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ロックンロールは「生き方」だ|エルヴィスから始まった

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3 トータルな体験と目覚め

〈1〉ロックンロールは「生き方」だ

 一九二〇年代から三〇年代、そして四〇年、五〇年とつづいてきたダンス用のビッグバンド・ジャズでも踊ることは踊れたのだが、若い人たちには、むかなかった。中年のビジネスマンたちによって、現実に対する付属品としてそれに併置されたかたちのメイク・ビリーヴとしてつくられていたいわゆるポピュラー・ソングは、大人の価値と感情の世界に完全に依存していた。そのような音楽はビートとか現実感などのほかに、まずなによりも緊迫感を欠いていた。

 これでは若い人たちには受け入れられないだろう、と気のついたミュージシャンが、一九四〇年代の終りにひとりいた。

 ビル・ヘイリーは、フィラデルフィアの小さな放送局WPWAで、六年間、《サドルメン》というカントリー・アンド・ウエスタンのバンドのリーダーとして、仕事をしてきたあとだった。一九二七年、ミシガン州ハイランドパークで生まれたビルは、一三歳のときからギターで生活してきた。中西部が仕事の場だった。《ダウンホーマーズ》というグループをつくった頃には、仕事はあるのだがこれといった成功をおさめるわけでもない状態にあった。

 おなじラジオ局の仕事を六年やって、ビルは、あることに気がつきはじめた。いっそのことこのへんでカントリー・アンド・ウエスタンをやめにして、リズム・アンド・ブルースにかえたほうがいいのではないか、ということだった。局で仕事をしているときに、聴取者から電話のかかってくることが、たまにあった。「もっとビートのきつい激しいのをやったらどうか。いまラジオにかかっているようなのは、すこしも面白くない」と、電話をかけてきた人は、言うのだ。

 どんなのがいいのか、ビルは訊いた。相手のこたえは、はっきりしない。黒人かもしれない、とビルは思った。名前や年齢、それに、かよっているハイスクールの所在地を、たずねた。こたえを総合してみると、白人の一六、七歳の少年なのだ。たとえばどんな楽器の音が好きかと訊くと、少年は、サキソフォンという名前がわからずに、その形をビルに説明するのだった。

 サキソフォンが加わっていて激しいビートのある音楽といえば、リズム・アンド・ブルースだ。そうか、とビルは思った。ビル・ヘイリーは、プロフェッショナルだった。電話の少年に言われた音が魅力的であることは、知っていた。黒人のブルース・レコードを聞きなおしてみた。グループの楽器編成をかえ、ニグロ・ブルースのビートを、カントリーふうな感じをのこしたまま、電気ギターとサキソフォンで、まねしてみたのだ。そして、《サドルメン》などよりもはるかにその当時としては新鮮だった《コメッツ》という名前を自分のグループにつけ、一九五一年、フィラデルフィアのエセックス・レコードから『ロケット・エイティ・エイト』をつくって発売した。おなじ年に、『ロック・ザ・ジョイント』も出た。

 ビル・ヘイリーとおなじことを考えた人が、クリーヴランドにもいた。アラン・フリードは、一九五一年、地もとのWJW局で、ムーンドッグ・ロックンロール・パーティというラジオ・ショウをつくり、DJを受持っていた。これよりすこし以前にもべつな放送局でこころみたのだが、失敗した。しかし、こんどは、成功だった。ドリス・デイ、エディ・フィッシャー、ペリー・コモ、ケイ・スターたちが主流だったラジオで、アラン・フリードのリズム・アンド・ブルース・レヴューの公開録音には、彼が予定していた三倍ちかくの若者が、やってきたのだ。

 一九五二年、ビル・ヘイリーは『クレイジー、マン、クレイジー』をつくった。ジューク・ボックスでは人気が出たが、ラジオのDJたちには、“まだ”、とりあげてはもらえなかった。直接には関係ないことだが、五一年には、電気ベースが考案され、実用に入った。一九五四年に、ジョー・ターナーのヒット『シェイク・ラトル・アンド・ロール』を、ビルは、つくりなおして自分のレコードにした。この頃、ビルは、メンフィスを中心に人気の出はじめたエルヴィス・プレスリーとともに、一夜だけの公演のため、各地をまわったことがある。ビルのレコードは次第に大きなヒットになり、やはり五四年の『ロック・アラウンド・ザ・クロック』は、ソニー・ディーのもののつくりなおしだったが、ポップのベストセラー・チャートに顔を出した。映画『暴力教室』のテーマにつかわれ、決定的なヒットになった。少年時代のフランク・ザパが、映画館でこのロックを聞き、新鮮なショックと天啓を受けていた。

 ビル・ヘイリーのレコードに対する反応は、はじめのうちは、一種の珍品に対する反応とおなじだった。しかし、彼のロックンロールは、当時の白人社会にはあまり競争相手がいなかったため、たとえば『ディム・ディム・ザ・ライツ』のように、リズム・アンド・ブルースのヒット・チャートに登場できるほどの力を持ったのだ。黒人のヒットを白人がつくりなおしたレコードには、とうていできる芸当ではないのだが、これだけは、そうなった。アラン・フリードはニューヨークに出ていて、WINS局でロックンロールを放送していた。

 『シー・ユー・レイター、アリゲーター』あたりから、ビル・ヘイリーは、自分自身のコピーをはじめる。そして、一九五六年がエルヴィス・プレスリーの年になると同時にかすんでしまい、まだロックがそれほど伝わっていなかったイギリスへ、成功をおさめるためにいかなければならなくなるのだ。

 本物ではなかったけれど、ビルは、方向を指さしてはくれていた。ビルは、カントリー・ギターの腕はかなりのものだが、歌手ではなく、したがって、うたうというよりは、主に叫んだ。リズムセクションを前面に出し、電気ギターとともに、レコーディングの際の技術や電気的な操作によって、レコードはいいけれど公演で聞くとがっかりするという効果を出すことができていた。

 「若い人が踊れる音楽をつくろうとしただけだ」と言っているビルは、たしかに自分の役を果たした。当時すでに三〇歳をこえていたビルは、六〇年代の終りちかく、ロックンロール・リヴァイヴァルの、主として表面的な部分で再び姿を見せた。おでこにヘア・オイルではりついたようになっているスピットカールや笑いかた、それにギターが昔とおなじで、もうすこし肥り世帯やつれしていた。意味もなくただニヤニヤと笑うのが相かわらず得意なビルに、成功の量はすくなかったけれども役割りは果たしたプロフェッショナルとして、敬愛の思いを禁じ得ない。

 ビル・ヘイリーと彼のコメッツによって、自分たちのための踊れる音楽が、ティーンエージャーたちの手にわたることになった。非行少年のことが社会的な問題になっていて、映画『暴力教室』、それにロックンロール・コンサートでの若い人たちの陽気で健康な活動が大人たちには暴動のように受けとめられたおかげで、ロックンロールは、親に反抗するティーンエージャーの音楽ともなった。誰かひとり、ビルのような五人の子供がいる三〇歳の大人ではないヒーローが、必要とされていて、エルヴィス・プレスリーが、そのヒーローになった。そしてロックンロールは、まずはじめに、商品になった。

 一九五〇年代のはじまる前後から、ティーンエージャーたちが持っている経済的な購買力に誰がいちばんはじめに目をつけたのか、それはわからない。彼らの経済力をあてにして、いろんな商品が、売られはじめた。ブルージーン、ポニーテールのリボン、ヘアオイル、ミルクシェーク、モーターサイクル、トランジスタ・ラジオ。そしてトランジスタ・ラジオは、さらにディスク・ジョッキーをとおして、ニキビとりの薬を、ティーンエージャーたちに売った。はっきりとティーンに狙いをさだめた商品のなかで、ロックンロールのレコードは、偶然に頼っていた。ポピュラー音楽でのカネもうけに従事している人たちには、どんな音楽をつくっていいのかわからず、プレスリーやビル・ヘイリーのようなかたちで、歴史の波動がその波間からいつのまにかつくり出している、必要な偶然に、依存していた。

 どうやらこんな音楽らしい、とポピュラー音楽専門職の大人たちが気がついたのは、一九五四年の夏から秋にかけてだった。どのような事情がかさなりあってそうなったのかわからないのだが、一九五四年の夏、若い五人の黒人が、アトランティック・レコードのスタジオで、『シュ・ブーン』という曲をつくり、つくったその日のうちに、レコーディングした。スタジオで五人が共同してその場で一曲つくった、という事実もスリリングなのだが、これについてはあとでふれよう。

 ザ・コーズというこの五人がつくった『シュ・ブーン』は、アトランティックのレイベルからは発売されず、キャットのレイベルで出された。アトランティックの商標のもとに売り出す商品としての自信が、アトランティックになかったからだ。そのレコードは次第に人気をたかめ、ついに、全米的なヒットになった。これだ、といろんな人たちがとびつき、つくりなおしのレコードがたくさん出た。カナダのザ・クルーカッツというグループのものがいちばん有名で、夏じゅうヒットし、よく売れた。日本では、ダーク・ダックスが、うたっていた。

 黒人のヒットを白人がうたいなおす作業は、この頃、さかんにおこなわれた。白人社会のラジオに彼らが登場できずにいた事情があり、また、黒人のオリジナル版は、あまりにも強烈で新鮮すぎたこともある。白人による水ましのつくりなおしロックンロールが多すぎるので、ラヴァーン・ベイカーが一九五五年、法的な規制を求めて訴えて出た。しかし、一九五六年になると、カヴァー(つくりなおしレコードの、業界での呼称)は市場価値がなくなっていた。ニセモノが商品として成立しなくなるほどに、ホンモノに目覚めた人たちが多くなっていたからだ。オリジナルとカヴァーのちがいは、すぐにわかる。うたう声と演奏が緊密に一体化しているのがオリジナルで、楽器がいまだに“伴奏”の役しかあたえられていないのが、まちがいなくカヴァーだった。カヴァーのほうがよく売れた理由は、もうひとつ、大きなレコード会社の資本による宣伝があっただろう。リズム・アンド・ブルースのレコードをつくる会社は、ほとんどが規模の小さい独立プロ的な会社であり、黒人のマーケットを専門に、リズム・アンド・ブルースだけを商品にしていた。『ビルボード』誌が一九四九年にリズム・アンド・ブルースをレイス・ミュージック(黒人音楽)と呼ぶことをやめた。カヴァーがヒットしなくなるのとは逆に、リズム・アンド・ブルースの会社はふえ、そのような音楽を白人社会に広げていくために、一説によるとアラン・フリード、またちがう説によるとビル・ヘイリーによって、ロックンロールという名前が、一九五〇年代のはじめに、つくられた。ビル・ヘイリーの一九五二年のレコード『ロッカビーティンブギー』には、「ロック、ロック、ロック、エヴリバディ。ロール、ロール、ロール、エヴリバディ」という詞があるのだ。

 第二次世界大戦中にアメリカ政府は、シェラックの供給を制限した。そのため、78回転レコードがつくりにくくなり、かわる手段として、RCAが、一九四九年に45回転レコードをビニールを主原料として完成し発表していた。一九五〇年代前半にはもう45回転レコードは珍しくはなかった。しかし、回転数がちがうため、放送局は機械を入れかえ、一般の消費者は、新しいプレーヤーを買わなければならなかった。

 やがて安いプレーヤーが市場に出されてからの45回転レコードの進展は、カール・ベルツによると、次のようであった。メージャー系のレコード会社が、ディスク・ジョッキーたちには45回転レコードを送ることに決めて以来、ティーンエージャーの購買力上昇とロックンロールの広がりとかさなり、45回転は78回転と完全に入れかわった。面白いのは、リズム・アンド・ブルースだ。この分野では、経済的に白人よりは低い位置にいた黒人を相手にしていたため、プレーヤーの買いかえを必要とした45回転レコードはなかなかいきわたらず、一九五〇年代の終わりちかくまで、大勢は78回転の、重くて大きいレコードだった。

 軽くて小さいレコードが当時のティーンエージャーにあたえたトータルな影響は、小さくない。気軽に買ってきて自分でプレーヤーにかけ、気に入ればよし、気に入らなければそれまでという、音楽に対する、その場その場での自由で正直で本能的で感覚的な反応をすることが可能になった。たくさん買ってきて、いろんな種類のサウンドに自分たちを次々にさらすことも、できた。ロックンロールのために軽くて小さい45回転レコードが、直接的には戦争が原因で一九五〇年代の前半に出現し、商品としてのそれはティーンたちの経済力に依存していた。

 小さくて軽いレコードは、つくるのも輸送するのも、扱うのも売るのも、また、すてるのもひどく簡単だった。丈夫だから、むき出しのまま封筒に入れて郵便で送ることすらできた。レコード業界にとっては、ヒットすれば大量にはけるけれども、総体的に動きのはげしい商品に、45回転レコードは、なった。

 45回転レコードとなったロックンロールは、アーティストがマイクの前でうたっている生の現場に比較すると、まぎれもなく複製品だった。しかし、聞く人にとっては、レコードという物体はすこしも問題ではなく、そこにきざみこまれている音、つまり、聞いた人がその音をどう受けとめたかが、唯一の重要事項だった。すぐれたロックンロールをレコードで耳にした瞬間の衝撃は、確実にオリジナルだった。オリジナルとしての複製を無数にちかくばらまいていくアメリカ文明のひとつの顔がここにあり、45回転レコードというオリジナルはラジオをとおして人の耳にとどく場合も多く、レコードは「物(もの)」であるという考え方はできなくなり、音波としてのロックンロールは、心で知覚したとたんに、肉体と精神の両方にまたがる全体験となり、ときとしてそれは宗教的な天啓にまでたかめられた。

 ラジオのDJたちは、ロックンロールのレコードをかける役と同時に、へらず口を叩く役、天気予報を告げる役、コマーシャルをおそろしく早口で読みあげる役、なんでもいいから語りかける役、意味なく叫ぶ役、ニュースを読む役、などのさまざまな役をはたした。たとえば、一九五六年八月四日、アメリカ陸軍のヘリコプターが、アメリカ大陸をワシントンDCからサンディエゴまで三七時間かかってノン・ストップで横断飛行したというニュースを聞いたあとでロックンロールを聞くと、ニュースとロックは、聞き手の心のなかでひとつに溶けあうのだ。音楽が音楽だけで心に入るということは、当時のロックンロールに関しては、まずなかった。自分が身を置いている世界の、ほとんどあらゆることが、ロックンロールと練りあわされて聞き手の心にぶつけられた。トータル・インヴォルヴメントの先がけが、ここにみられる。ラジオやレコードをとおして、ティーンエージャーは、さまざまなものからマッサージをうけた。

 レコードがオリジナルだから、歌手が生ま身であらわれる公演は、逆に複製だった。レコードは電気的な助けをかりてつくられるが、公演ではそれがない。聞く人それぞれがレコードによってつくりあげたその音のイメージに勝つためには、歌手は、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードのような、すさまじいステージ・プレゼンスを持っていなければならなかった。

 ロックンロールが社会にあたえた影響は、こうして考えてくると、音楽的なものよりもそうでないもののほうが大きかった事実が、わかるのだ。まず、ポピュラー音楽のなかで忠実に守られていた、ポップ、カントリー・アンド・ウエスタン、リズム・アンド・ブルースなどのカテゴリーが、ロックンロールによって、とり払われた。ここでは、エルヴィス・プレスリーが、大きな役割を果たした。たとえば彼は、自分の好きな歌手として、アーサー・ビッグボーイ・クラダップ、インク・スポッツ、フランク・シナトラ、そしてハンク・スノウを、あげている。彼自身、幼少のときから少年時代にかけて、いろんな音楽にさらされてきたわけで、その音楽的な体験を、いく人かの好きな歌手として逆に具体化していくと、この三人の歌手とひとつのグループになるのだ。そしてこの選択は、アメリカのポピュラー音楽の、ほぼ全域をカヴァーしている。インク・スポッツはたしかに黒人のグループだが、正確にはリズム・アンド・ブルースではないだろう。しかし、リズム・アンド・ブルース・アーティストの選択としては、ジョー・ターナー、クライド・マクファター、ファッツ・ドミノ、ウイリー・メイ・ソーントンなどよりは、白人世間一般の人に対する戦術としてはまさっている。アーサー・クラダップは、エルヴィスのヴォーカル・スタイルとショーマンシップの源流だ。初期のエルヴィスに対する、質の高いブルース・シンガーとしての評価は、アーサー・クラダップの真似にある。フランク・シナトラは、極限ちかくまで普遍化されたポップスのシンボルとしての選択だろう。そしてハンク・スノウは、エルヴィスの底に深く流れているカントリー・アンド・ウエスタンの表現だ。エルヴィスは、すべての人たちにとって非常に幸福なことに、南部での生活のなかで自然につくりあげられていった、音楽的にトータルな複合体だった。

 音楽の世界での、黒人と白人との差別も、かなりとりはらわれた。おたがいにおたがいを利用し、ともに得をするという、ちょっとした民主主義のかたちで、黒人でもスターになれる時代がきたのだ。
 音楽というインヴォルヴメントをいくつかのカテゴリーに分けることの無意味さを、プレスリーは身をもって証明している。プレスリーのシングル盤が、AB両面とも、ふたつ以上のカテゴリーにまたがってヒットするという、すでになん度も実現されてきた事実が、その証明だ。音楽的にトータルな複合体といっても、マネジャーのトム・パーカーがやらせたように、エディ・アーノルドのヒット『キャトル・コール』を、ヒューゴ・ウインターハルターのバックでエルヴィスにうたわせる、ということではないのだ。プレスリー版『キャトル・コール』は、さすがに評判はわるかった。

 すぐれたロックンロールは、ビートによって切迫感をあたえられた日常生活のリアリズムが、聞き手の心にトータルな衝撃をあたえる音楽だった。心のなかにつくりあげられるその衝撃は、聞き手の全存在にかかわりを持ってくるだけに、スピリチュアルな体験であると同時に、日常的でリアルだった。ロックは、基本的には、現実との対決だった。たとえば、夕食後の一時間をロックを聞いてすごすというような、そんな部分的なつまらないことではなかった。ロックは、生き方だった。

[この項、了]

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1960年代 1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 エルヴィス・プレスリー ビル・ヘイリー 第3章「トータルな体験と目覚め 青空文庫 音楽
2016年4月14日 05:30
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