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五つの夏の物語|3

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 夏子という名前、そしてその名前が良く似合う、夏の権化のような女性は、ひょっとしたらもっとも純度の高い、夏そのものかもしれない。そのような夏子さんの体験が、僕には一度だけある。

 高校生の頃に僕が住んでいた家は、おもてが住宅地のなかの静かな道に面していて、家の裏にはかなり広い庭があった。右隣の家も裏に庭があり、僕の家の庭とその家の庭とは、垣根で仕切られていた。

 垣根はいたるところ斜めに傾き、あってもろくに役に立たない、邪魔なだけの垣根だった。隣の主人はたいへん気さくな人で、垣根を取り払って二軒の庭をひとつにつなげることを、高校一年生の僕に提案した。壊れた垣根をすべて取り払う作業を、僕は引き受けた。「神戸から娘が移ってくるので、手伝わせますよ」と、その主人は言った。

 夏休みが始まり、僕は垣根をなくす作業に取りかかった。三日めに僕が庭でその作業をしているところへ、「今日は」と言って、若い女性がひとり、隣の庭からあらわれた。惚れ惚れと見てしまうほどに姿の美しい、しかも文句なしの美人の顔だちをした、優しそうな、しかし強くもありそうな、素敵な人だった。しばらくここに住みます、と彼女は言っていた。

 それまで父親と離れて神戸にいたのは、家庭の環境がやや複雑だからだ、と僕はあとで知った。その美しい女性は僕より五歳年上で、秋子という名だった。秋に生まれたから秋子なのよと彼女は笑いながら言った。

 垣根を取り払う作業を、彼女は手伝ってくれた。じつにきびきびと有能な、よく働いて疲れを知らない、健康な女性だということが、僕にはわかった。僕はたちまち彼女を尊敬し、尊敬はすぐに思慕へと転換したのだが、そんなことはどうでもいい。

 僕が高校を卒業するまでの三年間、彼女はその家に住んだ。二軒の家の庭はひとつにつながって広々とし、そこで風のない日は彼女とよくバドミントンをした。卓球台を置いて卓球もしたし、キャッチボールもした。幼い頃は川のある田舎にいて、川原で石を投げるのが趣味だったという彼女は、キャッチャー役の僕のミットに、のびやかに力のある直球を、美しく投げた。

 花模様のハンカチで髪をうしろに束ね、ショート・パンツに袖なしのシャツ、そしてソックスにスニーカー、あるいは素足にハイヒールのサンダルという夏の姿が、彼女にはもっとも良く似合った。体の機能のしかたや気質、ものの考えかたなども、夏仕様の女性だった。

 秋子というよりも夏子ですね、という僕の意見に、彼女は全面的に賛成してくれた。「自分でもそう思うのよ。秋子ではなくて、夏子という名前だったらどんなにいいかしらと、夏になるといつも思うの」と彼女は言った。

 だから僕は彼女のことを夏子さんと呼ぶことにした。彼女はたいへん喜んだ。「私とあなただけの秘密のようにしておきましょうね。私はあなたにとっては夏子なのよ。そして私も、あなたといるときには、完全に夏子なのよ」

 秋子はこうして夏子になった。夏子という名で彼女を理解し認識すると、彼女はひとまわりもふたまわりも、美しくなったように僕は感じた。夏子さん、と呼んでこそ彼女は完璧であり、その完璧さは、秋でも冬でも春でも、なんら変化することなく、真夏という季節の、あの完璧さだった。

 本当は秋子という名の彼女は、僕との関係のなかでのみ、夏子となった。見れば見るほど架空の存在のように思えるほどに、彼女はいろんな意味で美しい人だった。この女性は本当にこの世の人なのだろうか、と僕は何度も真剣に悩んだほどだ。夏の良く似合う、夏そのもののような、そして過ぎ去ったすべての夏の思い出のような、僕だけの架空の人、その人が夏子。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

シリーズ・エッセイ|五つの夏の物語|

7月29日|五つの夏の物語|1


8月13日|五つの夏の物語|2


8月16日|五つの夏の物語|3


8月17日|五つの夏の物語|4


7月30日|五つの夏の物語|5


2000年 『坊やはこうして作家になる』 五つの夏の物語 夏子さん 季節 彼女 美人
2016年8月16日 05:30
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