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いつラジオの音量をあげたか?|エルヴィスから始まった

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3 トータルな体験と目覚め

〈3〉 いつラジオの音量をあげたか?

 くりかえすけれども、ようするに音楽そのものはどうでもよくて、たまたまなにかのロックンロールによって、多くの人たちのひとりひとりが、なににどれだけ目覚めたかということが、最も重要なのだった。

 自分を目覚めさせてくれるようなものといきあったり、そのようなものが存在するところにいあわせたり、現場を経験したりしなければどうにもならず、いあわせなかったり経験できなかった人たちは、すくなくともロックンロールによる目覚めに関するかぎり、”それまで”〔傍点〕、であった。たとえば一九五〇年代のなかばには、エルヴィス・プレスリーと同時に、結局は四〇〇万枚も売れたビル・ドゲットの『ホンキイ・トンク』もあったのだが、ほかにもヒットソングはさまざまにあった。そのいずれもが、いま思いおこせば、ノスタルジアをさしひいたとしてもなお当時の時代的共感をたたえてよみがえるから、目をまどわすための色彩は、一九五〇年代には、とても豊かだった。五一年、ナット・キング・コールの『トゥー・ヤング』は、恋をするために年齢がまだ充分ではないということなどあるものか、大人たちよ、いまにみていろ、という内容の歌詞がはっきり意味をもっていて、これを支持してヒット・パレードの第一位にした人たちもいたし、チャック・ベリーの『メイベリーン』を、リズム・アンド・ブルース、カントリー・アンド・ウエスタン、ポップ、の三つのチャートですべて第一位に推しあげた人たちもいた。もっとまえにはザ・ウィーバーズが顔を出し、五〇年代のまんなかでは、ハリー・ベラフォンテもスターだった。ペリー・コモ、キティ・カレン、ローズマリー・クルーニー、パティ・ペイジ、ダイナ・ショア、フランキー・レイン。みんな、それぞれに、スターだった。しわがれたすごみのある声をはりあげていろんなことをラジオでしゃべり、ロックのレコードをかけ、話にアフタービートをつけるため、ニューヨークの電話帳を、マイクロフォンが乗っているデスクに叩きつけるのを自分の仕事の一部としていたDJ、アラン・フリードも、スターだった。

 ポピュラー・ソングか、ロックか。選択は、厳しかった。ポピュラー・ソングをただ聞き流しただけに終ったのか。それとも、ロックを、自分のなかに入れることができたか。歌手の名や曲のタイトルなど、ひとつも記憶していなくても、いっこうにさしつかえはない。小さなプラスティックのトランジスタ・ラジオでロックンロールの番組をかけっぱなしにしてなにかをやっていて、歌手も曲も覚えてはいないけれど、ある曲がかかったとき、片手をのばしてラジオの音量をあげたくなってほんとうにそうしたことが、一度もなかったのか。

 すぐれたロックンロールのシングル盤の役目は、それをラジオで聞いている人に音量をあげさせることなのだ。それさえ果たせば、充分だった。ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、あるいは、バディ・ホリーたちのレコードは、聞いている人たちに音量をあげさせる力を持っていた。エディ・コクランは、よかった。早い時期にイギリスで自動車事故にまきこまれ、死んでしまった。なにもかもごっちゃになってぼんやりとした印象しか残っていない一九五〇年代のアメリカン・ロックンロールのなかでも、最も匿名性の高い、完結したロックンローラーだった。ジーン・ヴィンセントは、エディ・コクランが死んだときにいっしょにイギリスにいて、脚を片方、いためてしまった。日本に来たときはすでに脚はそうなっていて、その脚をまっすぐにうしろにひき、ジョニー・レイとおなじように、肉体的な苦痛や個人的な苦悩をうたっているようだった。ジョニー・レイはラヴァーン・ベイカーにブルースを教えてもらったできのいい生徒で、子供のときに頭から地面に落ちたのが原因で耳の聞えが悪くなり、同時に、ひっきりなしに頭痛に悩まされることになった。彼のステージは、歌というよりも、彼の全人格の必死の提示のようだった。しかし、あとになってみるとやはり音が記憶に残っていて、うたうときの姿は、エルヴィス・プレスリーがはじめての映画でみせてくれたうたい方や、もうすこしあとでジェームズ・ディーンが映画『理由なき反抗』でみせてくれた、ブルー・ジーンズにマクレガーの赤いスコッチ・ドリズラーのえりを立てて猫背ぎみにどこかへ歩いていく姿とかさなっていた。ジーン・ヴィンセントは、タフでとがった音だった。リード・ギターのグリフ・ギャラップやジョニー・ミークスの、おそろしく定石的で耳に入りやすくありながらなにか新しいものをつけ加えている電気ギターに支えられて、ヴィンセントの声は、存分に気ちがい的だった。リッキー・ネルスンやフェビアンたちとくらべてみるといい。ジーン・ヴィンセントも、無名氏にちかかった。脚の痛みのせいで、カムバックしてはまたいなくなり、レコード会社はよくかわり、いつのまにか、死んだエディ・コクランとおなじように、忘れられていった。

 バディ・ホリーも、死んだ。

〔二月三日、アイオワ州クリア・レイク発、UPI。わが国のロックンロール・スター――リッチー・ヴァレンス、J・P・(ザ・ビッグ・ボッパー)リチャードスンとバディ・ホリーの三人は、チャーターした飛行機が墜落し、パイロットとともに、今日、死亡した。この三人の歌手たちは、中西部をいま公演してまわっているロックンロール・トループのメンバーで、シャツを洗濯する時間がほしくて巡業先から次の公演地に急いでいてこの事故にあったものである。昨夜、クリア・レイクで千名の熱心な聴衆を前に公演したのち、当地から二マイル東のメイスン・シティ・エア・ポートから飛行機をチャーターし、午前一時五〇分、北ダコタ州ファーゴに向けて飛び立った。四人乗り単発のボナンザ機は、離陸後まもなく墜落した。機体は、雪の上を五五八フィートもスキッドしていた。ホリー(21)は、機から二〇フィートはなれたところで、死体となって発見された。ふたりめのエルヴィス・プレスリーとしてさわがれていたヴァレンス(17)は、四〇フィートはなれたところまで、投げ出されていた。カリフォルニア州パコイマ出身のヴァレンスは、我が国の最もホットな歌手として、急速にその人気をたかめつつあった。自らの手になるはじめてのレコード『カムオン・レッツ・ゴー』は昨年の夏に発売され、これによってヴァレンスは有名になった。墜落した機体と死体は、明け方おそくなるまで発見されなかった。公演メンバーのほかの歌手たち、フランキー・サルド、バディ・ホリーのバンドだったザ・クリケッツ、それにディオン・アンド・ザ・ベルモンツは、バスで公演さきに向かった。メンバーは悲しみにうちひしがれてはいたが、ミネソタ州ムアヘッドでの今夜の公演は、予定どおりおこなわれた〕(グレイル・マーカス)

 ジェームズ・ディーンも、死んだ。死ぬと、彼に関するいろんなものが、当人の死後の他人におけるカネもうけとして、売り出された。そのなかに、バンパー・スティッカーが、あった。その文句は、こうだった。

 JAMES DEAN DIED FOR YOUR SINS.「ジェームズ・ディーンは、おまえの罪を背負って死んだ」

 天啓へのきっかけは、ロックンロールではなくて、ジェームズ・ディーンでもよかった。

「アメリカの小さな町、金曜日の夜。放浪者、一時的な滞在者、そしてもうじき生まれてくるはずの子供まで数に入れて、人口は三二〇〇。金曜の夜になると、やることはふたつしかない。コインを投げて表なら、この町に一軒しかない映画館へいく。裏が出たら、ティーンタウン。ティーンタウン。これは、新しくできた、石炭がらをまぜたコンクリートづくりの掩蔽壕のような建物で、周囲の茂みのなかで悪いことができないように、まわりにフラッドライトがたくさんある。以前はエピスコパル教会の地下のふた部屋で、そこにはレコード・プレーヤーと球突き台とがあった。裏には、暗い墓があった。メソディストとカトリックとが、なぜおまえのところにもこのような部屋をつくらないのかとみんなに言われたし、エピスコパルの地下は、町の少年たちがみんなやってきてしかも大人の監督がいないので、土地がもっと安くて歩いていけるところに新しく部屋がつくられ、そこにはエイシー・デューシーからシャフルボード(ともにポピュラーな室内ゲーム)まであったのだが、球突きのテーブルはなかった。このような小さな町の金曜の夜。わかるだろうか。真夏のどまんなかの、死んだような日々。街灯の明かりに虫があつまり、その虫は、歩道に影ができるほどたくさんいる。あまりにも暑いので、稲妻がときたま光る。するとそれを見て、老人たちが、かつての雨について語りはじめる。こんなふうな感じの夜。外へ出ては来たものの、なにもすることがないので、みんなそのへんに立ったり坐ったりで、ごろごろしている。交通事故でもあればいい、とみんな思っている。事故は、ひどければひどいほど、いいのだ。そうすれば、話しのタネができる。おたがいの、聞きあきたことをしゃべり、見あきた顔をみないですむようになるなら、車の事故だっていいのだ。アメリカの小さな町、金曜日の夜。ボクは一五歳、一九五四年。コインを投げたら表とでたので、映画にいったのだ。映画にそれほどの期待をかけたわけではなかった。二本立て。その二本目のやつに出てくるナタリー・ウッドは、わりあいにいい体をしていたし、サル・ミネオが画面にあらわれたなら売店までポップコーンを買いにいこうと考えていた。ところが、結局、ポップコーンどころではなかった。『理由なき反抗』を二度つづけて見て映画館から出てきたとき、外の世界がさっきとまったくかわっていないことを発見しても、ボクはべつにおどろかなかった。建物はいぜんとしてそこにあり、車はひっくりかえってはいず、みんなおなじ。しかし、ボクだけは、確実に変化していた。ジェームズ・ディーンが、ボクを変化させた。映画館から出てくるのは、核爆発のあとで防空壕から出てくるような感じだった。放射能で洗われたのは、じつは映画館の外の人たちではなく、なかにいた自分だけだった。美しい放射能だった。映画を見なかった人たちが、気の毒だ。映画そのものは、つまらないものだった。ディーンだけが、よかった。ごく普通な男にしかみえないこのディーンが、ものごとを自分のやりたいようにはこんでいく。これまでとは、かわっていた。かわっていながら、映画のなかのディーンは、ボクとおなじくらいの年齢だった」(ジェームズ・トムスン『ジェームズ・ディーンは生きていて三十歳すぎて、ひどい怪我のあとが残っている』より)

 なぜ、ジェームズ・ディーンが、そんなによかったのか。ディーンではなくて、あの役をタブ・ハンターが演じていたら、どうだったか。やはり、よかった、と思っただろうか。感動しなかったにちがいない。

 ジェームズ・ディーンが死んでから、「ジェームズ・ディーンに似ている男」のコンテストが、たくさんあった。日本ですら、おこなわれた。ディーンに似ている男が、たくさんいた。オレはディーンに似ている、と考えた男が、たくさんいたのだ。ディーンは、英雄を演ずるタイプの俳優ではなかった。背が低くて頭が大きく、すこしガニまたで、はっきりと猫背で、近眼で、美男子でもなんでもなく、三〇歳ちかくてまだ少年のように見えた。

 ディーンはオレだ、と感動した少年たちは、ディーンのなかに自分を見ていた。ジェームズ・ディーンは、だから、曲名も歌手名も記憶してはいないけれど、ラジオのヴォリューム・コントロールをあげたときのロックンロールのシングル盤とおなじ性質の匿名性を持っていた。ディーンはオレに似ている、と思うだけでも、その少年にとっては、天啓だった。心の爆発の、基本だった。

 ディーンは、それまでの世の中をしばっていた道徳や習慣などを、断ち切るというよりも、そのようなものとは関係を持たずにいた。生きていくうえでなにかの本質にふれるには、社会から、いちど、脱出する必要があった。ディーンは、脱出していた。ひとりだけでいられる人間の勇気を、ディーンは持っていた。孤独な男の哀愁、などというバカげたものではなく、すでに存在するものへの妥協を蹴ってすこしもこわくない、精神主義上でのヒップスタが、ジェームズ・ディーンだった。この精神主義のわからない人たちにとっては、既存の社会に非行というかたちでもっと深くまきこまれていくことだけを、『理由なき反抗』は、示していた。

「ジェームズ・ディーンは、おまえの罪を背負って死んだ」は、やはり意味を持っていた。そして、今でも、持っている。おまえの罪とは、アイゼン・ハワーがゴルフをしているあいだにもうひとつ戦争がなぜかおこらない、という幸運のなかで、なにものにも目覚めなかった罪なのだ。目覚めるきっかけは、いくらでもあったのに。

 たとえば――。

 メンフィスの七月。暑い夜に、一六歳の高校生アン・ポウリヌは、自室の窓をみんな閉めきって、なるべく動かないようにしていた。学校の予習をやりながら、ラジオを聞いていたのだ。彼女は、自分のすぐうしろの本棚に置いたラジオの音を、大きくするのが好きだった。音が外に聞こえたりすると父親がうるさいので、暑いのをがまんして窓をみんな閉めていたのだ。

 聞きつづけていたレコード番組で、ある曲がかかったとき、はじめのほんの一瞬、彼女は、それまでとおなじ状態で、聞きながしていた。だが、すぐに、彼女は、消しゴムのついた鉛筆の尻で、あけていた英語の教科書を軽く叩くのをやめた。それどころではなくなったのだ。

 彼女は、鉛筆をデスクの上に置き、次に自分の両手を平たくデスクの端に突き、立ちあがる寸前のような姿勢をとった。頭のうしろで、ラジオが、音を彼女に送りつづけた。聞いたことのある歌だった。うたい方やビートは、まるっきりちがうのだが、歌詞には、覚えがあった。よくラジオで聞く、カントリー・アンド・ウエスタンの、古い曲のようだった。曲名を思い出そうとしたのだが、記憶はよみがえらなかった。

 あっというまに、曲は終った。彼女は、まっ青になっていた。放心したように半開きになった口でなにか言っていたのだが、声にはならなかった。彼女は、立ちあがった。本棚のラジオを、デスクにおろした。どこへでも持っていけるよう、彼女はいつもラジオは電池で聞いていた。ラジオを見つめながら、彼女は、みじかい感嘆の言葉を、心の底から驚嘆した人の低い声で、吐き出した。

 ラジオを右手にさげて彼女は部屋をとび出し、父親がいつも車のキーを置いている居間の電気スタンドの横のテーブルまで走り、車のキーをつかみ、母親が台所にいるので、正面玄関のドアとスクリーン・ドアを蹴りあげ、ポーチをかけ降り、ガレージに走った。車の運転席に入ると、彼女はベンチシートのとなりにラジオを置き、音量をいちだんと大きくした。

 車をバックさせ、急いでいたからうしろ半分を芝生に乗りあげ、ステアリングをフル・ロックさせて車をドライヴウェイの外に向けると、かまわずにアクセルを踏みこんだ。

 聞いている番組がどこの放送局から送られているのか、彼女は知っていた。WHBQ局なら、いつもその建物を見ている。彼女は、車でそこに向おうとしたのだ。さっき聞いたあのレコードを、もう一度かけてくれるよう頼むためだった。

 車で走っているあいだに、奇跡がおきた。DJのデューイー・フィリップスが「さきほどかけたレコードをまたかけます。リクエストしてくる人がたくさんいるからです」と言ったのだ。そして、さっきの曲が、またラジオから流れた。彼女は車を歩道に寄せてとめ、ステアリングを両手で握りしめたまま、じっと聞いていた。自分が泣いていることに、彼女は、気がつかなかった。

 曲が終って車を走らせると、またしばらくして、おなじ曲が、かかった。彼女は再び車をとめ、全身で聞いた。とおりかかったパトロール・カーの警官が、心配して車から降りてきてくれた。いま聞いていた曲がきっとまたかかるから、それまでここに車をとめてラジオを聞いていてもいいか、と彼女は警官に言った。レコード番組をラジオで聞いていてそのなかの一曲に彼女がたいへん感動しているのだ、という事実を警官に納得させるのにすこし手間がかかった。

 車のなかにすわったまま、彼女は、三時間のレコード番組を聞き終った。あの曲は、都合、七回、かかった。へとへとになって車で自宅へ帰る途中、彼女は、自分が今夜なにかに目覚めたことを知り、再び感動していた。なにに目覚めたのかは、自分でもわからなかったのだが。

 エルヴィス・プレスリーに対しては、もっとちがったかたちでの目覚めも、可能だった。アビー・ホフマンは、次のような意味のことを『ウッドストック・ネイション』で語っている。

 彼がハイスクールを放校になって玉突き屋で時間をつぶしたりしていたころ、彼や彼の仲間たちが聞いたレコード音楽は、当時はまだ「レイス・レコード」と呼ばれていた、黒人マーケット用のリズム・アンド・ブルースだった。パティ・ペイジやトニー・ベネットのレコードしか置いていないレコード店を、ジェームズ・ムーディ、ジョー・ターナー、アール・ボスティックたちのものを求めて、さがしまわったのだ。

 そんなとき、ひとりの歌手が登場した。サウンドはブラックで、アビー・ホフマンや彼の仲間を興奮させた。ブラックなのは音だけで、白人だと知ってみんなおどろいた。とにかくオレの靴だけは踏むな、という『ブルー・スエード・シューズ』の歌詞が、象徴的だった。やがてそのエルヴィス・プレスリーがテレビに出るときがきた。エド・サリヴァン・ショウに出るというので、アビー・ホフマンは、仲間といっしょにあつまって、テレビを見た。

 うたうときのエルヴィス・プレスリーは、独特なスタイルを持っていた。ペルヴィス(骨盤)とあだ名されただけあって特に下半身がよく動き、本人は歌とともにごく自然にやっているつもりなのだが、大人たちはその彼の動きを、性的な表現として、批難していた。エド・サリヴァン・ショウに出るころにはその批判はかなり大きくなっていたので、サリヴァンは、テレビ・カメラでエルヴィスの全身をとらえることをやめさせ、上半身だけをアップでとって放映させたのだ。

 二分の一のエルヴィス・プレスリーに、アビー・ホフマンは、新鮮な怒りを覚えることができた。ホフマンの言葉によると「浴槽のなかで浮き沈みしている釣りのウキのような」プレスリーの上半身に、エド・サリヴァン、つまりそのときのアメリカを支配していた観念のグロテスクさを見たのだ。「エド・サリヴァンに会うようなことがあったら、叩きのめしてやる」一九五六年のある日曜の夜、仲間にそう言いながら、アビー・ホフマンは、二分の一のプレスリーをとおしてアメリカに怒れる自分に、感動していた。

[この項、了]

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1950年代 1960年代 1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 エルヴィス・プレスリー 第3章「トータルな体験と目覚め」 青空文庫 音楽
2016年4月28日 05:30
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