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ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ|エルヴィスから始まった

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6 ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ

 一九六〇年は、アメリカのロックンロールにとって、最低の年だったといわれている。ロックンロールは死んだようにみえ、やはりロックは一時的で気ちがいじみた流行でしかなかった、と早くも思いこんだ人たちは、多かった。『もっとキリストのことをうたい、ロックンロールをすくなくしては』という、信じがたいタイトルのカントリー・アンド・ウエスタン曲が、一九五七年に発売されていた。

 ロックンロールが死んだようにみえたのは、プレスリーにすこし似ているフェビアン(フェビアノ・フォルテ)がまったく歌をうたえなかったからでも、フランキー・アヴァロンがビキニ映画にばかり出ていたからでもない。

 一九五〇年代アメリカのロックンローラーは、自分たちの時代にあまりにも深くかかわりすぎた。進んでいく時代には、したがって、そのようなロックンローラーは、ついていけなかった。エディ・コクランのように、名前からして一九五〇年代にふさわしい人物は、一九五〇年代が終れば、それと共に死ぬよりほかなく、実際に死んでしまった。彼や、映画のジェームズ・ディーンは、死ぬことによって中断されたのではなく、完璧にしあがったのだ。

 アラン・フリードは、一九六五年まで生きたが、一九五八年の九月、ボストン・アリーナでのロックンロール・ショウで、致命傷をうけていた。あまりにたくさんの若者が彼のショウにやってきて大さわぎするので警察が出動し、フリードは、騒乱罪のような罪名で警察にひっぱられた。ショウの最中に警官が踏みこんだとき、フリードはステージからマイクをとおし、

「あなたがた若者が楽しむのはいけないことだと警察が言っている」

 と呼びかけ、当時まだつとめていたニューヨークのWINS局のDJをクビになり、以後は各地の放送局を転々とし、ペイオラのスキャンダルにまきこまれ、六五年一月二〇日、パームスプリングスで、手のほどこしようのないアルコール中毒者として死んでしまった。DJのときにヘッドフォーンのヴォリュームをいっぱいにあげるくせがあり、このため耳をいためて、ほとんど聞えないほどの難聴だった。

 フリードは、一九五〇年代のロックンローラーのうちもっとも時代に深入りしていたひとりだった。一九二一年の生まれだからスイングの時代に育ち、音楽的な教育は高く、本来はクラシックのトロンボーン奏者だった。バップ以後のジャズが大嫌いで、クリーヴランドのWJW局でムーンドック・ロックンロール・パーティのDJをはじめたときから Hey, kids, they can’t do that to us ! という五〇年代ロックンロールのシンボルみたいな言葉を黒人そっくりの声で怒鳴り、マイクがのっているデスクに電話帳を両手で交代に叩きつけてはビートをつけ、アール・ボスティック、アイヴォリー・ジョー・ハンター、マディ・ウォーターズなど、黒人のリズム・アンド・ブルースやブルースのレコードばかりかけていた。

 一九五一年の六月からはじまったこのWJW局のロックンロール・パーティは、五万ワットの出力で北ダコタからニューオリンズまでとどいた。劇場でのショウもよくおこなった。やってくるのは、ほとんど黒人だった。DJのときのフリードのしゃべり方は、クリーヴランドにくる以前、すでにほかの局の黒人のジョッキーたちを聞いて真似し、おぼえてしまったものだった。私たちをあまり真似するな、という黒人側の訴えがときたま出されると同時に、フリードはチャック・ベリーの『メイベリーン』の共作者でもあり、彼からは「フリードはブラザーであった」と、黒人として認められてもいた。

 一九五三年に自動車事故にあい、体のあちこちをいため、せいぜい生きたとしてあと一〇年だ、と医者に言われた。次の五四年には、ニューヨークではじめてつくられた黒人専門の放送局WNJR(五〇〇〇ワット)に移り、その年の秋、やはりニューヨークのWINS局にかわった。

 ディック・クラークは生き残っているがアラン・フリードは見事に死んだ。五年から七年間のサイクルで動いた当時の時代のなかで完全に燃焼したロックンローラーだったのだ。

 一九五〇年代のなかで死んだ人は、まだほかにいた。映画のなかのカウボーイたちが、ほぼ完全に死んだ。

 ロイ・ロジャーズが自動車に乗ってあらわれたとき、ああ、もうだめだ、これで終りだ、すべてはなくなってしまった、と子供ごころにも悲しく直感したのだった。すでにその商業的な生命が終りにちかづきつつあったリパブリック製ロイ・ロジャーズのシリーズ西部劇の白黒スタンダードのスクリーンに自動車が登場したときのグロテスクさは忘れることができない。あのときのあの自動車は、すべてのものに似つかわしくなかった。ロイ・ロジャーズの恋人ないしは奥さん役をやっていた、現実にロジャーズ夫人であるデイル・エヴァンスの、くっきりと口紅を塗ったアメリカ的に横に大きな唇にさえ、あの自動車は似つかわしくなかった。

 自動車に乗ったロイ・ロジャーズをみたときから、悪いこと、好ましくないことのすべてがはじまったように思えてならない。一九五〇年、やはりリパブリックでつくられたロイ・ロジャーズ西部劇『ベルズ・オヴ・コロナド』には、当時としてもかなり大きな飛行機が登場したのだ。

 西部劇だけにかぎっても、やはりすべては終りだった。ほかのもっと面白い西部劇でいちどみたのとおなじようなシーンに何度もぶつかることがあった。牛の暴走とか駅馬車を追いかけるとか、悪漢が追われて荒野を馬で逃げるとか、そのようなシーンが、よくおなじだった。『ジェロニモ』は、そんな西部劇の頂点だっただろう。ほかの西部劇から、うまく利用できるシーンを適当に切ってきてつなぎあわせたのだ。一九三〇年代にBクラスの西部劇を一本つくるには二万ドルあれば充分だった。それが一九五〇年代に入ると、一本の制作費は五万ドルをこえるところまでいっていて、五万ドルをかけると商売にするのがむずかしかった。だから、節約の意味で、特に野外アクション・シーンが、ほかのフィルムからぬきとられたのだ。

 悪漢たちの人数が、すくなくなった。ほんのすこし前まではぞろりと大勢いたのに、ロイ・ロジャーズが自動車に乗るころになると、悪漢はわずか三人、気勢のいっこうにあがらないようすで山を降りてくるのだった。馬のひづめの音が電気的に増幅されすぎてインチキくさくなり、ピストルの発射音が、これも人をバカにしたような音をあげはじめていた。

 一九五〇年代なかばで、このような西部劇はつくられなくなってしまった。一九五六年あたりがさかいだった。夢の世界は終っていた。しかも、とっくに。

 一九五〇年の『折れた矢』は、もっともすぐれていたころのジーン・オートリイやロイ・ロジャーズの西部劇とはちがった面白さを持ってはいた。これとか、やはり一九五〇年の『ガン・ファイター』、五二年の『ハイヌーン』などが、「大人の西部劇」と呼ばれていた。これが大人なら、ロイ・ロジャーズのほうが、ずっとよかった。

 フレッド・ジンネマンの『ハイヌーン』については、危機のなかにおけるノン・ヒーロー(英雄的ならざる人物)の勇気をたたえ、当時すでにはやりはじめていたノン・コミットメントとか非参加的傍観者の価値観を批判したものだ、という説明がなされていた。あの映画だけを、しかも西部劇とはみずに、時代をうつす鏡としてみて、それに対してもっとも都合よい解釈ないしは説明をあたえるならば、ノン・ヒーローや非参加がテーマになれるのだろう。

 危機は、汽車に乗ってやってくる悪漢たちが象徴しているという。ゲーリー・クーパーが演じたあの主人公は、たしかに危機を倒した。では、あの西部劇は、危機に際しては強い人も弱い人も立ちあがらなければならない、という教訓映画だったのか。だとすれば『折れた矢』は、いったいなにか。白人の男がインディアンの女性と結婚すると、さきに都合よく女性のほうが死ぬべきである、という教訓映画か。『ハイヌーン』はアメリカの危機を、『折れた矢』は人種問題を、それぞれテーマとしてかくれて意図していたのかもしれない。

 ただの西部劇を「大人の西部劇」としてよろこんでいると、早くも一九五三には『シェーン』に対して感動の拍手をおくることになってしまうのだ。『シェーン』のテーマは、人間対自然であったという。ちがうだろう。有効な画面構成要素のひとつとして自然を利用した完全主義者の作品が、テーマ音楽の助けとともに、観客にあたえるロマンティックな衝撃力を、そしてそれだけを『シェーン』は持っていた。もっとも強くならなければならないはずのアラン・ラッドの役がもっとも弱かったのはラッドの責任として、彼が最後にいやいやながら再び馬に乗るのは、まちがっていた。最後の台詞として彼は「ピストルは持つなよ」というようなことをしゃべるのだが、これは「馬に乗ることをやめるなよ」でなければいけなかった。しかし、このことには気づかずに、アメリカの西部劇は進行した。そして一九五八年以降には『大いなる西部』や『西部開拓史』となり、みごとに息が切れてしまうのだ。

 『ハイヌーン』の主人公は、結局、危機にたちむかうために腰をあげた男でしかなかったのか。町の法と秩序のため、というよりも保安官である自分の責任をとるために、彼は汽車から降りてくる悪漢と対面したのだ。一九五〇年代のはじめ、西部劇の主人公が単なるカウボーイであることをやめると同時に、主人公たちは、それぞれに一種の責任をあたえられた。『折れた矢』のジェームズ・スチュアートは、インディアンの女性と結婚してみせる責任を持たされた男だった。『シェーン』のアラン・ラッドは、小さな町のなかの対立関係を解決し、よき市民であるように、とのメッセージをひとりの少年にあたえて去る責任を持った男だった。

 ひとりの男がひとつの責任を持つとは、社会に対してなんらかの約束を結び、その約束をはたすことなのだ。一九五〇年代のはじまりは、世のなかのひとりひとりが、社会と約束をとりかわし、その約束がゆえに社会のなかにがんじがらめにしばりつけられていくことのはじまりを予言していた。

 たとえば、いくらかの頭金を払って自動車を手に入れ、あとは月賦でかえしていくことを約束するのも、ひとつの責任だった。そしてこの場合は、月賦を払い終るまでは約束ははたされず、はたしおえたときには、再びちがうかたちの自動車に対して、おなじような約束をしなければならなかった。

 このような約束をできるだけたくさん社会に対して結び、そのひとつひとつを立派にはたすよう努力することが、社会に対して忠実であることであり、また、アメリカでは、アメリカの理想をかかげたより完璧なアメリカ人になっていくことを意味した。

 責任とか約束とかは、つまり、仕事、であった。『ハイヌーン』の主人公は、仕事をしているにすぎなかった。立派に自分の仕事をなしとげ、夕方の五時になったら自動車で郊外の自宅にひきあげていく自分を、人々は『ハイヌーン』のなかにみた。「大人の西部劇」とは、仕事をする主人公の出てくる映画であり、大人の世界は、したがって仕事をするだけの世界であった。

 仕事、というものがいかに自然に反しているかにアメリカの西部劇が気づきはじめたとき、アメリカの西部劇は行き場を失った。だから、一九五七年、サミュエル・フラーの『矢の飛びゆく道』というような西部劇が可能になった。これは『折れた矢』とおなじように主人公がインディアン女性と結婚するのだが、女性も男性も死なず、ふたりで生きていくことを暗示している映画だった。

 おなじ年にポピュラー音楽の世界では、ユリシーズ・アンド・バグビイ・ミュージックという音楽出版社が、『就職しなさい』とタイトルをつけられたひどく愉快な新しい歌の版権を手に入れていた。この歌は、その年、ザ・シルエッツというグループによってレコードになり、ヒットした。

 歌詞の半分以上が、シャナナシャナナナナとかイップイップイップといった意味のない音で埋められていて、意味のある部分の大意は次のようだった。

 「毎朝この時間になると、母親は、就職しなさい、とボクを叩きおこす。朝食のあと、母親はかならずボクをにらみ、就職しなさい、という。新聞は隅から隅まで読む。あなたにむいた就職口がないかしら、あなたに職さえあれば、と恋人はいう。家に帰ると、母親がまた説教する。職をさがすといいながら、まだみつけていないじゃないの、と」

 この『就職しなさい』は、一九五〇年代なかばのすぐれたロックンロールのひとつにかぞえられている。なにごとかに目覚めていくプロセスの第一歩として、ロックンロールは、まず、大人の世界、そしてとりわけ身近かな両親たちにたてつき反抗し、やがてそのような大人たちの世界の価値観を否定し、無視した。

 大人たちの世界を代表する価値観は、WORK(仕事)というワイセツな四文字が象徴していた。『就職しなさい』は、そのワイセツなWORKに対する訣別の宣言であった。社会は、あきらかに二重だった。歯車としてさらに深みにはまっていく人たちと、そのような深みとは無関係でいようとはかる人たちだ。自動車に乗ったロイ・ロジャーズをみたときのショックは、楽しくもない現実にひきもどされたショックだった。自動車は、はっきりとWORKだった。それ以外のなにものをも意味していなかった。

 一九五〇年代をさかいに、アメリカの西部劇は変質したという。つまらない変質だった。カウボーイが馬から降りて、町に住む職業人になっただけなのだから。社会に対して責任をとろうとするけなげな歯車でアメリカの西部劇がいっぱいになり、どうにもならなくなってしまったとき、イタリー製の西部劇が大きな魅力を持った。

 イタリー製の西部劇は、たしかに血が自由にほとばしり、殺される人間はむごたらしく死んだ。道路はアメリカの西部劇のそれよりもはるかにこれみよがしにぬかるみであり、ヒロインはあまり口をきかず、よく男たちにはりとばされ地べたにころがった。しかし、イタリー西部劇の魅力は、もっとほかのところにあった。

 なによりもまず、主人公に責任が欠けていた。人を射ち殺すのは自分のためであった。世の中のためではなかった。人を殺すプロセスそのものが西部劇のパロディになったのだから、主人公における責任のなさは、徹底していた。アメリカの西部劇にはとうていできないことだった。

 イタリー西部劇の主人公は、職業的な殺し屋であり自由人であり、世の中とはピストルの弾を媒介にしてしか関係しない放浪者だったが、ついにカウボーイにはなりえなかった。ピストルを一発射ったあと、ガンベルトから弾をひとつぬきとり、弾倉から空の薬きょうをすて、あらたに弾をこめなおしておくもったいぶったリアリズムはあったが、おなじリアリズムが、馬についてはいちどもみられなかった。

 ロイ・ロジャーズやジーン・オートリイは俳優としては無能に近かったが、スクリーンでみせてくれたのは、カウボーイの理想だった。なによりもさきに、彼らには、馬がいた。ロイ・ロジャーズにはトリッガー。オートリイにはチャンピオン。おなじくシンギング・カウボーイのステュアート・ハンブリンにはトムボーイ。テックス・リターにはホワイトフラッシュという馬がいた。馬は彼らカウボーイの所有物ではなく、彼らの生命の一部分だった。馬は、乗って楽をするもの、走らせてどこかへいくものではけっしてなく、カウボーイとしての全存在をかけたシンボルであった。ロイ・ロジャーズは馬から降りたとき、かならず馬の横面を、愛をこめて軽く叩いたのだ。イタリー西部劇のヒーローが、このようなことをしただろうか。彼らは馬上にあるときは比較的に無力で、両脚でぬかるみのなかに突っ立ち、銃を構えているときが本領を発揮するときだった。

 カウボーイは、明らかに完璧にちかい遊民としての観念の人だ。財産や道具としての自動車を手に入れてよろこぶ人ではない。そして彼の観念は、彼の行動律が支えている。たとえば、彼の行動律は、酒を飲まないことにきめたならば酒瓶を紐でつるし、柱に打ちこんだ釘にかけてそのままにいつまでも放置しておくことを彼に要求する。やがてその釘はくさり、酒瓶の重みに耐えかねて折れる。酒瓶が床に落ちるのをみとどけるのがカウボーイであり、鉄釘がさびつくして折れるまでには二〇年くらいは楽に経過する。

 馬に乗ったカウボーイと、車に乗ったドライヴァーとでは、生きるうえでの大前提が根本的にちがっている。ドライヴァーは、平坦なハイウェイが無事にどこまでもつづいているものと信じて車に乗っている。カウボーイは、小さなモグラの穴に馬が片足を突っこんだだけで、生命の一部である馬を失ってしまう。だからカウボーイは、常にモグラの穴を、しかしあくまでもひとつの象徴として、考えている。

 ドライヴァーにとって、車は、たとえばタバコを買いにいくような小さなことでもいいから、なにかを達成するために存在する。カウボーイは、馬に乗ると同時に完結する。したがって、カウボーイは、なにごとをも達成しない。なにかをカウボーイがなしとげることがあるとすれば、それは、風に吹かれながらテンガロンで風をさえぎりつつ片手で巧みにタバコを巻いて火をつけるくらいのことなのだ。

 一九五〇年代以前の西部劇のなかのカウボーイは、伝説上のカウボーイだ。そして、本物よりむしろこの伝説上のカウボーイのほうが、アメリカにとっては貴重なものだ。特に、劇中でギターをかかえて歌をうたうのを得意としたシンギング・カウボーイは、これの代表だ。ロイ・ロジャーズの愛馬トリッガーが死んだとき、ロイ自身のカウボーイ・スターとしての命も終るのではないかと、ファンはみなそのことを真剣に心配した。一代目のトリッガーは、人々の希望によって、剥製となってのこっている。

 シンギング・カウボーイは、落着きはらい気楽にしていた。殺気だった悪漢が背後からピストルを向けると、微笑をうかべてゆっくり肩ごしにふりかえり、ギターをとりあげ「まず歌をうたってからだ」と言い、ほんとうにうたうのだ。たとえば『ハイヌーン』の主人公のように、悲愴な決意でガンベルトを腰にまいたりはしない。『ハイヌーン』が猛烈社員のようなものの原型なら、シンギング・カウボーイは、日本でも風俗的に言われてはじめた、ビューティフルの原点のひとつだろう。

 カウボーイにとって、人生はひとつの偉大なるジョークであり、ただちに許すことができるものなのだが、車に乗る人のように歯車になってまでその人生にしがみつこうとは考えない。カウボーイは、人生をあまり真剣に考えない。車に乗る人が来月の給料のために真剣になりすぎるとどのようなことになるか、一九七〇年四月二二日、アメリカでの「地球の日」が、ひとつのほぼ最終的な結論として示してくれていた。人々はニューヨークの五番街に車で乗り入れるのをやめ、歩くことにしなければならなかった。

 シンギング・カウボーイの活躍する映画を見終ったあとの印象は、ようするにカウボーイたちは楽しく遊んだ、ということだけなのだ。彼らは、土地に密着した農民を軽んじ、馬にまたがって地球をかけることで完結する、なにものをも目ざさない観念の人だった。女性に関してはごく簡単な価値判断の基準を持っていて、それは、ジーン・オートリイがアニタ・ブライアントのLP『カントリーズ・ベスト』のライナー・ノートで言っているように「馬にうまく乗る」ことだ。カウボーイにとって馬は自分と同体だが、女性は馬をとおしてはじめてなんらかの判断がくだされる存在にすぎない。

 伝説上のカウボーイは、一九六九年、サム・ペキンパーによって『ワイルドバンチ』のなかで、ねんごろに、しかも銃弾で血まみれのハチの巣にされて、ほうむられた。あの映画のなかにも、かわりゆく時代のシンボルとして自動車が登場する。主人公のカウボーイたちはほとんどなんの反応も示さず、ジョークとしての人生の終りを、あのスロー・モーションの殺戮場面でみごとに死ぬ。いまはすでに馬に乗っているだけではどうにもならない時代なのだが、だからこそ、『ワイルドバンチ』の死にざまは、無限にうらやましくもありえた。

 一九五〇年のロックンローラーがおこなった時代へのコミットのしかたは、態度としても音楽としても、単一なものだった。自分に対して抵抗してくる力と張りあいながらとにかく外にむけて出ていこうとする、比較的単純で荒けずりな力へのコミットメントだった。

 この力が、ひとまず時代のなかでいけるところまでいきぬき、ついに燃えつきたのが一九五八年だった。白人と黒人のサウンドがひとつに合流し、それに対して白人の若者から「YEAH!」(そのとおりだ!)という全面的な肯定をうけ、その肯定を推進力として外へ出ていこうとし、なかばそれに成功し、それまでにとどまった。一九五〇年代から六〇年代のはじめにかけてのロックンロールに決定的に欠けていたのは、内省的な力だった。

 しかし、これは、やがておぎなわれる運命にあった。

 チャック・ベリーの存在はまったく知らなくて、エルヴィス・プレスリーだけにひかれていた白人たちにすら、ロックのビートはなにかを語りかけることができた。なにを語りかけたかは明確に定義づけることができないのだが、

「すべてはこうでなければならないのだ」

あるいは、

「これは正しいもののひとつなのだ」

 という確信のようなものが、ロックンロールのビートをうけとめた人たちの内面につくりあげられた。

 ビートを文句なしにうけとめることができた人たちのなかに、あいまいなかたちではあったけれど、ある種の確信がつくられた。けっして唯一無二の真実をみつけたわけではなく、なにものかを力強く肯定するまずはじめのチャンスが、ロックのビートによってもたらされた。

 一九五〇年代なかばのアメリカの若者にとって、このチャンスはうれしかった。なにごとかを自分が肯定するとは、つまり、自分だけの足場がひとつしっかりと存在することであったのだから。自分の存在に目覚める、と言いかえてもよいだろう。ロックは、単なる音楽ではなく、自分の全存在をかけた体験だった。

 一九五八年にプレスリーが陸軍に入り、アラン・フリードがDJをやれなくなってしまうと、ロックは死んだようにみえた。カリフォルニアにはザ・ビーチボーイズ、デトロイトにモータウン、そしてテレビにはディック・クラークの「アメリカン・バンドスタンド」という概括がひとつの真実味ある現実となっていた。

 ニューヨークのWINS局は、一九六二年に、ロック局からほかの種類の音楽局に転ずるとき、そのきっかけとして、「シナトラ・マラソン」と称し、フランク・シナトラのレコードばかり六六時間、ぶっとおしに放送した。ソ連の『プラウダ』が、好ましいことである、とこれをほめた。

 除隊後はじめてのプレスリーのレコードが『オーソレミオ』のうたいなおしであったことも、すこしも不思議ではない。五八年までのプレスリーが黒人的なプレスリーであったとするなら、除隊後の彼は、白人の世界で売りさばかれるホワイトでスイートな商品だった。

 一九五八年以後の白人のロックは、あまりすぐれたものではなかった。フィル・スペクターとザ・ビーチボーイズが、その代表例だろう。

 フィル・スペクターは、二一歳のとき、ロサンゼルスでザ・テディベアーズというグループをつくり、一九五八年、『トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム』をヒットにした。この歌のタイトルは、フィルの父親の墓にきざまれていた文章の現在形であるという。このような一見ふざけた態度は、すぐあとにくるビートルズを理解するうえで重要なのだ。

 五九年にフィルはレコード・プロデューサーになり、ザ・ドリフターズやベン・E・キングのヒットをつくった。マルティ・トラックのテープにダビングをかさね、音を合成して「音の壁」をつくることをはじめ、一枚のシングルのサウンドに多額のおかねと大勢のミュージシャンをつかうという、ビートルズ後期の音楽づくりとおなじく、コンサートの場ではなくスタジオ内で完成されるロックづくりにむかっていった。

 ザ・ビーチボーイズにも、おなじことがみられた。一九六一年につくられた南カリフォルニアのこのグループは、親族関係的な緊密さをはじめから持っていた。左耳が聞えないブライアン・ウイルスンが、いとこのマイク・ラヴとアマチュア・バンドをつくり、ブライアンのふたりの弟、カールとデニスがそこに加わり、さらにアル・ジャーディーンが入った。

 キャンディスのレーベルから発売されたはじめてのレコード『サーフィン』は、一九六一年の後半に五万枚ちかく売れた。二枚目のレコードが出てから、キャピトルとの契約ができた。
「ボクたちは白人だし、白人のような音をつくる」

 というブライアン・ウイルスンの言葉どおり、ザ・ビーチボーイズのはじめのころのレコードは、ごく普通の定石的なロックだった。ブギのリズムにウォーキング・ベース、ギターのソロ、コーラス、リード・ヴォーカル。彼らが影響をうけた源泉は、チャック・ベリーとフォア・フレッシュマン。

 三枚目のLP『サーファー・ガール』から彼らはロック・グループとして新しい方向をみつけた。作曲、演奏、歌はもちろん、プロデュースからアルバムのパッケージングまですべて自分たちでやることになった。単なるショウ・ビジネスのための集合ではなく、メンバーのひとりひとりが自己発見をしてをおこないながら全体は緊密に結ばれあい、録音スタジオのなかで有機的に発酵するというグループになった。彼らのサウンドは、コンサートでではなく、スタジオの電子技術の駆使をとおしてLPのなかに具体化するのだった。

 一九六六年のLP『ペット・サウンズ』はコンサートから身をひいたブライアンが、ひとりでスタジオにこもってアイデアをつくり、自分で各種の楽器を演奏したりうたってみたりしてダビングをかさねて実験し、一年がかりでつくったものだ。次に出たシングル『グッド・ヴィブレーションズ』は、半年かけて四〇万フィートのテープをつぶしてできあがったものだった。難解だ、というような批判が、ファンたちのあいだから出された。

 ロックンロールは表面的にはハッピーなサウンドであった。だから、いつのまにか人々の心のなかに入りこむことができた。入りこんでしまうと、人と人とをきりはなそうとする社会のなかで逆に人々を結びつけあう力を持った。たとえばファシズムのように、なにかひとつの考え方で人々をなかば強制的にひっくくるのではなく、ひとりひとりが自分自身のことに目覚めたあとで、「YEAH!」なら「YEAH!」のひと言で、物理的なものよりもさきにヘッドによるコミュニティをつくりあげる役をはたす、というかたちの結びつきだ。

 すぐれたロックンロールに対する肯定的な反応のもっとも基本的なかたちは、ジェリー・ホプキンズが言うように「聞いていると気分がよくなる」という反応だろう。気分がよくなる人にとって、ロックは、よくいわれるように、生命への全的な参加なのだ。

 Doing Your own thing(自分自身のことをする)ことによって自己をみつけ出し、人間の生命とはどのようなことなのかをひとりひとりが体得して悟り、そのあとでひとまずの結論が、「YEAH!」とか「NO!」などにまとめることができる。裏からみればロックはアナーキーであり、表からみれば、直接民主主義の原型のようでもある。精神的なコミュニティへのかかわりあいは、自己発見をひとりひとりがつづけていくことにより、さらに強固にされていく。ロックが政治的であり革命的であるのは、人間のこのような存在のしかたをみつけたからにほかならない。ロックという音楽が存在するだけではどうにもならないのだ。

 ロックは一種の官能作業であるため、それについて書くときはどうしても抽象的にならざるをえない。聴く人たちにロックが要求しているのは、結局は抽象能力なのだから、しかたのないことだろう。わからなければそれまでなのだ。

 黒人に対するのとホワイトに対するのとでは、ロックの意味するところが大きくちがってくるので、そこにふれておこう。

 たとえば失業について考えるならば、黒人青年の失業者とホワイトのジョッブレスとは、失業者という点では共通なのだが、失業に対する精神的な態度は、まったくといっていいほどにことなっている。

 ホワイトの場合は、全アメリカへの嫌悪感を自分のなかにつくりあげることによって、失業を、自分でえらびとった失業、つまり社会からの自分の意志によるドロップ・アウトに、価値の逆転をすることができる。黒人にこれはできない。ヒッピーになぜ黒人がいないか、その理由はこのへんからたやすく想像がつくはずだ。白人は、ドロップ・アウトでありながら、いまのアメリカに最小限ではあるけれど依存している。黒人に、この依存は許されていない。

 彼らは、失業というリアリティをのがれることができず、そのなかで人種差別闘争と労働者闘争とを二本立てで交錯させつつ、あくまでも具体的にすべてをすすめていかなければならない。

 この、どうしても逃げることのできないリアリティと、それに対して感じないわけにはいかない個人としての無力感が、いまのアメリカで黒人たちに「銃を!」「分離を!」と言わせているのだ。

 白人は、黒人よりもやはりぜいたくだった。おなじ失業でも、白人にはそれを抽象的にとらえなおす余裕があり、自分たちを失業者としては意識せず、したがって「いますぐ職を!」とは言わないから、そのぜいたくさの中から、失業という状態に関して、新しい観念が生まれてくる。

 黒人音楽はリアリティでありつづけるのに対し、白人のロックは、全霊での知覚というような精神作業になっていくのも、これでわかるはずだ。ブルースで黒人にちかづいた白人は、ブルースが音として持っている力をほかのことに変質させつつ、黒人からまたはなれていく。音楽上のコンテクストが、まるでちがってくるのだ。

 ロックンロールは、アメリカのなかでの白い音楽と黒い音楽との結合だった、とよくいわれる。白い音楽とは、この場合は、カントリー・アンド・ウエスタンであり、黒い音楽とは、広く言ってブルース、時代背景を区切る意味でせまく言えば、リズム・アンド・ブルースだ。

 そしてこの意味でのカントリー・アンド・ウエスタンは、アパラチアの山のなかにとどまっていた当時の音楽とは区別して考えるべきであり、ロックンロールと結合しえたカントリー・アンド・ウエスタンは、充分に商業的になってからのものでなければいけない。一八万五〇〇〇平方マイルにわたるアパラチアンの貧民が、いまではアメリカの経済や歴史からは独立した別個の存在となっているのとおなじく、もっとも純粋なかたちでのマウンテン・ミュージックは、ノスタルジアとか素朴な音楽ではありえても、リズム・アンド・ブルースとは、たとえばいまのブルーグラスが保守的であるのと同様、結合はできないのだから。

 カントリー・アンド・ウエスタンがひとつのサウンドとして持っている抽象的な力は、人を外に向かわせる外向的な力だった、とすでに書いた。音の性質がそうであるのと同時に、カントリー・アンド・ウエスタンがもっとも大きな影響力となっている地帯の地理的な状況も、人を外に向かわせる力となった。

 カントリー・アンド・ウエスタン地帯は、だだっ広くて人口がすくなく、どちらかといえば貧乏な地帯なのだ。人を結びつけるのはラジオと自動車だけであり、農業のための自然は、人をうけとめてはくれず、農業の機械化によって人を逆に追いはらっている。いまでは一年に四〇万ちかくの人間が、農業の機械化によって、土地から解きはなされている。土地をはなれたら都市に向うしかなく、都市の過密な黒人ゲットーのリズム・アンド・ブルースに、カントリー・アンド・ウエスタンは正面からぶつかることになる。

 カントリー・アンド・ウエスタンとリズム・アンド・ブルースとの結合は、単におたがいが音楽的に吸収しあった結果のことではなく、時代の背景やそのなかの人間が持つ精神状況、そしてあくまでも地理的な条件などが複雑にからみあった結果のことなのだ。

 カントリー・アンド・ウエスタンのサウンドを支えているもうひとつの力は、生きることのうえでのなにごとかに対して楽天的であるアメリカ独特なものの考え方だった。

 ヨーロッパからは断ち切られた、地理的な意味においてすら完全に新しい大陸で、だれからも批判されない唯一の社会制度としての民主主義のなかで、産業革命と資本主義とに支えられ、個人の努力、機会、才能の三つによって経済的な向上をめざすというアメリカの理想がかつては持っていた、外へ向かう力、前進し拡大しようとする楽観的な力を、カントリー・アンド・ウエスタンはそのサウンドのなかに持っていた。

 利益こそ最高の価値で、技術的に可能なことは道徳的にも承認されたことであるとするアメリカの理想の、音による象徴だったのだ。したがってカントリー・アンド・ウエスタンのメンタリティは、すくなくともロックンロールと結びつくまでは、純粋に音楽的な面でのかなりの柔軟性をふくめて、視野はせまく頑迷なものであった。

 このカントリー・アンド・ウエスタンに対して、水をかける役を持ちつつ結合したのがリズム・アンド・ブルースのブルース性と現代性だった。カントリー・アンド・ウエスタンの楽観主義に対して、リズム・アンド・ブルースは、完全な否定の悲観主義ではなく、あなたの歴史はあなたが信じているようには動いてはいかないかもしれない、という新しい歴史観の提示としてのペシミズムととらえることができる。自分がいまどのような歴史のなかに置かれているかの認識を欠いていたカントリー・アンド・ウエスタンに、リズム・アンド・ブルースは、結合してロックになることによって、ひとつの歴史的な視点をあたえた。

 なるほどアメリカの理想はまちがっているようだ、とひとまず意見の一致をみた場所が、ロックだった。

 アメリカの理想に対して疑問を投げかける役として、黒人以上の適役がいないことはすでに書いた。白人たちがはじめて正式な困難に直面したのが一九二九年にはじまった大不況なのだが、白人たちは戦争によって不況からすくわれながら黒人たちは以前のままであり、さらに、都市ゲットーに追いこまれ、戦争からあがる利益にさえ参加させてもらえず、経済的にはまったく非アメリカ的な位置に落されたのだ。

 個人の努力による経済的成功が現実になりうるとして、それをもっとも小さい状況でながめなおすと、自分の成功は他人の犠牲にほかならない。犠牲者は黒人だけではない、オレたちもここにいるのだ、とブルースをとおして白人がはじめて発言できたのが、ロックンロールだった。

 アダム・スミスの『国富論』が世に出たのとアメリカの独立とは、おなじ年のことだ。アメリカがようやく自分のかかげてきた理想に不安を持ちはじめた一九五〇年代なかばにチャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーがあらわれている。歴史の歩みは偶然でも目にみえないほどに小きざみでもなく、はっきりと意図をもって突然にやってくるのだ。

[この項、了]

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 アメリカ ブラック・アメリカン ブルース 第6章 ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ」 音楽
2016年8月25日 05:30
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