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ミシシッピー州東テュペロ(2)|エルヴィスから始まった

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 一年近くあとになって、サムはエルヴィスに電話をかけた。歌手としてレコードをつくってみないか、というのだ。

 プラクティスがはじまった。リード・ギターにスコティ・ムーア、ベースにビル・ブラックがつき、数週間にわたってリハーサルがおこなわれた。経過は、あまりかんばしくなかった。サムは、エルヴィスにポップなバラッドをうたわせようとしていた。

 ある日、プラクティスの途中でひと休みしているとき、エルヴィスは、
「ぼくはこういうのがいいのだが」
 と、『ザッツ・オールライト、ママ』をうたいはじめた。聞いていたサムは、やはりこの青年にはこれだ、とその場で結論をだし、B面には『ケンタッキーの青い月』を入れ、45回転シングル盤を一枚、つくった(サン209)。エルヴィスは、サン・レコードの専属歌手、という契約になった。

 レコードは、一九五四年の夏に、かぎられた地域で発売された。はじめにこのレコードをとりあげたDJは、メンフィスの放送局WHBQのデューイー・フィリップスだった。三時間にわたる彼のレコード番組でエルヴィスの歌が紹介された夜、エルヴィスはひとりで映画をみにいってしまった。みんなの笑いものになるのを、彼はおそれたのだ。

「さっきのレコードをもういちどかけろ」
 というリクエストを、フィリップスは、電話で四七回、電報で一四回、うけとった。三時間の番組のなかで、フィリップスは『ザッツ・オールライト、ママ』を七回もかけることになった。次の週、そのレコードはメンフィスで七〇〇〇枚、売れた。

 〈ザ・ヒルビリー・キャット〉と愛称をつけられたエルヴィス・プレスリーは、ボブ・ニールのマネジメントのもとに、カントリー・アンド・ウエスタンのショウに加わり、巡業公演に出た。ハンク・スノウやジョニー・キャッシュといっしょになることもあった。

 テクサカーナのディスク・ジョッキー、アンクル・ダドレイからエルヴィスの人気を聞かされたトム・パーカーという男が、エルヴィスのマネジャーになった。かつてはエディ・アーノルドのマネージをしていたこともある男で、興行の世界で厳しい体験をつんだすぐれたマネジャーだった。

 一年たたないうちにエルヴィスは自分のジャンボリーを持ち、シュレヴポートのKWKH局の有名な番組『ルイジアナ・ヘイライド』の常連になった。ロイ・エイカフのショウに加わって北部をまわり、一九五四年七月にはメンフィスのオヴァトン・パーク・シェルでスリム・ホイットマンやビリー・ウォーカー、ルーヴィン・ブラザーズたちとともに、二〇〇〇名の観客の前に出た。

 カントリー・アンド・ウエスタンのさかんな地域だけに限られていたのだが、エルヴィスの人気は急速にたかまった。一九五五年の夏には、業界の人たちやDJの口づてで、エルヴィスのレコードは南部をはなれてニューヨークやクリーヴランドでも放送された。反応は、すばらしかった。

 テネシー州ナッシュヴィルでは、カントリー・アンド・ウエスタンのDJたちの大会が毎年おこなわれる。これによばれたとき、エルヴィスはヴィクターのスティーヴ・ショールスの興味をひいた。トム・パーカーの売りこみとうまくかさなりあい、サン・レコードでつくったマスター・テープとともに、エルヴィスの専属料は三万五〇〇〇ドルでヴィクターに買いとられ、エルヴィスはヴィクターの歌手になった。ヴィクターは彼に五〇〇〇ドルのボーナスをあたえ、彼はこれでさっそくはじめてのキャデラックを買った。ピンクのキャデラックだった。

 サン・レコードがプレスしたエルヴィスのレコードは、一九五五年いっぱい販売できることになっていた。ヴィクターは、サンから買ったマスターをもとに、五枚のシングルをつくりなおし、五枚を同時に発売した。あらたなレコーディングもはじまり、『アイ・ガット・ア・ウーマン』がヴィクターでの最初の吹きこみになった。つづく『ハートブレイク・ホテル』は、はじめて出演したテレビで紹介されることになった。一九五六年一月二八日、土曜の夜のジャッキー・グリースンの『ステージ・ショウ』だった。

 ドーシー・ブラザーズのショウに六回の出演をすませたころには『ハートブレイク・ホテル』は、ポップの分野で一位、カントリー・アンド・ウエスタンでは三位、リズム・アンド・ブルースでは五位のポジションにあった。

 ハリウッドでスクリーン・テストをうけ、ミルトン・バールやスティーブ・アレンのテレビ・ショウの出演がつづいた。エド・サリヴァンのショウには、三万五〇〇〇ドルの出演料で登場した。

 スクリーン・テストは成功し、パラマウントと一年一本の七年間契約を結び、第一作は二〇世紀フォックスのためにつくられ、当時のエルヴィスのヒット『ラヴ・ミー・テンダー』をタイトルにし、おしまいに彼がこの歌をうたう部分をくっつけて、一九五六年一一月一五日、ニューヨークのパラマウント劇場で封切られた。タイムズ・スクェアをみおろすビルの壁にはギターをかかえたエルヴィスの巨大なカットアウトが飾られ、それにかぶせられていたカヴァーは、盛大なおまつりさわぎとともに、封切りの日にとりはらわれた。第二作の『さまよう青春』は五七年の六月に、三作目の『監獄ロック』は、一一月に、それぞれ封切られた。

 五六年の秋、テネシー州で〈反エルヴィス・プレスリー・クラブ〉がつくられた。いつどこのラジオ局でもプレスリーのレコードが放送されている、なんとか彼を追いはらってくれ、と五〇名ほどのメンバーがDJたちに嘆願書を送ったのだが、DJたちから逆につぶされてしまった。

 〈エルヴィス・プレスリー〉の名を冠したさまざまな商品がつくられはじめた。『ハウンド・ドッグ』にひっかけた犬のぬいぐるみ、『テディ・ベア』の熊、帽子、Tシャツ、ジーンズ、ハンカチ、口紅(ハウンド・ドッグ・オレンジ、ハートブレイク・レッド、など)、手ぶくろ、セーター、スニーカー、ブラウス、ネックレス、ブレスレット、便箋、本立て、グリーティング・カードなどの年間売りあげが、五六年には二〇〇〇万ドルにまでなった。暗いところに置いておくと二時間だけ光りつづけているシカケのプレスリー・ポートレート、というようなものまでつくられた。

 彼のレコードのタイトルをつづりあわせたファン・レターが、一〇万ドルで買ったグレースランドの自宅によくとどいた。

 Dear Big Hunk of Love,
 I want you, I need you, I love you. All shook up over you so Don’t be cruel Just because … Treat me nice I beg of you, Let me be your teddy bear. Don’t let this be a one-sided love affair. There’d just be one broken heart for sale. Loving you.

 ボストンのDJは、エルヴィスの肉体的なトレード・マークのひとつである長いもみあげから、七本の髪を手に入れてきた。

「欲しい理由として、もっともバカげた理由をあげた七人の人たちに進呈しよう」
 とラジオでしゃべったら、それから一週間のあいだに、一万八四〇〇人の人が応募してきた。

 プレスリーの自宅の芝生はファンによってひき抜かれ、小さなビンに入れてフォルマリンづけにし、いまでも持っている人がいる。

 彼のキャデラックにちかづくことのできた女のこは、ブラウスを脱いでキャデラックをふき、ブラウスについたホコリごと大切に保管した。

 「エルヴィスが好き」「エルヴィスは嫌い」と印刷したふたつのボタンが、同じ会社でつくられ、どちらもよく売れた。

 いっしょに写真をとった女のこが、
 「私はプレスリーに強姦された」
 と狂言をでっちあげて裁判にもちこみ、示談で五〇〇〇ドルをせしめた。

 やはり一九五六年、エルヴィスは、故郷のテュペロで、コンサートを二回おこなった。一度は、子供のときタレント・コンテストに出たアラバマ・ミシシッピー・フェアだった。三万の人たちが、彼をみにやってきた。テュペロの商店のすべてが、エルヴィス・プレスリーをテーマにした飾りつけをウインドーにこしらえ、パレードがおこなわれた。あくる年ふたたび彼はテュペロにでかけ、そのコンサートであげた二万五〇〇〇ドルの収益を市長のジェームス・F・バラッドに託した。この資金で、エルヴィスの生家のちかくに、ユース・センターとエルヴィス・プレスリー公園がつくられた。

 シンシナティでは、プレスリーのレコードに熱狂しておなじものをなん枚も買いこむ妻を、夫が射殺したりしていた。

 一九五八年一月一五日、エルヴィスは、アメリカ陸軍から徴兵命令をうけとった。四作目の映画『闇に響く声』にすでにとりかかっていて、ここで軍隊に入るとパラマウントその他にめいわくがかかるから、という理由で入隊をのばしてもらい、三月二四日、アーカンソーのフォート・チャックスに出頭した。そして、テキサス州のフォート・フードで基礎訓練をうけはじめた。このフォート・フードにいたとき、エルヴィスの母親が死んだ。

 死因は、肝臓障害による心臓マヒ。四二歳だった。葬儀はメンフィスで一般公開のかたちでおこなわれた。ジェイムス・E・ハミル牧師がおいのりをあげ、ブラックウッド・ブラザーズ・カルテットが『主よ、我が手をみちびきたまえ』をうたった。いよいよおわかれのときは、エルヴィスは母の棺にもたれて気絶寸前だった。あくる日、母親にわかれをつげるエルヴィスの言葉が新聞にでかでかと報道され、彼自身はカゼをひいて寝こんでしまった。

 エルヴィスの母親思いは有名で、彼の母の死をテーマにして歌がつくられた。デイヴ・マックェナリイに作詞されたその歌は、次のような内容だった。

 「輝くみ空に、今夜、またひとり、天使がつくられた。その天使は、我らのロックンロール・キングの母親だ。いま陸軍で兵隊をやっている自分の息子を、母親は天から見守っている。なつかしい数々の思い出を胸に」

 その年の九月二二日、エルヴィスはドイツにあるアメリカ陸軍基地に駐留することになり、ニューヨークのブルックリンから船出した。このとき、『ムーヴィランド・アンド・TVタイム』の編集長ジェームズ・グレゴリとのあいだにおこなわれた一問一答は、『エルヴィスの船出』という一枚のシングル盤にまとめられて発売された。

 アメリカ陸軍兵士としてのエルヴィス・プレスリーは立派だったという。ベーシック・トレーニングのときすでにアシスタント・スクォッド・リーダーとなり、カービン銃ではマークスマン、ピストルではシャープ・シューター、そして戦車の銃砲操作はエキスパート、という評価だった。

 軍籍番号は53310761。西ドイツ、フリードバーグの第三機甲師団に配属され、ジープやトラックの運転手をつとめた。すぐに一等兵になり、五九年のはじめには、四級特技兵に昇進した。これは大佐の位にあたり、給料は月に一二二ドルだった。一週間に一万通前後のファン・レターが、基地にとどいた。

 一九六〇年三月二四日、エルヴィス・プレスリーはアメリカ陸軍から名誉除隊をとげ、基地から歩いて出てくる現場の写真撮影権をマネジャーのトム・パーカーは、『ライフ』に三〇〇〇ドルで売ろうとして断られた。

[この項、了]

→第2章「心が爆発する」(2016年10月19日公開)につづく

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角川文庫版・初版(1974年)[装幀:石岡瑛子]

(『エルヴィスから始まった』1994年/『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年)改題 *青空文庫のテキストを用いて作成しました)

今日の一冊|romancer-books04|『エルヴィスから始まった』

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blog170102|エルヴィスから始まった|ロマンサー文庫04|公開]2016年4月より木曜に掲載してきた『エルヴィスから始まった』(『ぼくはプレスリーが大好き』改題)を電子書籍として無償公開しました。

エルヴィスから始まった

第1章|ミシシッピー州東テュペロ


第2章|心が爆発する


第2章|トータルな体験と目覚め|
   1|ロックンロールは「生き方」だ
   2|ティーンエイジ・アメリカ
   3|いつラジオの音量をあげたか?


第4章|カントリー・ミュージック|
   1|アパラチアのストラデヴァリアス
   2|エレクトリック・ギター
   3|真実としての日常生活
   4|バーミンガムに歩いて帰る
   5|ヒット
   6|マーティン・フラットトップ・テイクオフ


第5章|ブルース|
   1|ブラック・アメリカン
   2|ミスター・ブルース
   3|ブルースマン
   4|アメリカの革命
   5|白人にブルースがうたえるか?


第6章|ロックン・ロールとカウボーイ・ブーツ


第7章|なぜアメリカに「NO!」というのか?


第8章|1960-1970 アメリカ
   1|「いろんなことが同時におこる」ボブ・ディラン
   2|歌になにができたか?
   3|ビートルズはつまらない
   4|単純なものと複雑なもの
   5|ロバート・ジンママン
   6|ヒッピー・ムーヴメント
   7|LSDとマリワナの迷信
   8|FUCK NOW!
   9|フィルモア
  10|ウッドストック
  11|「頭にエサをやれ」(ジェファスン・エアプレーン『ホワイト・ラビット』)
  12|LOVE


第9章|ミシシッピー河により近く


第10章|ELVIS IS BACK


エルヴィス・プレスリーの物語


角川文庫版・あとがき


1971年 1994年 『ぼくはプレスリーが大好き』 『エルヴィスから始まった』 アメリカ エルヴィス・プレスリー 改題 第1章「ミシシッピー州東テュペロ」 青空文庫 音楽
2016年4月7日 05:30
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