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ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。──(1)

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彼女「もう枯葉の季節だわ」

彼「夏は終わってしまった。意地を張って、まだ僕は半袖のシャツを着ているけれど、夏はどこにもない。僕の記憶のなかにだけ、過ぎ去った夏がある」

彼女「夏はほんとに短いのね。いつの夏も、こんなふうに短かったわ」

彼「つい昨日までは、暑くて汗すらかいていたのに」

彼女「沖縄へいけば、十月いっぱいくらいまでなら、夏の気持ちでいることは出来るのよ」

彼「それもいいけれど、記憶のなかの夏をいとおしむのも、悪くないんだ」

彼女「今年の夏は、オートバイで高原の道路を走っていて、トウモロコシの香りをかいだわ。醬油をつけて焼いたトウモロコシ。あの香りが、夏の晴天の日の空気のなかを、オートバイの私にむけて、漂って来たの」

彼「オートバイで走っていたきみが、その香りをたぐり寄せたのさ」

彼女「そう考えたほうが、ロマンティックね」

彼「香りをかいだだけかい」

彼女「あ、前方のどこかで、焼いたトウモロコシを売っている、と私は直感したの。その直感を頼りに、そのまま走っていたら、自転車で屋台を引いたおじいさんが、トウモロコシを売っていたの。追いついて、オートバイを停めて、私はトウモロコシを二本、焼いてもらったわ。そこからほんのすこしだけ歩くと、川に木製の吊り橋がかかっているところがあったの。その橋の上で、そして橋のむこうで、私は二本のトウモロコシを食べたわ。この夏の、貴重な思い出のひとつよ」

彼「夏の終わりの景色のなかをオートバイで走っていると、濃い緑を幅広く帯のように引いた景色のなかに、ときたまいいタイミングで、赤い花が見えるんだ」

彼女「サルビア」

彼「そうだね」

彼女「はげいとう。それから、鶏頭花」

彼「夏の濃い緑のなかに点在する、赤い花。すくなくともこれだけは、今年も僕は見たよ」

彼女「私はピンクの花を見たわ。道路のわきの夏草のなかで、雨に叩かれていた弁慶草。おなじ日の夕方、到着した宿の露天風呂に入って、空を仰いで顔に雨を受けとめながら、私は、道路のすぐわきの草むらのなかで雨に打たれていた弁慶草を思い出していたわ」

彼「僕も雨に降られた。山を越えようとしているとき、雨に会った。やって来る雨を、むこうの村へ返してしまう峠と昔から呼ばれている峠だよ。でも、僕がオートバイで走ったときには、雨はむこうの村へ返らなかった。返るどころか、僕にむけて盛んに押し寄せて来た。僕はずぶ濡れになった」

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1990年 『永遠の緑色』 ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。 エッセイ・コレクション 会話 季節 彼女 時間 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』 記憶 過去
2016年9月22日 05:30
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