アイキャッチ画像

物語を買いまくる時代

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 ふと気がつくと、いまの日本の世のなかには能書きがあふれている。さまざまな物に能書きがついている。能書きは物語と言いかえてもいい。あるいは、もっと広く、情報と言ってもいい。たとえばレストランに入ると、どうでもいいような料理のひとつひとつに、そしておなじくどうでもいいようなワインの一本一本に、イメージをこってりと付加する目的の能書きがつけてある。どうでもいいようなものほど、能書きをまといつけている。そしてその能書きは、陳腐さをきわめている。まともな情報の伝達力などとても望めない、安っぽく薄っぺらな物語だ。

 どうでもいいようなものとは、別な言いかたをするなら、大衆的なものだ。大衆的なものほど、いまの日本では、能書きつまりイメージとしての物語を、したがえている。そのような物語の上にさまざまな物が乗せてあり、その両方を人々はおかねを出して買っている。

 物語の主役は、お金を出してそれを買う人たちのひとりひとりだ。いまここでお金を出し、これを買ったりこれをしたり、あるいはここへいったりすると、限度いっぱいあなたは楽しむことが出来ますし、そのようにして楽しまなくてはいけないのですよ、という物語がすでに完璧に世のなかに普及している。あなたは出来るだけ楽しまなければいけないというテーマが際限なくくりかえされる物語。これほどに強力な能書きを、僕はほかに知らない。

 世のなかには物があふれかえっている、これはまさに物の時代だ、というわかりやすい意見があるけれど、僕はいまの世のなかは能書きないしは物語の時代だと思う。強力な物語がひとつありさえすれば、人々に際限なくいくらでも物を欲しがらせることが出来るのだから。

 限度いっぱいにすべてのことを楽しむ権利があなたにはある、という物語をあたえられ、そのとおりだと思ったそのあなたという人は、自分が信じた物語をひとつずつ現実のものとしていくために、次から次へさまざまな物を買わなくてはならない。いったんはじまった消費は、こうしてとどまるところを知らなくなる。

 人はもともと物語に弱い。あなたにはなにごとも目いっぱいに楽しむ権利がある、などという物語の主人公にされてしまったら、もうどうにもならない。楽しむべきだ、という物語は、すでに社会的な制度のひとつになってしまったと言っていい。

 どこをさがしてもまったく根拠のない、まるででたらめな、安っぽい贋物の物語が、これこそ本当の世界なのですよと、今日も人々を折伏している。そして、自分の信じた物語を現実のものにするために、人々は物を買い続ける。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年


1991年 『アール・グレイから始まる日』 ストーリー
2016年3月24日 05:30
サポータ募集中