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エレクトリック・ギター|エルヴィスから始まった

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4 カントリー・ミュージック

〈2〉エレクトリック・ギター

 不況は大悲劇だった。

 一九二九年にピークに達したGNPは、一九三三年には半分ちかくにまで落ちた。四四五万五一七八台の自動車が一九二九年には製造されたのだが、三二年には、一一〇万三五五七台にまですくなくなってしまったのだ。ごく平均的な都会での働きざかりの失業男性の一日の稼ぎは、一個二セントで買ったリンゴを通行人に五セントで売ってもうけた三セントであったから、不況下の生活がどうであったかは、想像がつく。あらゆる想像をさらに下まわるどん底だった。

 大統領のハーバート・フーヴァーは、自由放任の個人競争を信じていて、それによって財をなした都会の男だった。不況はたいしたことはなく、失業して食えないのは、その人の努力が足らないからだと考え、自分の飼犬においしそうなエサをあたえているポーズで写真を撮らせ、それを平気で新聞にのせた。不況は生やさしいものではなく、その原因は、政府が国の経済をコントロールしていなかったからだ、と気づいたときには、フーヴァーは、次の大統領、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトにとってかわられなければならなかった。

 レコードも、不況のなかでは、売れなかった。一九二〇年には一億一〇〇〇万枚ちかくのレコードが売れたのに、三二年では、六〇〇万枚が、やっとだった。しかし、さいわいなことにラジオはいきわたっていて、三〇年には、全米で一二〇〇万台のゼニスの電池ラジオが、所有されていた。

 不況のなか、そしてそこから立ちなおろうとしている人たちにとって、おそらく唯一の娯楽は、カントリー・ミュージックだったろう。ダイアル650をさがせばWSM局の『グランド・オール・オプリイ』が土曜日には必ずあったし、バーン・ダンスのかたちで、多くの局が、カントリー・ミュージックをながしていた。バーン・ダンスは、似たようなものが日本にないので想像するのがむずかしいけれど、農園の大きな納屋に人々があつまり、フィドルとギターを中心にしたカントリー・ミュージックにあわせてスクェア・ダンスをし、ミュージシャンたちの歌を聞いたり、また、自らうたったりして楽しむ娯楽なのだ。

 このバーン・ダンスによるカントリー・ミュージックが、一九三〇年代には、さらにひろがっていった。メキシコとの国境ちかくの放送局は、ほかの局が一日の放送を終了した深夜から早朝にかけて電波を出し、夜おそくあるいは夜どおし働く人たちに、自分と同化できる音楽を提供したのだ。

 WSL局の『ナショナル・バーン・ダンス』やWSM局の『グランド・オール・オプリイ』の人気は、カントリー・ミュージックのロード・ショウとプロモーションを生んだ。たとえばシカゴのWSL局で放送されていた『ナショナル・バーン・ダンス』の実況を見るために、一九三二年から一九四二年のあいだに、一〇〇万人以上の人たちが七〇万ドルちかいおかねを払ったのだ。

 ラジオの発達で興味ぶかいのは、一九三〇年、アメリカとメキシコの国境に、強力なワッテージを持つ放送局がいくつかできたことだ。電波はカナダまで届き、いつ終るともわからないコマーシャルのあいまに音楽がながされるのだった。慈善興行、ボールルーム、テントショウ、バーン・ダンス、公会堂などでのカントリー・ミュージックが、商品になった。おかねを払って聞きにくる人たちがいたからだ。

 フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、不況を相手に、よく戦った。金融経済、農業、そして失業者、の三つの大問題は、しかし、第二次世界大戦の軍需景気を待たなければ解決されないことだった。TVA、社会保障法と、これまでのアメリカの伝統の枠内ぎりぎりのところでFDRは改革をこころみ、ラジオをとおして、親密な感じで国民に語りかけ、前進していった。FDRの放送があるときには、WSM局の『グランド・オール・オプリイ』も、さすがにお休みした。

 FDRは再選され、一九四一年、日本がハワイのパール・ハーバーを奇襲した。大統領は三選をめざして選挙に出ることはできないことになっていたのだが、FDRは、このルールを破って、大統領になった。

 軍需景気は、すさまじかった。あふれていた失業者は次々に労働力となり、ついには、逆に労働者が不足しはじめた。そして、ここで、アメリカの文化にとって非常に重要なことがおこった。貧しい地帯、つまり東南部や南部から、軍需工場での賃金を求めて、人口の移動がはじまったのだ。それ以前の一九三〇年代にも、スタインベックの『怒りの葡萄』にすこしも誇張ではなく描かれているように、”新天地”[傍点]カリフォルニアをめざした、オクラホマ、アーカンソー、テキサス、ミズーリ、カンザスなどからの、移動があった。高地を一度、山を二度、そして砂漠も二度、それぞれ越えてカリフォルニアに向かったのだ。

 四〇年代の人口移動は、もっと重い影響力を持った。貧しいよそ者が、全米に散らばることになったし、一九四四年には、南部から二〇〇万人以上の黒人が、軍需工場で働くために出ていった。国内での異文化の交流がおこり、戦場でもGIたちのあいだにおなじことがおこった。ついでだが、都市黒人の暴動は、すでに一九四三年に、デトロイトとニューヨークで、おこっている。

 この文化の交流期にカントリー・ミュージックが受けた大切な影響は、三つあった。

 ひとつは、ホンキイ・トンクの発見だった。日本語でのイメージは、「大衆酒場」だろうか。労働者たちが酒を飲み、踊り、女をみつけ、ケンカをするところだ。ここでのエンタテインメントのにない手となったカントリー・ミュージックは、酒場の喧噪と、ジューク・ボックスという奇怪な装置が発する、電気的に増幅された音と、はりあわなければならなかった。フラット・トップの生の音には、しかし、勝ち目はなかった。ギターは、電気ギターにならなければいけなかった。ギターの音が大きくなければ、ビートをつけるリズム・セクションも音を大きくしなければならず、ドラムが、重要なサウンドとして、カントリー・ミュージックに加わった。ホンキイ・トンクで経験をつんだアーネスト・タブが、このようなことの創始者となり、彼は、一九四七年、カントリー・ミュージックでははじめて、カーネギー・ホールに出ることになるのだ。スティール・ギターも、加わった。これは、一九三〇年代のハワイ音楽からの影響だ。

 ふたつ目は、ハリウッドの映画と結びついた結果の、西部フロンティアあるいはカウボーイのイメージとの重なりあいだ。カントリー・ミュージックは、西部とはもともとなんの関係もない。しかし、日本でもそうだが、カントリー・ミュージックは、カウボーイ・ソングあるいはウエスタン、と呼ばれることが多い。

 第二次大戦のときまでに、カウボーイはすでにアメリカの美しい伝説のなかの、孤独なヒーローだった。

 カウボーイとカントリー・ミュージックのコマーシャルな結びつきは、一九二四年、オットー・グレイのオクラホマ・カウボーイにすでにみられるのだが、マス・アート(大量生産商品的な芸術)としてのウエスタンのはじまりは、ジーン(オルヴォン)・オートリイだった。彼はテキサスに生まれて子供のときは教会の聖歌隊でうたい、まだ十代のときすでにナイトクラブでかせぎ、メディシン・ショー(田舎で人々に薬を売る、一種の興行。テント小屋あるいは野外のステージをつくり、日本の香具師とおなじように口上をのべて薬を売り、余興に歌やひとり漫才がある。田舎では貴重な娯楽と社交の場だった)に加わって流れあるいた。一九二九年にはヴィクターでレコードをつくり、三〇年から三四年にかけて、オートリイは、WSL局『ナショナル・バーン・ダンス』のメイン・アトラクションになって人気をたかめ、通信販売デパートのシアズ・ローバック社のレーベルで、レコードをつくった。また、九ドル九五セントのジーン・オートリイ「ラウンドアップ」ギターも、通信販売で売られた。シアズ・ローバックのカタログにのせられて、シンギング・カウボーイとしてのオートリイのイメージは、強力にひろがった。

 一九三四年、オートリイは、ハリウッドに出た。当時のハリウッドは、クララ・ボウのイット・ガール以来つづいた、性をおもてに出した映画が頂点をすぎていて、かわりにこんどはなにか健康明朗で安全で、人々から批難されない材料をさがしていた。

 一九二八年にはサウンド・フィルムができていた。ジョン・フォードの初期の映画は、伝統的なほうのカウボーイ・ソングを、音楽に用いていた。音痴のジョン・ウェインまでが、歌をうたわせられていたのだ。オートリイのハリウッド第一作ができる五、六年まえから、ドラマを前にすすめていく力として、劇中にカウボーイ・ソングがうたわれるということが、普通のこととして、西部劇ではおこなわれていた。ケン・メイナードが、一九三〇年、西部劇のなかではじめて四曲、うたったのだ。

 オートリイはメイナードの映画にわき役で出てファンをつくり、すぐに主役に転じ、一〇〇本を軽くこえるフィルムをつくった。『ボタンとリボン』や『赤鼻のトナカイ』などの最初のヒットは、オートリイなのだ。

 ロイ・ロジャーズ(レナード・スライ)、ウイルフ・カーター、レックス・アレン、スチュアート・ハンブレン、スペイド・クーリー、ジミー・ウエイクリー、テックス(ウッドワード・モーリス)・リターなど、たくさんのシンギング・カウボーイがつくられ、派手な、というよりも気ちがいじみて薄気味のわるいシンギング・カウボーイの衣裳が、カントリー・アンド・ウエスタン歌手やバンドのステージ・コスチュームとして定着した。ホンキイ・トンク系のカントリー・アンド・ウエスタン・バンドでジャズふうなビッグ・バンド、ウエスタン・スイングも、一九五〇年代はじめまで、力を持った。ハンク・トムスンのブラゾス・ヴァレー・ボーイズに、当時をみることができる。

 大切な影響の三番目は、黒人との訣別だった。アメリカの伝統的な音楽としてあげうる唯一のものは彼らのブルースで、これの影響をうけることなしに、カントリー・ミュージックもまたミュージシャン個人も、自分の音楽を完成することはできなかった。

 ジミー・ロジャーズは鉄道の黒人工夫から、ハンク・ウイリアムズはアラバマの黒人のストリート・シンガーから、チェット・アトキンズは、黒人の影響をうけたマール・トラヴィスから、ビル・モンローはケンタッキーの黒人労働者から、そのほか、ほとんどのアーティストが、黒人からほぼ直接に、天啓ないしは手ほどきをうけている。アパラチア山中の厳しい生活者たちの状況は、表面的には黒人と似ていて、おたがいに、音楽のうえで影響をあたえあった。しかし、カントリー・ミュージックが商品として二〇世紀なかばに確立すると、白人たちはこぞってナッシュヴィルに逃げ、ナッシュヴィル・サウンドの影にかくれて、黒人にはいっさい触れずにすごすことになるのだ。チャーリイ・プライドは、彼らのカントリー・スターとしてはただひとりにちかいめずらしい存在だが、彼の『ラヴシック・ブルース』はハンク・ウイリアムズのそれよりもうまく、つまり、ハンク以上にブラックで、「ブルースの一変形としてのカントリー・ミュージックのソウルがほんとはどこにあるかを示してくれている」(ポール・ヘンフィル)実際にはたくさんいた黒人カウボーイが、西部劇にはいっこうに登場しなかったのとおなじことが、カントリー・アンド・ウエスタンの世界でも忠実に守られている。ナッシュヴィルがあるテネシー州では、州の歴史と発展を写真と文章で説明したプロモーション用の本が、州政府から発行されている。この本をみると、州の人口構成のところでは黒人はひとりもいないことになっているし、チャタヌーガやメンフィス、その他、町や工場、農園などを撮った写真にも、おどろくべきことに、黒人はひとりも見あたらないのだ。

[この項、了]

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1930年代 1960年代 1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 アメリカ エルヴィス・プレスリー 真珠湾攻撃 第4章 カントリー・ミュージック 青空文庫 音楽
2016年6月2日 05:30
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