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心が爆発する|エルヴィスから始まった

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 フロンティアが消滅すると同時に、アメリカの価値は変転しはじめた。アメリカはもはや唯一無二の希望の土地ではなくなり、世界の動きとともに、アメリカの価値もかわっていったのだ。アメリカは単独では存在できなくなり、世界の影響をうけなければならなくなった。

 第二次大戦中のアメリカは、自由諸国のうしろにひかえている巨大なる富であった。そしてその富は、ほかの国が持ちたくてもとうてい持つことのできない大量の物資を供給してくれる国でもあった。しかし、戦後のアメリカからは、単一の価値が消えていった。そして、ことなったふたつの価値が対立するようになった。資本主義と共産主義との対立であり、資本主義のほうがはるかにまさっているという証明を、アメリカは、世界の自由諸国に、身をもって示さなければいけないことになってしまった。これまでどおり進むか、それともなにか新しいものを発見していくか。アメリカンネス(アメリカ性)の、厳しい追及がはじまっていった。

 大勢は、中間を歩んだ。1945年4月12日、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトが死に、ハリー・S・トルーマンは、大統領にあがった。そして、その年の8月15日、第二次大戦は、みんな終わった。

 トルーマンは、FDRのニュー・ディールを継続することにした。ヨーロッパの戦線がなくなってすぐに動員の解除がはじまり、1946年の夏には、1400万のアメリカ兵は200万に減っていて、40年代の終りにかけて、さらにすくなくなっていった。軍事産業も、縮小されるかあるいは平時のそれに転換されなければならなかった。ニュー・ディールのあいだ、本来なら失業者になるはずの人たちは、軍事産業ですくわれていた。解除された人たちがいちどにあふれたら、アメリカは失業者でうまったことだろう。しかし、1946年雇用法が成立し、44年にできたGI憲章で除隊兵が大学に入ったために、1946年はじめには失業者の数は無視してしまってよいほどのミニマムで、好況だった。

 そのかわりに、物価の値上がりとストライキが、おこった。1953年を100とする消費者物価指数は、45年に70.2、46年には74.9、47年には84.7と、あがっていった。大戦中は価格統制局が物価を押えていたが、戦後になると、企業は物価値上げと賃金の規制、労働者たちは、賃金規制の廃止、賃上げ、低物価を要求した。軍事産業で高い賃金をとっていた労働者たちは、平時にきりかえられると、賃金がさがった。賃上げを要求するストライキがおこり、企業はこれに応じたため、生産コストがあがり、物価の上昇をまねいた。

 1946年の中間選挙ではニュー・ディール以来はじめて共和党が多数党をとり、第80議会では、トルーマンのニュー・ディールと共和党の保守政策が対立し、トルーマンのほうが押されぎみだった。47年6月のタフト=ハートレー法の成立は、共和党の保守的な態度のひとつの頂点だった。団体交渉権を制約し、クローズド・ショップを非合法にし、ストライキをおこなう前に60日間の冷却期間を設けなければいけないとするなど、労働者の権利を大きく制限するものだった。共和党の上院議員ロバート・タフトが議会に提出し、労働組合は反対、トルーマンも拒否権を行使したが、それをオーヴァーライドして、成立してしまったのだ。

 1948年の大統領選挙は、しかし、トルーマンの勝利だった。1月の就任演説で、これからの国内政策を、トルーマンは、フェア・ディールと名づけた。最低賃金法が通過し、1時間40セントが、75セントにあがった。議会は民主党が多数党だったのだが、その保守派と南部議員が共和党と力をあわせ、フェア・ディールの前に立ちふさがった。だから、タフト=ハートレー法の修正すら、できなかった。

 終戦のあくる年には、ウインストン・チャーチルのフルトン演説によって、「鉄のカーテン」という言葉が、有名になっていた。冷戦体制は次第にかたまっていき、47年、アメリカには国防省ができ、トルーマンは、連邦政府職員の「忠誠審査」をおこなうことにした。48年、平時徴兵法がしかれ、当時はカリフォルニア出身の上院議員だったリチャード・ニクソンは、アルジャー・ヒスやホイッティカー・チェインバースの共産圏スパイ容疑調査事件で重要な役を果たした。そして50年、カリフォルニアの民主党員、ヘレン・ゲヘイガン・ダグラスを、おなじく共産主義者容疑で自分の対抗者の位置から落すことに成功した。朝鮮動乱がおこされた。

 2月9日、ジョゼフ・R・マッカーシーがウエスト・ヴァージニアのホイーリングで、赤狩ヒステリアを全米的なものにするきっかけをつくった演説をおこなった。国防省内部では205名の共産主義者がいまだに重要なポストにいてアメリカのポリシー決定に参画し、そのうちのひとりはオーエン・ラティモアである、とでたらめを言ったのだ。9月には〈国内治安法(マッキャラン法)〉が成立した。共産主義団体の届出制、共産主義者の入国禁止などを認めた法律だった。

 2年あと、1952年には、アメリカは大統領選挙をむかえなければならなかった。共和党からの候補者には、パリでNATOの最高指令官をやっていたアイゼンハワー元帥が、えらばれた。民主党の候補者は、トルーマンは法的には出馬できたのだがその意志はなく、イリノイ州知事のアドレイ・スティーヴンスンに、決った。

 アイゼンハワーとスティーヴンスンとは、好対照だった。アイクは人柄と人気と朝鮮動乱の「早期にして名誉ある終結」を人々に提示し、スティーヴンスンは、知性派だった。マッカーシーの赤狩りが極端なかたちで示しえたように、アメリカの国内は、不健康に緊張していた。だから、それに対立するものとして、大統領には、アメリカに対して忠誠で、身をささげることができ、複雑でわかりにくいところのない安定した人格を持った人間が、のぞまれていた。アイクは、うってつけだった。

 一般投票で550万票、選挙人団投票では353票の差をスティーヴンスンにつけて、アイクは、ランドスライドをおこなった。

 アイクの政策は、中庸だった。個人的には、自分が軍隊で成功したのと同じように、大企業のなかで経営技術者として成功している人たちが、アイクは好きだった。チャールズ・E・ウイルスン、ジョージ・ハンフリー、シンクレア・ウイークス、ジョン・フォスター・ダレスなどが入閣し、アイクの組閣は「10人の億万長者とひとりの配管工」と呼ばれた。10人の億万長者とは、ジェネラル・モーターズのチャールズ・E・ウイルスンや企業弁護士のジョン・フォスター・ダレスなどのことで、ひとりの配管工とは、配管工ユニオンのリーダー層からえらばれた労働相のことだ。この組閣は、大統領と民間企業との結びつき、というかたちで一般に理解され、企業優位、テクノロジー優先という結論を生むのだった。

 1954年5月17日、公立学校での人種差別は違憲である、という判決が、最高裁判所の全判事の一致によってなされた。最低賃金は1ドル20セントまでなった。物価は、上昇しつづけた。56年、アイクは、四年前よりもさらに大きな地すべりで、再選された。57年9月にはリトル・ロックの暴動がおこり、次の月には、ソヴィエトのスプトニクⅠが打ち上げられた。景気が後退し、生産が落ち、失業者がふえた。農業が打撃をうけた。生産物はあまるほどなのだが、農業人口は減り、農産物の市場価格は、高かった。58年1月、アメリカの人工衛星が打ち上げられ、国防予算が拡大され政府からの支出が増えたので、景気はまたもとにもどりはじめた。アイクの人気は、次第に落ちていった。60年の選挙では再出馬できないのだから、アイクは誰かにとってかわらねばならなかったのだ。

 アイクの8年間は、とりあえず繁栄の時だった。年間の経済成長率は2.4パーセントにすぎなかったけれど、統計上の数字のほとんどが、上昇を示していた。GNPは、1949年が2500億ドルだったが、55年には3970億ドルにのぼった。人口は1億7000万人を突破し、アメリカはマス・マーケットになった。黒人、農村、老人、低所得者たちが、豊かな中産階級の影に、とりのこされていった。人口の配置もかわった。カリフォルニアでのミサイル・軍需産業のため、人口が西に移動し、カリフォルニア州が西海岸の中心となり、人口は、ニューヨークについで第二位になった。

 マス・マーケット内での大量生産機構と、コミュニズムとの対抗が生んだ、アメリカへの忠誠は、大勢への順応を、人々に強制したのだ。大勢としてのアメリカに対立するような価値は、非アメリカ的なものとして、しりぞけられていた。女子学生の寮に男子学生が押しかけ、パンティをうばってよろこぶ「パンティ・レイド」に熱中していた学生たちは、当然のようにリースマンの他人志向説、ガルブレイスの豊かな社会、ミルズのホワイトカラー、パワーエリートなどの意味するところをとりちがえて、地位を求める歯車となっていた。たとえば、ソコニー・ヴァキュアム・オイル・カンパニーが大学の就職係りに30万部も配った就職ガイダンス本に書かれていた「個人的な見解を語ると、いろいろと面倒なことになります。保守的な意見をのべるにこしたことはありません。なにごとにせよ、主義、と名のつくものは時代の主流ではありませんし、よくないことなのです」というような考え方に彼らは順応したし、チャールズ・E・ウイルスンの失言である「ジェネラル・モーターズの利益はアメリカの利益」をもぼんやりと信じていたのだ。彼らにとって、いい就職さきをみつけられないことは、こわいことだった。この、こわいことをさけるためには、人間としての尊厳を犠牲にしなければならなかった。

 非アメリカ活動調査委員会は、1958年まで、盛大な活躍をつづけた。共産党は、54年に法律で禁止され、50年代の終りには、メンバーは1万人になってしまった。委員会は、人種差別に対抗する黒人たちの活動をもとりしまろうとしたのだが、これは、はたせなかった。動いていく時代の重みが、黒人たちに味方していた。1955年12月、アラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークスという黒人女性が、バスの後部座席(黒人の席)にすわることを拒否し、これをきっかけにモンゴメリーでは10か月にわたる黒人によるバスのボイコットが成功し、座席差別はおこなわれないことになった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、表面に出ていった。

 白人たちのあいだで、他人志向は忠実に守られた。他人たちは、冷たくて注意深かった。危いと思われるようなことはなにもしないでいるのが最も得策だった。クールで傍観的でシニカルで、コミットしないでいることが、精神構造まで含めた生活態度のうえでの、通俗的な流行だった。

 日本ではジラードが執行猶予の刑をうけていた。1957年10月のスプトニクⅠは、アメリカを刺激した。アメリカの教育程度は低いのではないか、という疑問が広くおこり、特に中学校教育が矢面に立たされた。ソヴィエトの若者たちは必要以上に肥ることさえ許されていない、という厳しい教育のうわさが、アメリカ人たちをびっくりさせた。あくる年には、アメリカの人工衛星が成功した。成果としてはすばらしいのだが、技術者集団のチームワークによるものであることがわかっていて、それは人間の原点への回帰とはほど遠いところにあったので、景気を前進させる役は果たしても、新しい意識のシンボルには、アポロによる月面歩行にいたっても、なりえてはいないのだ。

「アメリカは物質主義に狂っている。警察国家アメリカ、性の感情も魂もないアメリカは、誤った権利の偶像を擁護しようとして、世界を相手に戦おうとしている。ウオルト・ホイットマンの同志たちの、あの粗野で美しいアメリカではない」(1957年、アレン・ギンズバーグ)

 ジャック・ケルーアクの『オン・ザ・ロード』は、出版される五、六年まえに完成していたのだが、世のなかに出たのは、1957年だったということだ。当時のスクェアなベストセラー、『積極的なものの考え方』などに対立する本として、『オン・ザ・ロード』やアレン・ギンズバーグの『ハウル』を、とらえることができる。

 アメリカのなかでなにが失われつつあるのかを、ビート・ジェネレーションは、知っていた。アメリカに対するビート・ジェネレーションによる批判は、まずたいへんに個人的な次元からはじまった。アメリカ社会が持っている偽善とか品性の下劣さをひとりひとりが認識し、そのようなアメリカと正面から対立する人間としての価値をみつけ、それにもとづいて行動することが、ビートとしての第一の基本だった。しかし、ビートの行動は、結局、社会的な広がりを持たなかった。アメリカのどこがいけないのかはよくわかっていながら、そのいけない部分を改革しようとするための、方向のみつかった怒りの推進力が、ビートの世代には欠けていた、怒りや反抗をそのままのかたちで社会にぶつけても、どうにもならなかったし、ビートは悪い意味でのアメリカンネスからできるだけ自分を遠ざけることに専念したので、ビートの考え方は具体的なプロテストへのインスピレーションにはなりえず、したがってビートは非政治的だった。

 ビートは、アメリカから、離れた。抵抗するよりも当時としては離れていったほうが、より強力なプロテストの手段だった。アメリカが強要してくるいっさいの制約からはなれ、ヒゲを自由にはやすのが、ビートとしての精神的な勇気だった。ヒゲは、はやすものというよりも、剃りととのえる必要のないものだった。ビート・ジェネレーションとは、アメリカから離れていく必要を自分のために感じた若者のことなのだ。

 ビート・ジェネレーションがすてたものこそ、じつはビートの敵になるべきだった。無視された敵は無事でなにごともなく、スクェアなアメリカは、ビートのエゴセントリックな精神世界とは無関係だった。

 文学的なことをはなれたビートが、あとにくる時代のために、なにを示しただろうか。

 精神的な自己に内向すると同時に、ビートは、意識してヒップスタになろうとこころみた。ときとしてこのヒップスタは、スクェアなアメリカよりもさらに非知性的な聖なる野蛮人だったが、ヒップに生きようとするこころみは、ビートの世代へ個別にしかし広くいきわたったのだ。ヒップスタになることは、アメリカン・ウエイ・オヴ・ライフの主流から、意識してはずれることだった。アメリカン・ウエイ・オヴ・ライフ以外の生き方をさがす知的な冒険者が、ヒップスタだった。60年代のヒッピーは、この冒険者が世のなかに立ちむかいはじめたときの姿なのだ。ビートは、文学でも風俗でもなく、ものの考え方であり、それはそのまま、ひとつの生き方を構成していた。

 ヒップスタは、日常の生活者ではなく、精神主義者だった。60年代の終りちかくになって、blowing the mind(心を爆発させる)という言葉がヒッピーの旗印になるのだが、これのプロトタイプを、ビートのたとえばジョン・クレロン・ホルムズのなかに、みつけ出すことができる。彼は、『ザ・ホーン』や『GO』などの著作を持ち、アレン・ギンズバーグを「意識をひろげてくれる人」と呼んでいる。1952年、ジャック・ケルーアクはこれまでのさだめられたかたちを越えて、どこまでもワイルドなものとして知力や精神が広がっていく事実を「私の心は爆発している」という言葉をつかって、ホルムズあての手紙のなかで説明している。理論的な説明はできないのだがすべてのことを書きとめたいという衝動におそわれる、と彼は語っていて、これは60年代のボブ・ディランの「ボクのなかでいろんなことが同時におこっている」の、予告だった。「いろんなことが同時におこる」は、ひとつひとつ順番に、一本の線のようなかたちで、これまでどおりにおこってくる世界との、鋭い対立だ。水平思考というかたちでこれの一部分が日本で流行したのは、1960年代も終りちかくなってからであり、しかも、雇人としてのテクノクラートの地位をより固定させるためのひとつの道具としてであった。1952年に、すでに「心が爆発する」と言っていたジャック・ケルーアクは、やはりおどろきに価する。

「心の爆発」を人工的につくる手段として、60年代のLSDのさきがけは、50年代のマリワナだった。人間の精神的知力にどれだけの幅、自由、許容性などがあるかを、無理やりにしかも自分の心のなかに見るために、マリワナが用いられた。マリワナは、幻想体験や人工的で一時的な狂気のためにつかわれたのではなく、もっとしたたかに覚めた状態で冷静に用いられた。60年代のLSDもおなじことで、幻覚は、心の爆発とは表裏ではあっても関係はない。マリワナやLSDを幻覚の側からとらえるのは、心が爆発することを知らない人たちの、基本的でひどく恥しらずなまちがいなのだ。疎外された自分の実存を再び社会のなかに持ちこむとき、どうしても必要なのは、自分の心がなにに対してどこまで目覚められるかという自信なのだ。ビートにとっての英雄は黒人のジャズマンであり、彼らの信念や生命力を自分の現実にあてはめてヒップスタとなるホワイト・ニグロに、マリワナはやはり必要だった。マリワナは、肉体のなかの幻覚ではなく、官能のなかの冒険だった。

 ヒップとして生きるか、スクェアのまま死ぬか。ヒップになるほうをとったビートの若者の心は、はじめからアメリカの主流とは切りはなされてしか存在しなかった黒人に、最も近かった。しかしジャズは、やはり悲劇だった。たとえばチャーリー・パーカーでは、創造する人間の内面での苦しみを表現する手段が彼のジャズであり、インスピレーションやその場での天啓に頼りきる方法でもたしかにパーカーのジャズとなって外にあらわれたし、鈴木大拙が書いたように、実存を内面からつかむことにもなりえたのだが、個人的な感性の強烈な表現は、エルヴィス・プレスリーのロックンロールがそうだったように、ロマンティックではありえても、政治的にはなり得なかった。

 ビートは、文学的には、詩を生んだ。アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダー、ローレンス・ファリンゲティ、ローレンス・リプトン、テュリ・カプファバーグ、マイケル・マクルーアなど、みな、生きのこっている。彼らは、しかし、詩を文学としてつくったのではなかった。目覚めた人間の心を伝える最もすぐれた方法として詩をみつけ、メッセージとしての詩を書いたのだ。グレゴリ・コルソによると「私たちの世代のなかでの意識の変化を、私たちは表現しようとしていた。なにが人間としての尊厳でなにがそうではないかを、詩であらわそうとしていた。詩人として、私たちはまず革命をおこした。詩を、大学から切りはなしてひっぱり出し、道路にさらしたのだ。あらゆるものを用いて、私たちは詩をつくった」ということなのだ。

 Blowing the mind(心の爆発)にDo your own thing(自分が人間としてやらなければならないことをやれ)を加えた60年代後半のヒッピーは、ついに政治に目覚めていた。生き方としてのヒップが10年を経過すると、こうなるのだ。そしてこの10年のあいだ、大統領になることだけしか考えていなかったリチャード・ニクソンは、スクェアでありつづけた人間のリヴァイヴァルの代表として、なにものにも目覚めずにいる。ソ連が攻めてくる、とメルヴィン・レアードに言わせてカンボディアに進攻し、アポロで国家や技術を優先させ、長いスカートの復活を、よろこんでいる。50年代前半で赤狩りを利用したのとまったくおなじように60年代後半で法と秩序を利用し、大統領になっている。いまになってもまだ目覚めることを知らないこの人は驚きに価する。

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1960年代 1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 アメリカ ビート 戦争 戦後 青空文庫
2015年10月19日 14:32
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