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ベティがあんなに走ってる!

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 映画雑誌に記事を書くという約束のもとに、『マイ・ライフ』を試写室で観た。とてもよくできた面白い映画だった。さあ、その約束の記事を書こう。

 「見てごらん、彼女があんなに走ってるよ」というような意味の原題が、『マイ・ライフ』という、英語としても通用しうる日本語の題名になっている。しかもこの映画の内容やテーマをわずか二語で表現しえていて、ここがまず面白い。アメリカ映画の日本語題名のつけ方も、ずいぶん変化したものだ。

 この『マイ・ライフ』にかぎらないが、アクション映画でもなければディザスター映画でも恐怖映画でもない、したがってこれといって特別なしかけを持たないアメリカ映画を観て、いまぼくが書きたいと思うことの第一は、登場人物たちがじつによく喋る、ということだ。

 画面の右側に日本語のスーパー・インポーズが出るのだが、この日本語の量と比較すると、登場人物たちの喋っている言葉の量は、ぼくの実感では、五倍から六倍の量になる。スーパーは可能なかぎりすくない言葉数におさえることがほとんど常に要求されるから、このきわめて簡潔で要領を得た日本語の量と登場人物たちが喋っている英語のセリフの量とをくらべてもあまり意味はないかもしれない。しかし、それでもなお、ぼくがまず書きたいのは、彼らはじつによく喋るということだ。

 ぼくたち普通の日本人がこういった映画を日本語字幕を頼りに日本で観る場合、英語の音声は音楽や効果音といっしょにサウンドとしてうけながし、主として字幕だけでセリフの意味やストーリーの展開をつかんでいくのであるから、登場人物のそれぞれがいかに多弁であるかには切実な実感として気づかない場合が多いのではないのか、ということも書いておきたい。ぼくは字幕を見ないが、たまにふと見た字幕のあまりの簡潔さに逆にびっくりすることが多い。

 主要な登場人物の誰もがそれぞれに多弁であるという事実は、こういった映画で描かれる人間関係、つまり現在のアメリカでの、ごく普通な市民社会での人間関係のあり方の、きわめて基本的な部分を、じつは見せてくれているのだと言っていい。

 多弁はかならずしも雄弁であるというわけではないが、誰もがけっこうニュアンスに豊んだ喋り方をしている。その喋り方はアメリカ的に素直で直截であり、完結的に内向したり、あえて喋らないことによって自分の気持や意志を相手に察してもらうというような芸当はまったくない。

 あらゆる意志や気持が、それぞれにニュアンスの工夫された言葉となって、次々にすべて外にむかって、相手にむかって、表現される。言葉によって表現されたものがすべてであり、自分の気持や意志を人との関係のなかで機能させていきたければ、気持や意志は言葉として表現されなければならない、そして表現されずに終わったものは、いっさいなんの意味も持たない。

 映画『マイ・ライフ』の登場人物たちのセリフは、映画のストーリーを進行させるためのものであり、プロフェッショナルなトレーニングをつんだダイアローグ・ライターの手によって無駄なく刈りこまれている。それでもまだ、彼らは多弁であり、現実の日常生活においてはこの十倍も二十倍もの量を、いつも、彼らは喋る。

 ある一定の人間関係のなかにある人たちが、おたがいに対してニュアンスに豊んだ喋り方で多弁であるという事実は、彼らの人間関係のあり方の、いかなる場合も常に変わらない、基本的な構造から生まれてくるものだ。そして、その基本的な構造はなにかというと、誰もが誰に対しても等しく一定の距離を保っているという、簡単な事実だ。

 たとえばボストン・マラソンでの完走を目標にしはじめた母親は、母親であること以上に、まずひとりの確固たる存在であり、その存在は、誰からも干渉や制限をうけない。ふたりの娘たちも、娘であると同時にそれぞれ独立したひとつの存在であり、母親への過度の依頼や干渉は、基本的なルールとして、許容されていない。

 人間関係のなかで、誰もが、自分の周囲に、自分だけのスペースを持っている。誰に侵されもせず、誰からも侵されない、自分だけのスペース。このスペースのなかで誰もが自分で自分をきりまわしていくのであり、こうしておたがいのあいだに常に相互不可侵の距離ないしは領域が存在することによって、フェアな関係が成り立っていく。このフェアな関係に支えられて、母親は、ボストン・マラソンを完走するという一種の成長行為をなしとげる。

 登場人物たちが多弁であるのは、おたがいのあいだに不可侵の距離が常に存在することを、生きていくうえでの大前提として、生まれながらに体質的に自覚しているからだ。その距離をこえたむこうに存在する人に対して、自分の気持や意志を言葉にしたうえで作用させたければ、自分の喋り方に可能なかぎりの工夫や知恵を盛りこまなくてはならず、たとえば洒落た会話のやりとりというようなものは、こういったところから生まれてくるものなのだ。

 多弁さと、その対極にある沈黙とが一対になって登場する面白いシークエンスは、ジョギングに大きく自分の時間をさきはじめた母親に娘たちが文句を言い、その文句に対して、母親のベティが、「自分たちの一日がどうだったか話を聞いてほしいとあなたたちは言うが、私の一日がどうだったか、聞こうとしてくれたことが一度でもあったか」と、自分自身のスペースの主張をするにいたるシークエンスだった。夫と別れたことを娘たちに対する罪悪感として持ちまわっているベティは、ここにおいて彼ら本来のフェアな関係をとりもどすのであり、口のへらない娘たちもさすがに沈黙する。この沈黙のほんとうの意味がわからなければ、『マイ・ライフ』のようなアメリカ映画がわかったことにはならないのではないかと、ぼくはふと感じる。

 いったんフェアな関係がととのってしまえば、ボストン・マラソンを完走するかしないかは、ベティひとりの意志と行動にかかっている。フェアな関係のなかではものごとはおおむねなめらかにはこび、素人のお母さんがボストン・マラソンを完走するというような肯定的なチャレンジのようなことなら、なおいっそうなめらかにはこんでいくはずだ。事実、映画のなかでことはすんなりとはこんだし、このストーリーのもとになったという実話のなかにおいても、ことのはこびのなめらかさは、映画と大差なかったにちがいない。

 この映画を観て、こんなにすんなりいったら世話ないよ、これは映画という絵空事だから成立するんだよ、という冷たい反応がもしあるとするなら、その反応は、フェアな関係というものを知らずに生きている人たちに特有の反応だと言っていい。

 ストーリーが進行するにしたがって、ベティをめぐる人間関係が、すべてフェアになっていく。娘たちとのことはすでに書いた。気弱な楽天性を持った好人物である、かつての夫は、老後はふたりの年金で世界旅行しようよなどと、ボストン・パブリック・ガーデンズで復縁をほのめかしたりするが、ラストちかく、復縁はありえないことを、さりげなくしかしきっぱりと、娘に伝える。ベティのジョギング姿を野次った生徒たちは、Tシャツをプレゼントする現場でベティに拍手をすることによって、フェアな相手にたちかえる。アパートの気むずかしい管理人も、ゴール地点で新聞を読みつつ最後まで待つ。

 ベティは、見事なビリであろうとなかろうと、走りとおしさえすればそれでいい。妙な意味づけなど、いっさい必要ではない。ゴールに入った瞬間のストップ・モーションで映画は完結する。じつに、これは、正しい。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年


1980年 『コーヒーもう一杯』 『マイ・ライフ』 アメリカ 映画
2016年4月18日 05:30
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