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ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。──(8)

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彼女「春先、花前線の頃、ひとりでオートバイで走っていて、ふと思ったことがあるの。もう何年かまえのことですけれど、いまでもときどき思い出すわ。花前線を横につなげていくと、地球ぜんたいに花の輪が出来ないかしら、と私は思ったの」

彼「それは、素晴らしい」

彼女「そしてその花の輪は、たいへんな速度で、地球を北上していくのよ。大陸のほうが、北上の速度は早いわ。大陸は、温まりやすいから」

彼「北上しきったところに、花前線の輪の、終点がある」

彼女「それは、どこだと思う?」

彼「ツンドラや氷河地帯に咲く、小さな花が終点だろうね」

彼女「そうよ。七月。花の名前は、カタカナで書くと、思いのほか感じが出るのね。ユキノシタ。ケシノハナ。ワスレナグサ。花前線の終点での、こういった花の命は、ほんとに短いのよ。ある日、北極から、早くも寒波が来るの。その寒波に、小さな花は、さっと消えてしまうわ」

彼「春先の日本の風景のなかをきみがオートバイで走るとき、きみの想像力のなかにあるもうひとりのきみは、花の咲くツンドラにいるのだ」

彼女「その私が、オートバイの旅で男性と知り合う話をしましょうか」

彼「ぜひとも、聞きたい」

彼女「春先の海岸なの。海からの風は、まだ冷たいわ。陽ざしの色は、海沿いの町に注ぐときにはもう春の色だけれど、海のような広い空間では、まだ色が淡いのね。そんな季節に、ひとりの男性と、ふと知り合います」

彼「少年だろう」

彼女「いいえ。中年をとおり越して、初老になろうとしているような、そんな年齢の男性。彼は、人のいない海岸で、ひとりで凧を上げているの。凧を上げている人がいるわ、と思いつつ私は私で海岸をひとりで歩き、おでんの小屋があったのでそこに入って、熱いおでんをおやつに食べているの。そしたら、さっき凧を上げていた男性が、ひとりで入って来るのよ」

彼「場面は目に見えるようだ」

彼女「なんとなく話がはじまって、なぜいま凧上げなのか、私は彼にきくの。彼は、きちんと答えてくれるのよ。すぐ近くにある小さな町に、彼の生まれ育った実家があるのね。古くなったので壊して建て替えることになり、壊すまえに一度よく見ておこうと思って、彼は実家へ来ているの。屋根うらに昔のものがいろいろみつかり、そのなかに彼が少年の頃に作った凧があるのよ。保存の状態がよくて、いまでも上げることが出来るの。だから彼は、ひとり海岸へ来て、その凧を上げていたのだわ」

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1996年 『永遠の緑色』 ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。 エッセイ・コレクション オートバイ 季節 彼女 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』
2016年4月2日 05:30
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