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五つの夏の物語|5

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 七月の最後の週、あるいは八月の第一週、つまり夏のちょうどまんなか、ものの見事に快晴の日に一日でいいから海岸で過ごし、夏を全身に受けとめておきたい。後日のための伏線として。

 特別なことはいっさいしなくていい。と言うよりも、特別なことは、しないほうがいい。とにかく海岸へいき、水着姿となり、きっとたくさんいるはずの海水浴客のなかに埋没し、夏の海岸での古典的な楽しみを、ゆったりとこなしておけばそれでいい。

 熱い砂の上に寝そべる。ビーチ・タオルやござの感触も、体験しておきたい。ビーチ・パラソルが作る影のなかで、ラジオを聴きたい。コパトーンを体に塗ろう。いっしょに来てくれた女性の背中や肩にも、コパトーンを塗ってあげる。波打ち際を彼女と歩こう。沖まで出ていき、遠泳を試みるのもいい。

 焼いたトウモロコシはぜひとも食べておきたい。それから西瓜。西にまわった太陽の位置が低くなる頃、シャワーをあびて髪を洗い、服を着る。そのあとで、かき氷で仕上げをすると好ましい。僕の好みは緑色のシロップだ。あの緑色こそ、真夏の色だ。

 上出来の体をした女性の水着姿を、何枚かさりげなく写真に撮っておくと、いい記念になる。海の家を何軒かその正面から写真に収めておいても、のちほど思いがけないかたちで報われる。夕方の海からの風を、かならず受けとめるように。その風にシャツの裾がはためくのを感じながら、真夏の一日のビーチをあとにする。夕食は中華料理が最適だ。少なくとも僕の場合はそうだ。体がそのようなものを欲しがる状態になっているからだろう。

 夏が去り、海の家は一軒残らずその年の営業を終わった頃、夏の前から着ていた半袖のシャツが、なぜか場違いなものに感じられる頃、その半袖シャツのまま、真夏に一日を過ごした海岸へ、もう一度いってみるといい。そこには夏はもうなにもない。あれほどたくさん人がいたのに、いま海岸を歩いているのは、自分だけではないか。晴れているけれど陽ざしの力は弱い。空が高い。秋の空だ。風も秋のものだ。

 海岸を端から端まで歩いてみる。夏は完全に消えている。あれほどまでに強くすべてを覆っていた夏は、いったいどこへ消えたのか。海の家の板壁に貼ってあるコカコーラのポスターは、真夏の残骸だ。日焼けした夏の女性が、白い歯を見せて笑っている。その笑顔が斜めに破れ、垂れ下がった部分が秋の風にはためいている。

 つい昨日まではどこにでもあったのに、今日はどこを探しても破れたポスターのような残骸しか見当たらない海岸を、ひとりさまよう快感を僕は知っている。季節が変わっただけだが、ただそれだけのことを充分に楽しみたい、と僕は思う。真夏に楽しんだ場所を秋の日にさまよい、もはやどこにもあり得ない夏を、さまざまに追想して楽しむ。

 こんなふうにして秋の海岸を二時間も歩きまわると、この世のなかのすべての出来事は、最終的には時間というものに帰結するのだ、ということが身にしみてわかってくる。時間とは、経過していく時間だ。静止している時間というものは、あり得ない。決して止まることのない、冷酷非情なもの、それが時間だ。

 夏という季節を招いたのは、経過していく時間だった。夏という時間が経過していき、真夏の日が来た。真夏はさらに経過して、夏は終わりいまは秋だ。すべてのものは、経過していく時間のなかで生まれ、それぞれに頂点を迎え、経過していく時間のなかで消えていく。

 秋の海岸へ自分はつい二時間ほど前に来たのだが、そのときの自分はもうどこにもない。ほんの二時間前なのに、あのときはすでに完璧に消えている。いまの自分が砂浜を歩いているが、一歩また一歩と、その自分も消えていく。時間そのものとなった自分がそこにある。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

シリーズ・エッセイ|五つの夏の物語|

7月29日|五つの夏の物語|1


8月13日|五つの夏の物語|2


8月16日|五つの夏の物語|3


8月17日|五つの夏の物語|4


7月30日|五つの夏の物語|5


2000年 『坊やはこうして作家になる』 五つの夏の物語 季節 時間 海岸
2016年7月30日 05:30
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