アイキャッチ画像

エルヴィス・プレスリーの物語|エルヴィスから始まった(完)

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

エルヴィス・プレスリーの物語

 エルヴィスは前の年にいわゆるカムバックを遂げていた。それはTVでアメリカ全体に放映された。十二月三日、NBCで、夜の八時、地域によっては、九時。シンガーという会社が提供していたTVスペシャルのシリーズのうちの、ひとつだった。日本でも放映された。僕はそれを東京で見た。

 TVに出演するのは十年ぶりに近いという、彼のこのカムバックは、さまざまな話題となった。かつてのロックンロールにイギリスからのビートルズが加わり、それに対抗してアメリカの草の根から次のロック音楽とそれを取り巻く思考や生活のスタイルというものが、当時のアメリカにはすでに生まれていた。

 忘れられた、と言っていい状態にあったエルヴィスは、たとえばいわゆる対抗文化のメディアのひとつである、アンダグラウンド新聞や雑誌などの、まともな批評や論評の対象にもなっていった。それまでエルヴィスは本当に忘れられていた。アメリカでレコード店に入ると、大量にならんでいるレコードの名前別のファイリングのなかに、エルヴィス・プレスリーというファイルはないことが多かった。ゴスペルのところを見ると、そのなかには彼のゴスペルのアルバムがあった。

 一九六九年の十月のある日の午後、僕はリトル・トーキョーの食堂で、『ロサンジェルス・フリー・プレス』という新聞を読んでいた。アンダグラウンド新聞とかヒッピー・ペーパーズなどと呼ばれ、当時のアメリカの各地で盛んに発行されていた、活字とグラフィックスによる媒体だ。かなりページ数のあるその新聞の、十月十日号をそのときの僕は手に持っていた。『ミシシッピー州テュペロ。エルヴィスが最初に歌った場所』というタイトルの記事を、僕は読んでいた。

 斜め前のテーブルにすわった、年老いた白人の女性が、砂糖をたくさん入れたコーヒーを、スプーンですくっては飲んでいた。スプーンを持った彼女の手は常に大きく震えていた。コーヒーをすくおうとするたびに、彼女の持ったスプーンはマグの縁に何度もかちかちと当たっていた。すんなりとマグに入らないほどに、彼女の手は震えていたからだ。すくったコーヒーは、だから、彼女のしわの塊のような唇に届くときには、あらかたテーブルにこぼれ落ちていた。

 カムバックしたエルヴィスは再び注目を集めた。そのときの彼の発揮し得る音楽的なあるいは社会的な意味について論じる記事から、彼が歌い始めた一九五〇年代なかばのアメリカについて論評する記事まで、数多くの関連記事を僕はヒッピー・ペーパーズで読んだ。

 十月十日に僕が読んだその記事は、なかなか面白いものだった。書いた人の名はジェリー・ホプキンズとなっていた。彼はのちに『エルヴィス』というタイトルで伝記を書いた。そのための資料集めや取材の過程で彼が手に入れたものは、ジェリー・ホプキンズ・コレクションとして、確かハワイ大学に保管されているはずだ。

 彼が書いたその記事には、彼自身の撮影による写真が三点、添えてあった。エルヴィスが生まれた家と、それに隣接しているエルヴィス・プレスリー・センターの写真。おなじくテュペロにあるエルヴィス・プレスリー公園の看板。そしてメンフィスのグレースランドの写真。

 メンフィスへは飛行機でいった。テュペロまで下る78号線は、最初にいったときは往復ともヒッチハイクだった。そうかい、じゃあ乗せていってあげるよ、というアメリカが、まだあの頃は残っていた。ステート・ハイウエイ78の、メンフィスからテュペロまでの間は、エルヴィス・プレスリーにデディケートされている。

 彼が生まれた家を僕は見た。きれいに手直しされ、内部もおそらく現実とはまったくちがった様子で、整えてあった。公園の片隅のような場所にとりあえず置いた、という様子でその小さな木造の家は建っていた。いまではその周囲はもっと小奇麗に整えてある。ファースト・アセンブリー・オヴ・ゴッド教会を僕は見た。引っ越しを何度か繰り返したプレスリー一家が、そのつど住んだ場所を、町の人が教えてくれた。

 ミシシッピー・アラバマ・フェアグラウンズはゲートが開いていた。僕はなかに入ってみた。おそらく五〇年代からのものだろうと僕が思った観客席があった。僕はそこにすわってみた。そしてステージの方向に視線を向けた瞬間には、タイム・スリップを経験しないわけにはいかなかった。一九五六年九月二十六日への、タイム・スリップだ。

 当時すでにワン・パフォーマンスで二万ドルというスターになっていたエルヴィスは、地元のフェアへの出演を請われて一万ドルで快諾し、ステージに立った。この一万ドルを彼はテュペロに寄付し、それはエルヴィス・プレスリー公園の資金となった。このときの彼の歌いぶりは、レコードで聞くことが出来る。フィルムも断片的に残っている。次の年にも彼は同じフェアに出演した。

 十年以上前、一九四五年五月三日にも、エルヴィスはこのフェアグラウンズのステージで歌を歌った。子供たちのタレント・コンテストに参加した彼は『オールド・シェップ』を歌い、二位になって五ドルの賞金を手にした。一位になって二十五ドルの賞金をもらった、シャーリー・ジョーンズ・ギャレンティーンという女性の所在をつきとめ、当日の様子を聞いたならそれはそれだけで物語になる、とタイム・スリップを抜け出ながら、僕は思った。

 メンフィスから何度か通ったテュペロで、少なくともそのときの僕にとってもっとも圧倒的に物語だったのは、ウエスト・メイン・ストリートに昔とほとんど変わることなく、そしておそらくはいまもそのままあるはずの、テュペロ・ハードウエア・カンパニーだった。角にあるこの店で、十一歳のエルヴィスは、最初のギターを母親から買ってもらった。彼は自転車を欲しがったとか、自転車ではなくそれは銃だったなどと、さまざまな説がある。どの説も物語のなかではみな正しい、と僕は思う。だからその最初のギターの値段は七ドル七十五セントだったという説も、完璧に正しい。

 この店のなかでも、僕はタイム・スリップのなかに見事に落ちた。店の内部は時代を超越している。タイム・スリップはただでさえ起きやすい。母親といっしょに店へ来たエルヴィスは、ギターはいらないと言ってだだをこねたという。僕がタイム・スリップすると、だだをこねているエルヴィスがカウンターの前にいた。叱っている母親が彼の隣に立っていた。ギターを持ってドアを出ていく彼が見えた。僕も外へ出てドアを見ていると、ドアを開いて少年エルヴィスが出て来た。角に立って店を見ていると、ギターを持った少年が母親とともに店から出て来て、歩き去っていった。

 スターになってからのエルヴィスは、何度もテュペロを訪ねたという。このエピソードをひとつひとつ拾い集めて記述していくなら、その集積はそのまま物語になる、などと僕はメンフィスでひとり過ごした何日かの間、思っていた。

 テュペロとおなじく、メンフィスにも物語はたくさんあった。テュペロからメンフィスに引っ越して来た一家が、最初に住んだ建物が残っていた。煉瓦造りの、もとはたいへんな邸宅だったのだが、内部を簡単に仕切ったアパートメントのようになって久しい頃、一家はここに移り住んだ。その次に住んだ場所も、建物は残っていた。出来たばかりのときにこの建物をいまの日本の人が見たなら、結構なマンションではないか、と思うだろう。185という番号のある入口に入ってすぐ右側の部屋が、プレスリー一家が住んだ部屋だ。

 ヒュームズ・ハイスクールもそのままあった。一九五三年の四月、学校の行事に参加した高校生のエルヴィスは、学校内のホールのステージで歌を歌った。ゴスペル、賛美歌、スピリチュアルなどと一般には呼ばれている種類の歌だ。拍手によって一位をきめると、エルヴィスが一位だった。一位の人にはアンコールに応えるという特権があたえられた。このアンコールで、『思い出のワルツ』と日本では呼ばれた歌を、エルヴィスは歌った。テリーサ・ブリューワーの影響ありありでもよければ、僕もこの歌を歌うことが出来る。中学生の頃に覚えた。

 エルヴィスがゴスペルに親しみ、その若い身にしみ込ませたエリス・オーディトリアムもそのまま建っていた。黒人のゴスペル集会に高校生のエルヴィスはいつも来ていた。彼の好みのひとつであった、いわゆる派手な服装の出発点は、ここで見た黒人説教師たちの服装にある。

 彼が高校生だった頃にその全身で受けとめていた音楽は、どちらかと言えばプアな白人に広く支持されていた音楽と、明らかにプアな黒人たちの音楽との、両方だった。そのふたとおりの音楽は、おたがいに厳しく区分けされていて、白人にしろ黒人にしろ、ふたつをまたぐことは社会的に許されてはいなかった。エルヴィスは身をもってそのふたつをまたいだ。

 ポプラー・テューンズというミュージック・ショップにも、僕は何度も通った。エリス・オーディトリアムとおなじく、ここもエルヴィスの住んでいたところの近くにあった。高校生のエルヴィスがレコードを買った店だ。壁にエルヴィスの珍しい写真がたくさん貼ってあった。写真、特にスナップ写真は、どれもみなストーリーそのものだ。撮られた瞬間がストーリーであると同時に、その瞬間の前後に向けて、さらにストーリーはつらなり広がっていく。

 ここで僕もレコードや楽譜を買った。いまも僕はそれらを持っている。ヒル・アンド・レンジ・ソングズから発行された、『エルヴィス・プレスリー・アルバム・オヴ・ジュークボックス・フェイヴァリッツ』の第一巻が素晴らしい。値段のタッグが残っている。一ドル九十五セントだ。

 それから、メンフィス・レコーディング・スタジオと、サン・レコード。一九五三年の夏、エルヴィスはこのレコーディング・サーヴィスにあらわれ、四ドルを支払い、直径十インチのアセテート盤に二曲、スタジオで歌って録音してもらい、それを持って帰った。次の年の一月、エルヴィスは再びあらわれ、おなじアセテート盤に二曲を録音し、持って帰った。最初のときに対応したマリオン・カイスカーという女性の気持ちのなかにエルヴィスという青年とその歌が残ったことが、エルヴィス・プレスリーという才能が発見されるに至る、直接のきっかけとなった。

 サン・レコードで彼が最初にプロとして録音したレコードが、地元のDJ、デューイー・フィリップスによって番組のなかでかかったとき、おそらく不安と興奮で居場所の定まらない気持ちとなったのだろう、エルヴィスは映画館に逃げ込んだと、伝説は伝えている。その映画館のことを、地元の人が僕に教えてくれた。

 一九五三年、そして一九五四年、リード・ギター奏者のスコティ・ムーアとベース奏者のビル・ブラック、そしてエルヴィス・プレスリーの三人は、ブルームーン・ボーイズと称して、南部一帯でワン・ナイト・スタンドの仕事をたくさんこなしていた。一九五四年九月、エアウェイズ・ショッピング・センターの開店の余興に、ブルームーン・ボーイズはトラックの荷台をステージにして、出演した。そのショッピング・センターで昼食をとっていたとき、隣の席にすわった男性が、その話をしてくれた。センターの中心は、営業開始当時は、カッツという名のドラッグ・ストアだったという。その建物も残っていた。

 オーヴァトン・パーク・シェルも、タイム・スリップを体験する場所として、充分に幻惑的だった。一九五四年の七月、この野外音楽堂に出演したエルヴィスは、出たばかりのレコードの二曲、『ザッツ・オールライト・ママ』と『ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー』を歌った。そのときのヘッドライナーは、スリム・ホイットマン、ビリー・ウオーカー、そしてルーヴィン・ブラザーズなどだったと人から聞かされ、僕はポプラー・テューンズへいき彼らのレコードを買った。

 八月にもう一度、エルヴィスはここに出演した。このときは『オールド・シェップ』と『心のうずくとき』の二曲を彼は歌った。これは午後の部であり、二曲とも静かなバラッドだったから、受けはあまり良くなかった。夜の部で彼は『グッド・ロッキン・トゥナイト』と『ザッツ・オールライト、ママ』を歌った。観客の反応は熱狂的であり、ヘッドライナーのウェッブ・ピアースは、前座でこれだけ盛り上がったあとに出ていくのは嫌だと言い、ステージには出ないままであったと、確かな伝説は語り伝えている。

 エルヴィス・プレスリー・ブールヴァードに面して、グレースランドから数ブロックのところに、ザ・グリディロンという名の、食堂とレストランの中間のような店がある。ここにエルヴィスはよく食べに来たという。この店のカウンターの席で昼食を食べていたとき、僕の右隣のストゥールにすわったのは、話好きの人の善さそうな、南部の男だった。中年を越えてその先にある期間へと入っていきつつある年齢だった。僕の右隣にすわるやいなや、彼は僕と十年来のつきあいのような雰囲気になってしまった。

 遠来の僕がエルヴィス・プレスリーに興味を持っていることを知った彼は、自分のエルヴィス物語を語ってくれた。一九五六年の夏、汽車でニューヨークからテネシーへ帰って来たエルヴィスは、メンフィスの駅までいくよりもここで降りたほうが近いからと、汽車の速度を最徐行にまで落としてもらい、ひとりでなにも荷物を持たず、汽車から線路に降りたのだと、その男は語った。線路から道路へ出て、エルヴィスはオーデュボン公園のなかの道をまっすぐに下り、パーク・アヴェニューという道路に出た。このアヴェニューは、そのあたり一帯では、東西に直線でのびている。このパーク・アヴェニューを越えると、大学の南キャンパスだ。そのすぐ東側に、当時のエルヴィスが家族とともに住んでいた家のあった、オーデュボン・ドライヴという道がある。

 オーデュボン・ドライヴを車で走っていたその男性は、歩道をひとりで歩いていくひとりの青年を前方に見た。

 「うしろ姿からして、普通の人とはまったくちがうんだよ。ありゃいったい誰だ、と思いながら走っていって、追い越しながら良く見て、追い越してから車を右に寄せて振り返ってなおも見たら、案の定、その青年は普通の人じゃなかったよ、エルヴィス・プレスリーその人さ。乗せていってあげようか、と俺が言ったら、歩きたい気分なので歩いていきます、もうすぐそこですから、どうもありがとう、とエルヴィスは答えたよ。ニューヨークから帰って来たエルヴィスは、汽車を途中で止め、汽車を降り、歩いて家まで帰ったんだよ。お袋さんは驚いたね、きっと。車を発進させた俺は、歩いているエルヴィスをミラーのなかに見続けたよ。ちがってたね。人としての全体の雰囲気がさ。まるでちがうんだよ。まさにエルヴィスだったよ」

 彼にそのような物語があるのなら、僕もエルヴィスの物語を書こう、と僕は思った。エルヴィスの物語は、少年期から最初のレコードをへて、地元のスターになっていくあたりまでが、もっとも面白く魅力に満ちている。エルヴィスから始まった物語を、僕はそこから書き始めた。

 片岡義男

➡︎次週は『エルヴィスから始まった』(角川文庫版)あとがき

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

rb_elvis_cover

blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 アメリカ 青空文庫
2016年12月8日 05:30
サポータ募集中