政府や官僚が作って内閣が提出する、という経路で成立している。立法権を行政にあたえていっさいまかせてしまうという、しばしば批判される問題はいっこうに改められる気配がない。議員立法は事実上の不可能という状態が確立されて久しい。そして国会はこのような現実に対してなんら力を持っていない。行政は法律にしたがわなくてもいいというシステムだから、政策の決定のルートはそのつど状況に呼応していくらでもあることになる。これでは国が正しく運営されるはずがない。

 こういう基本的な間違いをなんと呼べばいいのだろう。基本からこうも間違っていると、いまなにが問題なのか、どう問題なのか、それがまずつかめない。問題に対する正しくて有効な対応などは夢物語にとどめるとして、なにがどう問題なのかすら把握出来ない時代遅れ状況のなかに、いまの日本はある。

 問題とは、新たに立ち起こってきたやっかいな状況の総称だ。どの問題も単独のしかも突発的なものではなく、すべての問題がひとつにつながって、これからの時代というものを見せてくれている。時代遅れだと問題は見えないし、見えても関係ないことあるいは一時的なこととして否定されたり、問題とするほうが間違っているなどとしりぞけられ、それっきりだ。次々に立ちあらわれる問題とは、外部の環境というものだと言いなおしてもいい。次々にあらわれる問題は、外部環境が急速に変化しつつあることを意味している。外部に生まれてくる新しい環境に適応して自分を変えていくことの出来ない存在は、淘汰され消えていく。

 人になぞらえるとわかりやすいかもしれない。これからの会社の社員に求められている能力は、情報を出来るだけ多く集め、正確に分析して有効策を引き出し、それを仕事にあてはめて実行し成功させる、という能力だ。このような能力を継続的に発揮していくことをとおして、その人は自分により多くの価値を加えていくことが出来、それが他者からのその人への評価となる。これが出来ない人は従来どおりのただの中間層でしかなく、淘汰されるほかない。つまりいずれ失職する。

 日本は閉鎖市場であるという批判に対して、時代遅れの日本システムは、閉鎖はしていない充分に開いている、日本には日本の国情がある、そんなことを言うのは内政干渉だ、などと反応した。これからの世界の趨勢は、どの国も多くの国と相互的に依存する複雑な関係を維持していく、という方向だ。相互依存的な複雑な関係なのだから、きわめて肯定的な提案でも内政干渉的な側面を持つのは当然だろう。世界はそのようになっていくのだが、時代遅れの目にはそれが見えない。

 市場の開放とはなにか。製品や原料を売ったり買ったりという単一な関係ではなく、多くの領域にまたがる関係に入ってくれないか、という提案なのだ。複雑な関係を結び合う多くの国のひとつになってくれないか、世界という共通の場を作るひとりになってくれないか、という提案だ。こういう提案に対して、日本は自動車の台数や半導体の数量で応じた。

 市場の開放は、何度も指摘されたとおり、国内での多くの失職につながるだろう。これまでどおりの産業のなかでこれまでどおりにしている人たちが、世界の趨勢と合致しなくなったからこそ、失職するのだ。だからそのような失職に対しては、国家にとっての最前線の業務として、次の時代の新たな産業を育成する試みで、応えていかなくてはならない。

 そのような最前線の業務に必要な人材は、育成されてはこなかった。個人の創造力を問う教育は、この五十年間いっさいなされなかった。それどころか、創造力とは反対の方向を向いた教育が、一律に強制されてきた。入試はその典型的な見本だろう。これから自分はなにをどうしたいのかという、創意の源泉のありやなしやを問うべき入試が、過去以外のなにものでもないものを材料に、正しいか正しくないかを問うだけの問題作りに、かまけてきた。

 このような入試に対応するための教育は、知識の詰め込みなどと言われている。知識ではなく、点数へと転換しやすい過去、と言ったほうがいい。そういう種類の過去をたくさん記憶すると点数は上がり、その点数が高いと成績がいい、ということになった。この点数制は時代遅れのピラミッド構造と見事に対応している。

 管理職についている女性の割合が、アメリカは四十パーセント、そして日本は七・九パーセントという数字がある。これだけの差をどう読むか。文部官僚なら国情の違いなどと言うだろう。国情という言葉は、なにもかもいっしょくたにした上で、他との差異や落差の言い訳とするのに都合のいい言葉だ。国情とは言わずに国のシステムと言えばはるかにわかりやすい。そしてシステムは人が頭で考えて作り出す。だから国情の違いとは、頭の程度の違いだ。

 四十パーセントと七・九パーセントとでは、頭の違いは決定的だ。四十パーセントは現実問題として五十パーセントだと思っていい。アメリカでは男と女は一対一であり、創造するなら男でも女でも区別しない、ということだ。七・九となると、統計を取れば数字としては上がってくる、という程度のものでしかなく、現実には皆無に近い少数派だ。少数派にはありとあらゆる苦労がふりかかるのが、日本というシステムだ。そのシステムがいかに時代遅れであるか。

 ごく少数の人たちが方針を決定して全員に強制する。その方針の間違いに少数の決定者たちは気づかないし、指摘されても修正しようとはしない。このようなシステムは江戸で完成された思想統一までさかのぼるのかもしれない。このようなシステムを作り換えていくための、もっとも基礎的な力は個人の自由な発想だ。個人も自由も、日本システムのなかには居場所はないに等しい。だから個人や自由がいったいなになのか、本当はそれがどのようなものなのか、日本システムのなかの人たちにはよくわからないかもしれない。

 創意は個人の自由な発想からのみ出てくる。ひとりひとりの頭がどれだけ質の高いことを考え、それを実行に移して達成出来るか。これからのビジネスは質が決定していく。個人の自由というものを知らないままに来た五十年のつけは重い。自分はこれを試みてみたい、こう生きてみたい、というふうに自分のやりたいことを自前で見つけ、それを存分に追ってみる日々、そしてそれを支える柔軟なシステム。どちらも日本にはない。そこにあるのは、これまでという過去を守るルールが、現在および未来にもあてはめられているという、閉塞感のきわまった現実だけだ。過去を守るルールが現在および未来に対してもあてはめられていることのもたらす、もっとも大きなマイナスの結果は、国の生産性の低下だ。

 個人が自前で見つけたやりたいことを、存分に追ってみることを支える柔軟なシステムとは、新しい試みに対してリスクを負うシステムのことだ。このシステムこそ、社会ぜんたいにとって役に立つ、誰もが使うことの出来る、もはや普遍的なと言っていいほどの、公共のストックだ。これがないという絶望的な状況を見るのは、国内に生きる日本の人たちだけではない。外から見るなら、この状況はもっとはっきり見える。

 外界の変化に鋭く正しく反応し、自分のなかの必要ない部分を新しい別なものに変えていかないと、淘汰されて死んでしまう。変化への正しい反応を自分の内部に組み込んで機能させる。生きのびるとはこういうことだ。国もひとつの生命体なら、考えられるあらゆる状況に対応するための優秀な人材を数多く集め、正しいシステムをフル稼働させていないと、その生命は消えていく。

 間違ってはいなかったものとして、戦後の日本にはなにがあるだろう。普遍的に作用する力を持った、基本的なルールのようなもの。新憲法だけがそれに該当する。そしてそれはアメリカによって用意されあたえられたものであり、この五十年間の日本の現実は、ほとんどあらゆる領域で憲法違反であった。昭和二十二年に畑のなかで爆弾の穴を見ていた幼い子供が、いまそう思っている。

(了)

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年

▶︎ blog |0814| 365 essay|2枚の写真|配達人より

関連エッセイ

8月14日 |僕の国は畑に出来た穴だった


8月6日 |その光を僕も見た


8月4日 |ミスター・ブルース|エルヴィスから始まった


5月27日 |広島の真珠


5月3日 |第9条


3月10日 |あのときの日本とこのときの日本


1月9日 |対話をしない人


11月19日|爆弾の穴について思う


12月7日 |チャタヌーガ・チューチュー


1997年 『日本語の外へ』 アメリカ 少年時代 岩国 広島 憲法 戦争 戦後 日本 瀬戸内 社会
2019年7月19日 15:20
サポータ募集中