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ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。──(7)

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彼「特別に面白いと言えるかどうか。でも、僕にとっては、忘れられない。ほんのちょっとしたことなのだけれど、いつまでも僕は記憶している。真夏に、僕はひと月以上にわたって、気ままにオートバイで旅をしていた。その旅先で、ときたま、彼女のことを思う。たとえば暑いかんかん照りの日に、どこか地方の町をとおりかかり、信号待ちをする。太陽の直射を受け、汗を流しつつ、信号が変わるのを待っているとき、ふと、彼女のことを思う。東京もきっと暑いだろう、などと最初は平凡なことを思うのだけれど、次第に思いはディテールへと入りこんでいくんだ」

彼女「どんなディテールなの?」

彼「いつもの街を、彼女がひとりで歩いているところを、想像したりする。交差点まで来て、彼女も信号が変わるのを待つ。その彼女に、夕方に近い時間の、夏の日の太陽光が、斜めに当たっている。袖なしのシャツを着ている彼女の、上腕部のうしろ、内側へまわった部分に陽が当たっている様子を、僕は想像のなかに描いたりしてみる」

彼女「そういうストーリーを書くと、面白いわ、きっと。彼はオートバイで旅をしていて、その彼が、いつもの街に残した彼女のことを、いろんなふうにひとりで思うの。そのふたつが、交互に描き出されていくストーリーは、面白いはずよ」

彼「現実には、僕はその彼女に、旅先から定期的に手紙を書いた。手紙を書いてほしいという彼女からのリクエストもあったのだけれど、僕自身も、なぜか手紙を定期的に書きたかった。しかしその手紙には、僕は嘘ばかり書いた。嘘、という言葉は強すぎるかなとも思うけれど、要するに僕が手紙に書いたことは、すべてフィクションなのさ。その日に走ったルートや見聞した出来事、どこに泊まりなにを食べたか、といったことからはじまって、ありとあらゆることが、実際の体験とはまるでちがう、フィクションなのさ」

彼女「フィクションとしての手紙を、あなたは彼女に書き送りたい、と思ったのね」

彼「そうなんだよ。そのときなぜ、そんな手紙ばかり自分が書いたか、よくわからないけれど、とにかく嘘ばかり書いた。いかにも本当みたいな、しかし完全に架空の手紙だった。何通も書いたよ」

彼女「彼女とは、その後どうなったか、私は興味があるわ」

彼「その年の秋には、喧嘩をして別れた」

彼女「そしてそれっきり?」

彼「そうだね」

彼女「そのフィクションの手紙を、私は読んでみたいと思います」

彼「僕も、そう思う。自分があのときどんなフィクションを彼女に書いたのか、僕は知りたい」

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1996年 『永遠の緑色』 ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。 エッセイ・コレクション オートバイ 会話 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』 男女
2016年11月25日 05:30
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