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ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。──(3)

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彼 「秋という季節が、僕をもてなしてくれたのだ、と僕は理解している。無骨きわまりないもてなしかただけれど、なにごとかに関する本質のようなものを、あのときの枯葉や風は、僕に見せてくれたのだ」

彼女「きっと、そうなのね」

彼 「もてなし、という言葉の連想で突然に思い出したことがひとつある。秋の霧雨の降る午後遅く、僕は、とある山裾の温泉街の旅館の露天風呂で、美しい芸者さんといっしょに風呂に入ってもらったことがある」

彼女「芸者さんは、お風呂にまでいっしょに入ってくれるの?」

彼 「先輩に紹介された旅館なんだよ。ぜひ一度いってみろ、と強く言われて紹介もしてくれたので、ある秋の日、オートバイで僕はでかけてみたのさ。その街へ到着したら、霧雨が降りはじめた。旅館はとてもいい旅館だった。堂々たる風格があって、敷地は広くて。紹介してくれた先輩は、そこでの宿泊に関するあらゆる手はずを調えてくれていたらしい。部屋に入ってすぐに、なぜだか芸者さんが来てくれた。お茶を飲みながら世間話をしばらくして、では僕は風呂に入ります、と僕が言うと、ごいっしょさせてください、と彼女は言った。じつに美しい、しとやかな、よく出来た芸者さんだった。その人が、お風呂にごいっしょだよ」

彼女「ときめいたでしょう」

彼 「そのときは、そんなでもなかった。それがごく普通のことなのだろうと思って、僕はとにかく露天風呂に入った。秋の午後遅く、山裾の温泉街には霧雨が降り、雰囲気はじつにいいのさ。やがて、芸者さんが来た。巧みにタオルを巻いてはいるけれど、事実上は裸だよ。お湯のなかでは、完全に裸だった。和傘を持って来た彼女は、お湯のなかでその傘をさしかけてくれた。お湯の上にお盆を乗せて、酒もあったんだよ」

彼女「一種の極楽かしら」

彼 「浄土だね。着やせするけれど、裸になると、ときとして男が夢に思い描くような、素晴らしい体をした女性だった。肌が抜けるように白くて、きめがこまかく、ほどよく脂肪がまわっていて」

彼女「次第に核心にせまってくるわね」

彼 「これしきでは、まだ核心とは言えない」

彼女「それから、どうしたの?」

彼 「どうもしないよ。という話さ」

彼女「傘をさしてもらって、露天風呂に入ったのね」

彼 「じつによかった」

彼女「その女性の、うなじから肩にかけての線など、想像出来るわ」

彼 「きみの想像のとおりだ」

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1990年 1996年 『永遠の緑色』 ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。 エッセイ・コレクション オートバイ 会話 彼女 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』 霧雨
2016年10月1日 05:30
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