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ELVIS IS BACK|エルヴィスから始まった

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10 ELVIS IS BACK

 提供はミシン会社のシンガーだった。一九六九年一二月三日、夜の八時(イースタン・スタンダード・タイムでは九時)、NBCテレビで『エルヴィス』というカラー番組が放映された。ニールセンのレーティングによると、七〇・二パーセントという視聴率だったという。一時間にわたって、エルヴィス・プレスリーがうたうのを見た人たちにとっての唯一の救いは、エルヴィスがひところのように肥ってはいないということだけだった。

 一九七〇年になるとすぐに、エルヴィスはラスヴェガスに登場した。客の前に生身をさらすのはじつに九年ぶりだった。一月二六日から二月二三日まで、インタナショナル・ホテルに出演したエルヴィス・プレスリーは、「エルヴィス・イズ・バック」(エルヴィスは帰ってきた)という合言葉を生んだ。ショウの料金は決して安くないのだがすべて売りきれで、ロックンロールの王様は健在であることをすべての人たちに示してみせた、といわれた。

 それほど健在ではなかった。ステージに出たエルヴィスそのものはほとんどかわっていないのだが、音楽は面白くなかった。バックのバンドもコーラスも、ただメカニカルにプロフェッショナルなだけで、スコティ・ムーア、ビル・ブラック、D・J・フォンタナという、名前のひびきからして一九五〇年代なかばの南部の夏を思いおこさせずにはおかないミュージシャンたちとは、やはり九年のひらきが確実にあった。

 言葉なんかどうでもいいとするなら、インタナショナル・ホテルでのエルヴィス・プレスリーには、面白いところがすこしだけあった。「なん本も映画をつくっているあいだに、ボクは沈殿してしまった」と、エルヴィスはまず告白していた。

 エド・サリヴァンのテレビ・ショウに出演したとき、サリヴァンが自分の上半身だけしか映させなかったことに対する自嘲的なしかもひどく皮肉なジョークを、エルヴィスは語った。

 「スターになってから、サングラスをかけていい気になってキャデラックをとばしていたら、リスをひき殺しかけた」というジョークもあった。

 これらのジョークは、すべて、エルヴィスがいかに大きなスターであるかを、寛容なファンの笑いによって彼ら自身の心に再確認させるために計算して書かれたシナリオの一部にすぎず、大根役者にもかかわらずエルヴィスは効果をあげ、ファンは、彼を許した。ステージちかくにいた女性たちは、ナプキンをステージにほうりあげた。エルヴィスはそれをひろいあげ、汗だくのワキの下をふいたり、ときには鼻をかんで、彼女たちに投げかえした。彼女たちは、そのナプキンを、よろこんでうばいあった。ラスヴェガスまで出かけてくることのできないおなじような彼女たちのためには、エルヴィス・プレスリーがはじめて手に入れたピンクのキャデラックが、見世物としていまでも全米を巡回している。彼女たちは、ティシュー・ペーパーやハンカチでそのキャデラックのホコリをぬぐい、大切にいつまでもとっておくのだ。エルヴィスの「カムバック」以来発売されたなん枚かのシングルやLPは、キャデラックのホコリのついたハンカチほどにはすばらしくなく、ろくなものではない。かつての『ハウンド・ドッグ』のような曲をつくる人が、もういなくなってしまったのではないだろうか。

 エルヴィスの故郷、ミシシッピー州のテュペロ市は、『テュペロ案内』というバカみたいな標題をつけた、市内のガイド・パンフレットを発行している。テュペロの地図と名所紹介がのっていて、二五個所ある「名所」のうちの二四までが、教会なのだ、そして二五番目が、エルヴィスの生家である小屋と、エルヴィス・プレスリー公園およびユース・センターだ。レコード店に入ると、エルヴィスのLPは「男性ヴォーカル」のなかに混入されている。彼のゴスペルのLPはほんとによく売れるが、そのほかは、息ながくしかしポツリポツリと売れていく程度だという。エルヴィス・プレスリーの絵ハガキさえ、テュペロにはない、と、ジェリー・ホプキンズは書いている。実際にいってみたら、そのとおりだった。

 テネシー州のメンフィスにひっこしてからの少年時代のエルヴィス・プレスリーは、ミシシッピー河をすぐちかくに持つと同時に、「良きアメリカ少年」として匿名性を持って、一九四〇年代の終りから五〇年代にかけて、下層中産階級のハウジング・プロジェクト住居のなかに埋っていたのだ。

 少年時代のエルヴィスについては、いくつかの真剣な取材がなされたのだが、ほとんどなにも得るところはなかった。ようするにエルヴィスは、誰にでも好かれる、熱意と親切さと誠意とを持った好ましいアメリカ少年であった、というのだ。しかし、これは表面的なものであり、すくなくとも少年時代のエルヴィスは、なにか満たされない部分をかなり大きく心のなかに持った少年であったにはちがいなく、満たされないものがなにであるかは、もちろんエルヴィスにだってわからなかった。

 メンフィスにひっこしたのは一九四八年だ。エルヴィスは一三歳だった。黒人ブルースとカントリー・アンド・ウエスタンの影響は生まれたときから浴びているとして、メンフィスに移ってからは、リズム・アンド・ブルースの洗礼を幼なくして受けとめた数すくないアメリカ白人のうちのひとりに、エルヴィスはなったはずだ。一九四八年には、ファッツ・ドミノの『でぶ』が、ヒットしている。だから、すくなくともその二、三年前から、黒人のリズム・アンド・ブルースが白人の耳に入りつつあったことはたしかだ。そして一九五〇年代に入るとすぐに、白人アーティストによるリズム・アンド・ブルース曲のカヴァーが大きなレコード会社によってつくられていたのだ。

 一歳にもならないときから教会へいっていた南部生まれで南部育ちの白人少年が、一九五〇年代のはじめに一三、四歳でリズム・アンド・ブルースを聞き、政府提供の貧乏人用のハウジング・プロジェクトに住んでいたという歴史的な事実は、なにごとかを生まなければ生まないほうがおかしい。

 エルヴィスが母親に似ているのは、いいことだった。父親は、好人物ながら無能小心そうな男で、口が歌をうたうには適していない。たとえば音楽をきっかけにしたひとつの生命力への衝動、というようなものとはあまり縁のなさそうな顔をし、かつてのエルヴィスがそうだったように、とりあわせの非常にわるい服をまとい、はじめの妻にくらべるとどうしようもなくひどい女と再婚している。

 エルヴィスの母親思いが真実だとするならば、彼が多くのものを母親からひきついでいる生理的事実からくる本能的な反応にちかい母親孝行であったにちがいない。父親は、サイレント・マジョリティのカリカチュアのひとつみたいな顔をしているが、母親のグラディスはひとめで移民であることがわかる顔立ちであり、なにごとかに対する動物的に鋭い不満を常に持っているような口をしていた。だから、自分の誕生日に息子がつくってきてくれたレコードで『ザッツ・オール・ライト、ママ』を聞いたとき、自分とおなじ不満を息子もやはり持っていることを知り、その意味で彼女はうれしく思ったはずだ。サン・レコードで商品になった『ザッツ・オール・ライト、ママ』とのあいだには歌唱力の点でかなりのひらきがあるだろうけれど、あの曲をあのようにすさまじくミシシッピー河的にうたえる男が、世の中に満足しているはずがないのだ。

 サン・レコードでレコードをつくった動機について、エルヴィスは、インタナショナル・ホテルのステージで次のように語った。

 「あの日レコード会社にいき、レコードをつくったのだ」

 マディ・ウォーターズの紹介でチャック・ベリーがはじめてチェス・レコードに出むいたとき、部屋に入ってきたベリーを見たときのことを、チェスの社長、レナード・チェスは、

 「ドアを入ってきたベリーは、ひとつの美しさであった」
と、回想していた。

 おなじ美しさが、エルヴィス・プレスリーにあったはずだ。そしてその美しさはどこからくるかというと、いま自分はここでどうしても歌をうたわなくてはいけない、音楽をつくらなくてはいけないのだ、という緊迫した衝動を、自分のなかだけではなく、自分をとりまいている時代のなかにまで持っていた事実からくるのだ。

 当時、メイジャー系のレコード会社は、黒人ブルースやリズム・アンド・ブルースには手を出さなかった。黒人ミュージックに対する偏見を、一般白人大衆を代表するかたちで彼らはまだ持ちつづけていたし、音楽についてはなにもほんとのことはわからず興味もない人たちがただ商売としてポピュラー・ソングのレコードをつくっていたからでもあった。

 小さな独立レコード会社の人たちは、真実の一部に気づいていた。黒人音楽が白人、特に十代の若い白人たちに好かれうる要素を持っている、という真実だ。サヴォイ、キング、ジュビリー、スペシャルティ、フェデラルなどの小さなレコード会社が、黒人ブルースマンの音楽のマーケットを白人にまで広げようと努力していた。黒人が白人マーケットに黒人音楽を送りこもうとすると同時に、白人の側からも、おなじことがこころみられていた。そのひとりが、サン・レコードのサム・フィリップスだった。

 サム・フィリップスには資金がなかった。そのカネのない男のところにやってきたエルヴィス・プレスリーは、幸せだった。ギター、ベース、ドラムという、ごく基本的なバックアップ・サウンドしか、あたえてもらえなかったからだ。この幸運は、ナッシュヴィル・サウンドふうな音にストリングをからませたバックを要求しつづけてついに得られなかったジョニー・キャッシュにもあてはまる。

 四万ドルのはしたガネでエルヴィス・プレスリーをヴィクターに売りわたしてしまったところからみると、サム・フィリップスには、黒人ミュージックに対する真の理解も興味もなかったようだ。おかしなものが売れるものだ、という程度の認識しかなかったのではないのか。

 一九五〇年代に入るかなり前から、黒人のリズム・アンド・ブルースは、白人の若者に知られていた。黒人だけのためのリズム・アンド・ブルースのコンサートに、よく白人の若者がやってきた。はじめのうち白人と黒人とはロープで仕切られ、白人たちのほうが動きがすくなく、狂気にとりつかれたように踊る黒人たちをながめ、体の動かし方や踊り方を、覚えていた。やがてロープはとりはらわれ、白人と黒人とがいっしょになって踊るようになった。

 ラジオには、大きなレコード会社のレコードだけがとりあげられた。マイナー・レーベルの黒人サウンドは、黒人であるからよりも、マイナーを押しのける大企業のエゴによって、排斥されていた。ペリー・コモ、エディ・フィッシャー、パティ・ペイジ、テリーサ・ブリューワーなどのようなどうでもいいアーティストが、相かわらずティン・パン・アレーの歌をうたうか、あるいは、黒人曲のカヴァーをやっていた。そして、このカヴァーが黒人オリジナルといかにかけはなれているかを若い白人大衆がいっせいに知りはじめた期間が、エルヴィス・プレスリーがもっともすぐれていた期間とほぼ一致するのだ。エルヴィス自身、カヴァーであった。たとえば『ハウンド・ドッグ』は、ウイリー・メイ・ソーントンの曲なのだ。しかし、作曲したのは、ジェリー・リーバーにマイク・ストラーという、二人の白人だった。

 一三歳から二〇歳くらいまでの白人にとって、自分たちと同化できる音楽は、ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーが出てくるまでは、正式には存在しなかった。彼らの音楽的な本能は満たされることなく、空白だった。エルヴィス・プレスリーを、「ロックンロールの王様」にしたのは、彼自身の魅力でも能力でもなく、じつはこの空白であった。そしてインタナショナル・ホテルでの彼を許したのは、かつてはこの空白のなかに身を置きながら、アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ(アメリカ的理想の生活)に追われているうちに、あの貴重な空白がいつのまにかなくなってしまった人たちだったのだ。

 当時は、一六歳にならなければ、タバコも喫えず自動車も運転できなかった。一二、一三、一四、一五歳の少年たちは、子供でもなければ大人でもない中途はんぱな欲求不満の状態に置かれっぱなしだった。一九五六年はエルヴィス・プレスリーとリトル・リチャードの年であると共に、『いとしのシンディ』がヒットした年でもある。『いとしのシンディ』も『ハウンド・ドッグ』も、共に七九セントだ。『ハウンド・ドッグ』のほうがえらばれるのはあたりまえだ。

 ロックンロールは、それを商品としてつくり出す大人たちにとって、はじめのうちはノヴェルティに近かった。たとえば、チャック・ベリーの『バカらしいことが多すぎる』という曲の詞は、こうだ。

 「ガソリン・スタンドで働いている。やることがいっぱいある。それ、車の窓をふく、タイアを調べる、オイルをはかる。ああ、いやだ。まるでバカらしい。こんなことにオレはまきこまれたくない」

 それまでのポピュラー・ソングにくらべると、たしかにノヴェルティとしか思えなかっただろう。チャック・ベリー自身にとっても、ロックンロールは、カネになるノヴェルティだった。一九五五年、セントルイスのブルースマンだったベリーは、はじめてチェス・レコードのレナード・チェスに会いにいったとき、『夜ずっとおそく』というブルース曲と『メイベリーン』というロックンロール曲とをテープに入れて持っていった。ベリーとしてはブルースをレコードにしたく、『夜ずっとおそく』のほうに誇りを持っていたのだが、レナード・チェスがはじめにとりあげたのは、カントリー曲の冗談的な書きなおしで、タイトルはヘアクリームの名をとってつけた『メイベリーン』のほうだった。

 チャック・ベリーもエルヴィス・プレスリーも、成功するとすぐにキャデラックを買った。キャデラックを買うまではスターではない、という不文律みたいなものが、黒人ミュージックのコミュニティでは、いまでも通用している。

 エルヴィス・プレスリーをスターにしようとはかったのはマネジャー、トム・パーカーの商業策であり、彼をうけとめた若い大衆にとっては、エルヴィスは、英雄などではなかった。音楽上の英雄などというものは、音によるコミュニケーションの不在の証明以外のなにものでもない。

 一九五六年、マサチューセッツ州ガードナーのDJが、自分の番組で『ミステリー・ヴォイス・コンテスト』をおこなった。歌手を言わずにレコードをかけ、その歌手名を聴取者にあてさせるのだ。エルヴィスの『冷たくしないで』も、そのなかの一枚に加えられた。誰にでも正解できるようにとの配慮からえらばれた、もっともポピュラーなレコードだった。しかし、回答者の四五パーセントが、エルヴィス・プレスリーの名をあげることができなかった。ジーン・ヴィンセントとまちがえたのがもっとも多く、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、クライド・マクファター、ビル・ヘイリー、ジョー・ターナーなどの名が、あげてあった。正しくプレスリーとこたえた人たちも、若い人ほど彼の名のスペリングをまちがえ、二十代にちかづくにしたがって正しくなっていた。大切なのは音のほうであり、エルヴィス・プレスリーそのものではなかった。

 エルヴィス・プレスリーとは、いったいなにだったのか。エルドリッジ・クリーヴァーは『氷の上の魂』で、心をこめて次のように書いた。
「こうしてエルヴィス・プレスリーが出現した――薄気味わるいギターをかきならし、アメリカ大陸じゅう腰をふって道を踏みしだいて進むごとに名声と幸運をひったくって我がものとし、後年のジョニー・アプルシードのように、アメリカの白人青年の心のなかに新しいリズムとスタイルの種を蒔いてあるいた。この青年たちの内なる渇きと必要は、パット・ブーンのなんの生命力も認めることのできない白い靴や彼のさらに白い歌によってはもはや満足させることができなかったのだ。〈おまえはなにをやってもいいけれど〉とエルヴィスはパット・ブーンの純白の靴にうたって聞かせた。〈オレの青いスエードの靴だけは踏みつけるなよ〉」(武藤一羊・訳より)

 エルヴィス・プレスリーを肯定するためのクリーヴァーの思想的な拠点は、おなじ本で次のようにのべられている。

 「〈階級社会〉は、断片化した性的イメージを投影する。それぞれの階級は、社会における自らの階級機能と一致した性的イメージを反映する。そして、この階級機能は他の階級のものと異なるので、その性的イメージも、同じ程度に異なるだろう。〈階級社会〉における自我の分裂の源泉は、人間の〈こころ〉の機能と〈からだ〉の機能との離間にある。思考者としての人間は、社会において〈行政機能〉をはたし、行為者としての人間は〈獣力的機能〉をはたす。このふたつの基本的機能が社会で機能している生きた人間に具体化されるとき、わたしはこれを〈全能の行政者〉と〈超男的下僕〉としてシンボル化する」

 エルヴィス・プレスリーは〈からだ〉のほうであった。そしてその〈からだ〉は、〈こころ〉をうばい去られている事実に対する不満を知っていた。〈からだ〉はつまり生命力であり、エロスであり踏みつけてはいけない、とうたわれたブルー・スエード・シューズは、生命力のシンボルだったのだ。

 アメリカという階級社会が、クリーヴァーの言うように人間のなかで〈からだ〉と〈こころ〉をひきはなしておこうとはかりつづけるのであれば、〈からだ〉と〈こころ〉とがひとつになることは、その階級社会にとって最大の威嚇であるはずだ。威嚇力に対する弾圧のようなものはすでにはじまっている。プレスリーの腰の動きが性的であるからけしからん、というような生やさしいものではなく、たとえば、シカゴの一九六八年民主党大会を「死」と見て、それに対して「生命力」からの訴えかけをおこなった「シカゴ・エイト」(トム・ヘイドン、ジェリー・ルービン、アビー・ホフマン、ボビー・シール、デイヴ・ディリンジャー、リー・ウエイナー、ジョン・フロインズ)に対する裁判による弾圧は、ひどく硬化したファシズムなのだ。ジェリー・ルービンは、非アメリカ活動調査委員会に呼びだされたとき、サンタクロースのいでたちで出頭した。

 「アメリカはすでにサンタクロースまでやり玉にあげはじめたということをみんなに知らせたかったからだ」

 と、ルービンは語った。この柔軟な、冗談のような生命力に対して、アメリカがおこなったことはなにかというと、サンタクロース姿のルービンをうつした写真すべての没収だった。

 ロックは革命だ、というかけ声は、巨大なファシズム機構を相手にするとき、ひどくうつろだ。ジェリー・ルービンの「大人になるな!」のかけ声のほうが、まだ有効であるようだ。ロックンロール産業は、アーティストにとってもまた一般消費者にとっても、資本主義下での詐欺的利益追求行為の典型となることができる。ロックをだしにつかう、あらゆる商業行為が有効に可能となるのだ。アメリカでおこなわれた数々の天才的な実例は、悪智恵をつけるだけだから、あげずにおこう。せっかく買ったレコードにがっかりすることでもあるのだから。

 かけ声というものは、それによって得する人が必ずどこかにいると考えてまちがいではない。

 「エルヴィス・プレスリーを大統領に!」というかけ声で得するのは誰か。

 フィル・オックスが、次のように言っていた。

 「いまのティーンエージャーが心を開ききって投票にいったら、誰が大統領になるか、見当もつかない」

 もっとも可能性のある人間として、フィル・オックスはプレスリーをあげていた。そして当のエルヴィス・プレスリーは、グレースランドの大邸宅にあるプールのまわりを、ひとりモーターサイクルで、あきずになんども走りまわってヒマな時間をつぶしている。彼にはなん重にも巨額の保険がかけてあるため、道と名のつくところでモーターサイクルに乗ることはできない契約になっているからだ。この契約に違反すれば、エルヴィス・プレスリーは保険会社から訴えられる。

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった|気になるタイトルを選んでみてください。

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1969年 1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 アメリカ エルヴィス・プレスリー リズム・アンド・ブルース ロックンロール
2016年12月1日 05:30
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