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カーメン・キャヴァレロ(2)

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 カーメン・キャヴァレロのLPが日本で初めて発売されたのは、映画『愛情物語』が公開される以前、つまり一九五六年より前のことではないはずだ、と僕は推測している。『愛情物語』のサウンド・トラック・アルバムの、国内におけるおそらく最初の版のLPを、いま僕は見ている。ジャケットのデザインは明らかにこの時代のアメリカふうだから、アメリカでも初版はこのジャケットで発売されたのではないか。裏面には日本語による解説文がある。デューチンがこの世を去ってから五年の歳月がたちましたが、という文章がその解説文のなかにある。デューチンが死去したのは一九五一年だった。そこから五年は一九五六年だから、映画の公開と前後してサウンド・トラックのLPが日本で発売されたのだ。

 次に日本で発売されたLPは、『フランツ・リスト・ストーリー』だったのではないか。ダーク・ボガードとキャプシーヌが主演してフランツ・リストの生涯を描いた、日本での題名を『わが恋は終わりぬ』という映画に、おそらくは便乗して作られたLPだろう。アメリカで発売されたのとおなじ内容そしておなじジャケットのLPを僕は手に入れた。日本語のライナーを読むと、『愛情物語』が公開されたあとの発売であったことがわかる。一九五六年あるいは五七年のことだ。定価は千五百円だった。

 日本題を『カーメン・キャヴァレロ 魅惑の演奏』という、八曲を収録した千八百円のLPは、アメリカで発売された『カーメン・キャヴァレロ・プレイズ・ヒズ・ショー・ストッパーズ』と、おなじ内容そしておなじジャケットだ。『フランツ・リスト・ストーリー』に続いて、このLPもジャック・プリーズというデッカのディレクターが手がけた。ジャック・プリーズという人は、一九四六年にはベニー・グッドマンのバンドでピアノと編曲を担当し、のちには自身のバンドを率いたこともある、たいへんに才能のある人だった。

 一九六二年、昭和三十七年、カーメン・キャヴァレロは日本で初めての演奏会をおこなった。十一月三日、東京の産経ホールでのコンサートからそれは始まり、彼は二十日間ほど日本に滞在した。このとき彼が得た、圧倒的な熱意に支えられた絶大な好評への反応として、日本人に長く親しまれてきた歌曲を編曲して録音することを、キャヴァレロは思い立った。

 その結果として生まれたのが、まずアメリカで発売された『チェリー・ブロッサム・タイム』というLPだ。これはなぜかアメリカでたいへん好評で、よく売れた。一九五〇年代の後半から一九六〇年代のなかばにかけて、パリ、ロンドン、ローマ、南太平洋、そして日本あるいは東京が、アメリカの大衆商品としていわゆる売れ筋であった時期が、確実に存在した。このことは映画においてもっとも顕著だった。日本でロケーション撮影された映画が、たて続けに製作された。

 この『チェリー・ブロッサム・タイム』をもとに、曲を変更したり加えたりし、タイトルを『日本の詩情』とした国内盤のLPは、LPとしては異例のベスト・セラーとなった。このことの延長線上の出来事であったとおぼしき、『世界の詩情』という国内盤のLPを、僕は中古レコード店の五百円均一の箱のなかに見つけた。一九六四年、昭和三十九年の初めに、発売されたようだ。英語のタイトルはポエトリー・オヴ・ザ・ワールドとなっている。ちなみに『日本の詩情』は、ポエトリー・イン・ジャパンという英語だ。

 初来日のあと、おそらく次の年、一九六三年、余韻さめやらぬという状況のところへ、『日本のカーメン・キャヴァレロ』というLPが発売された。日本でのコンサートに司会者として同行した、志摩夕起夫という人がライナーを書いている。京都では祇園でしゃぶしゃぶを食べ、舞妓の踊りを「目を輝かせて鑑賞」し、三味線を自分でも弾いてみたりして、キャヴァレロはすべてを楽しんだそうだ。東京のパレス・ホテルでもコンサートがおこなわれ、ここ以外の場所では、キャヴァレロの強い希望により、ピアノはスタインウェイでとおしたこと、彼が尊敬していたピアニストはジョージ・シアリングであったことなどが、このライナーを読むとわかる。

『日本のカーメン・キャヴァレロ』というLPでは、「ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ」と「ザ・セカンド・タイム・アラウンド」が、たいへん好ましい。前者は朝鮮戦争を背景にした『零号作戦』という映画の主題歌で、作曲したのはヴィクター・ヤングだった。ロバート・ミッチャムとアン・ブライスが主演した。日本のお座敷で差し向かいの夕食という場面で、アン・ブライスが「支那の夜」という歌をふと口ずさんだ。英語の詞だった。そして後者は、日本での題名を『ママは二挺拳銃』といった映画の主題歌だ。

 このLPのジャケットに使用されている写真は、キャヴァレロが日本に来たときにホテルの部屋で撮影された、素人のスナップのような写真だ。デスクに向かって椅子にすわっているキャヴァレロを、デスクのこちら側の正面から撮っている。彼は右手にパイプを持っている。彼が右手にパイプを持っている写真は、国内盤のジャケットでしばしば見ることが出来る。

 左手に彼は楽譜を持っている。日本でたいそうポピュラーな歌曲を集めたごく簡単な譜面集から、左右のページを別々にコピーしたかあるいはちぎったものを、まんなかでセロテープでつないだものだ。やや不器用に貼られたセロテープの様子が、はっきりとわかる。譜面のタイトルがこちらを向いている。そしてそれは「椰子の実」と読めるではないか。

 ごく普通に推測すると、この写真は一九六二年の初来日のときに撮影されたものだ。そのときすでに、『日本の詩情』の企画は進行していたのだろうか。いちばん始まりの部分がすでに進行していた可能性は充分にあり得る。自分に対する日本での熱意あふれる反応に刺激されたキャヴァレロが、日本で広く人々に親しまれている歌曲のレコーディングを思いついて楽譜を所望し、行動をともにしていたレコード会社の担当者が、とり急ぎ簡単な楽譜を用意した、というような。とにかく、その簡単な楽譜を手にして、カーメン・キャヴァレロは日本のホテルの一室で、写真に収まった。

 このジャケットの写真はさらに観察することが出来る。キャヴァレロから見てデスクの右端に電気スタンドが置いてある。その台の部分から黒い電気コードが、テーブルの縁を越えフロアに向けて下がっている。その状態がそのままに写し撮られている。スタンドの位置をほんの少し変えるだけで、無様な電気コードは隠れたはずなのに。

 この電気スタンド、それが置いてあるデスク、デスクの縁から垂れている電気コードなどの、なんと貧相なことか。しかしこの時代には、この程度で最高にお洒落だった。プリント合板のこのデスクの感触を、写真をとおして僕は体感的に思い出すことが出来る。当時の僕の仕事机が、まさにこの材質とこの感触のものだったからだ。

 一九六四年の十一月にキャヴァレロは二度目の日本へ来た。このときの記念盤として、彼が来る前に、『わがこころの詩情』というLPが発売された。『日本の詩情』の明らかな続編で、「朧月夜」「ふるさと」「赤とんぼ」といった十二曲で構成されていた。『日本の詩情』がたいへんに売れたから今回も詩情にかぎる、という判断だったのだろう。

 僕が手に入れた『わがこころの詩情』のLPには、ジャケットにかけたたすきが健在だった。和紙の雰囲気を模した白い紙の縦いっぱいに、さほどうまいとも思えない毛筆の字で、「わがこころの詩情」とある。そしてその右脇では、「郷愁呼ぶ!」と、キャッチフレーズが叫んでいる。ジャケットは見開きだ。当時としてはかなり気合を入れた仕様だったのではないか。たすきをはずしてジャケットを開くと、一枚のカラー写真による日本の農村風景が、見開かれて目の前にある。その光景は、少なくとも僕にとっては、なにも郷愁を呼ばない。日本ではないアジアのどこか、という印象すら持つ。

 茅ぶき屋根の農家が何軒かある光景だ。撮影された当時すでに、もはや使用されていない、廃屋同然のものだったのではないか、と僕は推測する。写真画面の左側、つまりジャケットを閉じたときにはいちばん裏にあたる面には、二階建ての農家がある。窓のほとんどをふさいでいるのは、トタン板のかたちを模した、ごく淡く青い色のプラスティックの板だ。ひと頃いたるところで見かけた。ついでに、『わがこころの詩情』の英訳は、ポエトリー・イン・マイ・ハートとなっている。

 ライナーを書いた小川正雄という人は、赤坂にあった花馬車というナイトクラブでキャヴァレロの演奏を聴いたことをめぐって、デッカの技術者たちの録音の巧みさについて書いている。花馬車で直接に聴いたキャヴァレロのピアノの音は、デッカのLPで聴いていた音とまったくおなじであった、と小川さんは言う。ピアノの音を録音するのは難しい。その難しさをデッカは見事に克服していたようだ。デッカの録音のうまさの一例として、『エメラルド・ルームのアーヴィング・フィールズ・トリオ』というLPを、小川さんはあげている。うれしいことに、このLPを僕はずっと以前から持っている。

『日本の詩情』が十二曲。『わがこころの詩情』にも十二曲。発表されていないものも含めて、キャヴァレロによって録音された日本の唱歌や昔の歌謡曲は、何曲あったのだろう。このうち、『チェリー・ブロッサム・タイム』に収録された十三曲以外は、曲名がデッカのカタログに掲載されてはいても、正式な番号は獲得していないという。

『わがこころの詩情』に続いて、おそらく一九六五年に、『キャヴァレロ・ア・ラ・モード』というLPが日本で発売された。再来日の興奮と余韻の冷めやらぬうちに、ア・ラ・モードをどうぞ一枚、というわけだ。ア・ラ・モードとはなにだったか。「キャヴァレロの出世作、大ヒット曲を、既発売のアルバムから選りすぐったもの」だった。

 エルネスト・レクオーナの名曲「オールウエイズ・イン・マイ・ハート」や、一九三〇年にルシエンヌ・ボワイエが歌ってディスク大賞を獲得した「バルレ・ムア・ダムール」は、たいへんいい。「煙が目にしみる」「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」「さらばローマ」などが、そのあとを追う。「ショパンのポロネーズ」や「ワルソー協奏曲」も入っている。この二曲はキャヴァレロの人気の土台を作ったものだが、僕は好きになれない。キャヴァレロは基本的に独奏者だと僕は思う。自分ひとりだけですべて間に合う、という種類の天才だ。ベースとブラシのドラムスが控え目につき添うだけの、スイング・ピアノと言い切ることの出来ない広がりを持った、軽快で流麗、そして極限まで楽天的なピアノが、LPで聴くキャヴァレロの核心だ。

(3)につづく[全3回]

(『音楽を聴く2 映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』第3部「この都電はジン・ボ・チョへ行きますか」2001年所収)


1960年代 2001年 「この都電はジン・ボ・チョへ行きますか」 『音楽を聴く2ー映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』 カーメン・キャヴァレロ レコード 音楽
2016年2月29日 05:30
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