アイキャッチ画像

手帳のなかのお天気

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 表紙で計って縦が七十ミリ、横が百五ミリ、そして厚さは十五ミリ。一ページのスペースはこれよりひとまわり小さく、その一ページぜんたいのスペースが、細い罫によって五ミリ幅の十六行に、仕切られている。これがその手帳の本体だ。ページ数は一日一ページで一年分ある。

 本体の前後には、カレンダー、日の入りと日の出、世界各国の祝祭日、メートル換算表、月間予定表、住所録、金銭出納帳など、手帳らしい情報のページがある。イギリス製の手帳だ。なんの変哲もないところがたいそう好ましい、ごく平凡な普及品だ。ポケットや鞄に入れていつも持ち歩く手帳だ。表紙の材質と作りは、一年くらいならなんとか持つだろう。

 このくらいのサイズと容積、そして作りの手帳が、僕にとってはもっとも興味がある。興味があるとは、僕の場合は、それは謎である、という意味だ。この手帳を一年間にわたって、いったいなにに使えばいいのか。手帳だから手帳として使うのだが、では一年分もあるページに、いったいなにを書けばいいのか。それが僕にとっては謎なのだ。

 日付や曜日は印刷されていないから、基本的な用途としてはたいへんに自由な日記なのだろう。日記という言葉の意味を広くとらえて、なんでも帳だ。思いついたこと、忘れたくないこと、覚えきれないこと、書きとめておきたいことなど、文字どおりなんでも書いておくための、個人的な大福帳だ。

 自分がこういう手帳を使わないことは、わかりきっている。これまで一度だって使ったことはない。それなのに、毎年、まるできまりごとのように、手帳を何冊か買う。どれも雰囲気がよく似ている。たったいまサイズや厚さなどについて書いた、イギリス製の小さな手帳をいま僕は左手に持っている。

 六月の終わり頃には、前半の全ページが書き込みでびっしりと埋まっているような人がいるとするなら、それはいったいどんな人なのか。ごく普通の人だろう。ごく普通の人がなんでも書きとめていくと、手帳のページはいつしか埋まっていく。

 しかし、とにかくなんでも書いておくという手帳の使いかたは、手帳の使いかたとして正しくはないし、有効な使いかたでもないように僕は思う。手帳の正しい使いかたを知っている人とは、来るべき日々に役立てる作戦の土台として、体験を記録しておくことの大切さを知っている人だ。イギリスの人にはこのような人が多いのではないか、と僕はふと思う。

 五ミリ幅の横罫は、ボールペンによる英文字での書き込みがしやすいなどと思いながら、買ったまま使っていない手帳を片手に持ちページを繰ってみる。謎に心ひかれて買った、何冊かの手帳のうちの一冊だ。しかし僕には書くことはなんにもない。だから使わない。

 何冊もの手帳を忙しく使いわけ、そのどれにもびっしりと書き込んでいる人は、僕にとっては謎の人であるというようなことが話題になった席で、自分には手帳に書くことがなんにもないと言った僕に、あらゆることを書けばいいんですよ、と言った女性がいた。なるほど、そうか、とそのときは納得した。

 仮にびっしりと書き込みをするとして、書いたままでは駄目なのだ、と僕は思う。過ぎ去った日々のページに自分が書いたことを折にふれて読み返し、咀嚼しなおし、整理しなおさないことには、過去の体験は前方に向けての作戦の土台とはなり得ない。

 手帳のページにびっしりと書き込みをしたいと僕が願っているわけではない。書けることがあるなら、それをびっしりと書き込んでみたいものだ、と思っているだけだ。過去の記録は将来において役立てるべきものであるはずだ。だからこそ、人は過去のあれやこれやを、手帳のページに書く。

 過去のいったいなにが、将来のどこで役に立つのか、僕には見当もつかない。それに、自分ひとりの過去くらいなら、僕は覚えていることが出来る、などとも僕は思う。すべてを正確に記憶することは不可能としても、覚えている範囲内でまかなっていけるなら、それで充分ではないかと僕は思う。

 いま手に持っている小さな手帳には、日付や曜日が印刷されていない。だからなにか書きとめるとき、日付が必要ならまず日付を書く。さて、その次に、なにを書くのか。そうだ。日付の次にはその日のお天気を書くのだ、ということを僕は思い出した。太平洋の戦場でアメリカ兵と戦いながら、盛んに日記をつけた帝国の兵士たちは、日記にお天気のことを書いたというではないか。その日というものがあるなら、その日のお天気もかならずあると言っていい。しかもその日ごとに変化するから、その日のお天気については、なにごとかをかならず書くことが出来る。

 お天気だけについての日記を、買ったまま使っていない手帳に書く、ということを僕は思いついた。その日は三月二十九日だった。だからその日からさっそく始めて四月三十日まで、僕はお天気の日記を手帳のページに試みた。ひと月だけ書き込みをしたその手帳を、なぜかいまも僕は持っている。

 東京の静かな住宅地のなかにある二階建ての家の、どちらかと言えば見晴らしに恵まれた二階の東南の角部屋の窓ごしに受けとめた、日本の春ひと月のお天気が、小さな手帳のなかの三十三ページにわたって、僕がかつて体験したとおりに、いまもそこにそのままある。次のとおりだ。

 三月二十九日、軽い雨。そのあと、曇り。暖かい。おだやかだ。空は静かな灰色。いっさいなんの波瀾もない日曜日、という感じ。

 三月三十日 晴れのあと薄曇り。ここから気象状況は次第に崩れていく気配だ。しかしいまは、すべてはたいへん静かで、落ち着いている。庭の梅はほとんど散った。門のかたわらの棕櫚の樹の向こうで、木蓮の花が咲いている。午後四時、急速にまっ暗に曇って、遠雷。都心はどしゃ降り、と電話をかけてきた人が言う。大雨、そして靄。気温は下がる。夕方には陽がさした。夜は晴れたが、遅くなって雨。

 三月三十一日 晴れている。きわめておだやか。風がない。四時を過ぎて、気温はかなり落ちる。夜二時過ぎ、雨の降り始める音。

 四月一日 朝から雨。落ち着いた降りかただ。景色は雨に煙っている。なかなかいい。おだやかだ。午後三時、気温はかなり低い。雨のためか、さほどには感じない。

 四月二日 晴れ。午後から曇る。雨が降りそうだ。曇りきらないまま、すべては静かだ。雲は広がらない。雲の広がる気配が空から消える。おだやかな空となる。夜、十時、雨が少しだけ降る。いい風が出ている。

 四月三日 晴れ。しかし空は青くない。白くくすんでいる。桜が満開。今日は花見の日だ。夜になって気温が下がる。

 四月四日 曇り。雨になるだろうか。夜になっても降らないか。雨になるか、それとも降らないままか。ただそれだけの、奇妙な宙吊りの状態。夜遅く、雨の降る音。

 四月五日 朝から、おだやかに、雨。正午に上がる。空は明るい。午後二時頃、少しだけ降る。そしてすぐに上がる。軽い雨のあとの、静かな曇り日となる。このような日曜日をどう過ごせばいいのか。午後四時、薄陽が射してくる。おだやかな夜のなかに、雨の香りがある。

 四月六日 晴れている。気温は高い。桜が満開。空の色はすっきりしない。くすんでいる。空気のなかに軽度の倦怠感のようなものを感じる。

 四月七日 曇り。日本の気候はおだやかだ。このおだやかさは、日本の秘密だ。日本独特のなにかが、そこから生まれている、と僕は思う。個人的で私的な世界に人の気持ちを向かわせる、目立たないけれども確実にそこにある力のようなものが、そのおだやかさから発生してくる。気がつかない人にとっては、いつまでたっても気づかないままであるような、おとなしいおだやかさだ。

 四月八日 晴れ、あるいは薄曇り。気温は高い。

 四月九日 午前中は晴れて、空は高かった。午後から、空の色がくすんでいった。気温は高い。午後二時三十分、雨の気配があらわれる。気温は六度も下がった。

 四月十日 雨。気温はやや低いか。雨はときどきやむ。夜も雨。じつは今日は京都に来ている。雨の午後、写真の撮影をする。桜が散っている。

 四月十一日 晴れ、陽が射している。今日も京都にいる。

 四月十二日 雲がある。雲の切れ目から陽が射す。四時十五分、雨が降ってくる。どうしていいのかわからないほどに、気候はおだやかに続いていく。気温が下がる。夜は寒い。

 四月十三日 きれいに晴れて風がなく、じつにさわやか。気温は高い。今日のような日を、誰にとっても自分のすぐ外にある環境だとするなら、誰の内面も、環境との快適な均衡を、なんの努力もなしに、獲得することが出来る。このような日は、人それぞれが完全に自由に過ごすと、もっともいいように思う。夜は寒い。暖房が必要なほどだ。三月下旬の寒さ、ということだ。

 四月十四日 晴れ。風がない。たいへんにおだやか。気温は高い。午後から曇る。それに比例して気温が下がる。空が曇っていくのを見るのは、気温が下がっていくのを感じるのと、同一のことだ。夜の七時、八時、雨となる。九時には上がっている。

 四月十五日 薄曇り。あるいは、まあなんとか晴れている、と言っていいか。微風がある。それにしても、おだやかな日が続く。自分の内面を相手の、埒もないことが、このおだやかさには良く似合う。自分の内面に関する埒もないこととの優しい関係を、いろんなふうに作っていく作業にちょうどいい気候だ。多忙で殺伐とした、いわゆるビジネスの世界などには、まるで似合わない気候なのではないか。主観の独走を許してしまう気候だ。

 四月十六日 晴れている。風があるようだ。音が聞こえる。風に力の厚みがない。人の気持ちを脅かさない風。この点だけをとっても、日本の気候はまさにおだやかだ。桜がまだある。

 四月十七日 晴れ。風はない。なんとも言えないおだやかさ。気温は高い。ぴたっと止まって風がない。一日じゅう外で過ごすといいのではないか、と思う。時間の経過とともに、思いのほか早く大きく、気温が落ちていく。外に向かっていた気持ちは、それに合わせて、内面に向き始める。ひとりで主観をこねくりまわしたいという思いを日本の自然は人に対して抱かせるのではないか。ずっと昔から。

 四月十八日 薄曇り。晴れた日、とは言えない。風が少しあるようだ。気温は高い。このおだやかな気候は日常性を増幅する、と僕は感じる。生活にもっとも密着したもの、あるいは、生活にとってもっとも大切な土台となるもの、それがこの気候か。そしてそれがこれほどにおだやかだと、そのおだやかさを当然のこととして受けとめたきり、そこから先はなんの関心も示さず、無視し、忘れ去り、それとは完全に切り離されたところで、会社の仕事にかまけきって、過ごすことになりやすいのではないか。日々の気象条件が作り出す空気の状態との、正しくて緊密な接触の関係を、このおだやかさのなかで人は簡単忘れていることに、気づきもしなくなるのではないか。

 四月十九日 曇っている。午後一時を過ぎて、雨。降る、というのではなく、ごく軽く落ちてくる、という感触の雨だ。少しだけあたりを濡らして、雨はすぐにやむ。雲にむらがある。変化し続けるそのむらを見ていると、自分のなかのどこかで、なにかが、大いに報われたような気持ちになる。雨へと変わりそうな曇り日の午後。午後五時を過ぎて、降り始める。雨の日となる。この変化が、なかなかいい。主観をもてあそびたい誘惑にかられる。そうしないためには、何人かの人たちとテーブルを囲み、楽しい議論をするといいのではないか。そのことをとおして、自分の内面は外界からの力によって均衡される。普遍性とまではいかなくても、ある程度までの社会性をおびた力が、その均衡のなかに生まれてくるのではないか。

 四月二十日 晴れている。きれいな日だ。光が明るい。気持ちが外に向けてのびていき、広がっていく。ほどよく外へ、ほどよく広く。このようなほどのよさ、それが僕の言う、日本の気候のおだやかさだ。日本は、本来はたいへんに、ほどのいい場所なのではないか。曇った日や曇った日や雨の日が内面を志向する日だとすると、晴れて明るい日は外界を志向する日だ。日本では曇った日が基本であり、晴れた日がその基本を中和する。

 四月二十一日 晴れ。晴れの度合いが、昨日より薄い。しかし雲はない。

 四月二十二日 雨。風もある。外、というものと気持ちのありかたについて、思わざるを得ない雨だ。雨はやがて横殴りとなる。風が強くなる。そして夜には、おさまる。十時には雨も風も止まっている。雨の匂いが夜のなかに残っている。

 四月二十三日 晴れ。昨日とは対照的な日だが、強烈な対照ではない。あくまでもおだやかな、ほどのよい対照だ。どこかに昨日の続きがある。空では青さがいまひとつ確定しない。白くくすんでいる。風が少しある。気持ちは外に向けてのびていく。しかし昨日の記憶は、内面へと向かう気持ちを、僕のなかに残している。外へ向かう力と、内側へ向かおうとする力は、しかし、バランスを保っている。これは不思議だ。

 四月二十四日 晴れている。風が強い。その音が聞こえる。風の音の周期に部屋のなかで気持ちを合わせていると、雨の日とは違ったかたちで、関心は内面へと向かっていくようだ。日本の気候のなかに身を置いていると、人はその気持ちを内面に向けたくなるのか。あるいは、そこに身を置いている人の内面に、どこからともなくいつのまにか、気候が主観のための素材として、入り込んでくるのか。

 四月二十五日 晴れ。風はない。きわめておだやかだ。空に青さが不足している。青さのこちら側に、透明でなおかつ、ごく淡く白濁したフィルターがあるような。その淡い白さは、視線つまり気持ちが遠くまでつき抜けていくことを、どこかで微妙に妨げているように、僕は感じる。日本の気候は、人の認識力のなかに、遠近法を作りにくいのではないか。そのかわりに、平面的で一元的な内面を、作りやすいのではないか。

 四月二十六日 晴れ。このような日曜日の、もっともそれにふさわしい過ごしかたは、どのようなものなのか。天気との呼応関係のなかでの、もっとも正しく充実した過ごしかた、というものがきっとあるはずだ。自然の触手を体に感じることの難しい生活のなかには、気候と正しく呼応したその日の過ごしかたというものは、あり得ない。

 四月二十七日 晴れ。微風、という言葉そのもののような、微風。空は相当に青い。気温は高い。じつにいい日だ。樹や草の葉から反射される光が美しい。タンポポ。小さな青い花。タンポポの落下傘。このような小さなものを、今日はよく見るといい。ほかになにが欲しくて、これ以上になにを望んで、人はこのようなものを見ずにいるのか。日本の気候のなかには、人の外と内とが、完全に均衡する日がある。今日というこの日があるなら、それ以上にはもうなにもいらないという種類の、至福の日だ。このような日が、日本の気候のなかでは、周期となって繰り返される。

 四月二十八日 晴れ。ほどよい風。じつにいい。陽ざしのなかと外との対比の様子が、完璧におだやかだ。このような日の、全体的なバランスの良さを、なににどう使えばいいのか。今日のような日に、人々はいったいなにをしているのか。午後六時を中心にして、その前後、時間が止まったようになる。夜と昼との分岐点だ。

 四月二十九日 晴れ。素晴らしい。いったいどう過ごせば、自分はこの素晴らしさと対等になれるのか。自然との一体感、とよく人は言うが、そのような言いかたは不遜だ、と僕は思う。自然のなかのほんの小さな片隅で、ひととき自然とともにあればそれで充分だ。それ以上のことは、人間には不可能だ。居場所の正しさ、という問題だ。正しければ、それはそのまま、最高の幸せとなる。自然の片隅へ、静かにひっそりと入り込んでいくことについて、夕食の前の不思議な時間に思う。

 四月三十日 雨。かなり降っている。ふた月前にさかのぼるほどの、気温の低さだ。夜の十時、雨は上がっている。雨の匂いを宿した冷たい空気。午前一時、晴れた夜空を見る。今日という日を、どのように使えばよかったのか、と僕は思う。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年


2000年 『坊やはこうして作家になる』 天気 手帳 時間
2016年4月30日 05:30
サポータ募集中