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世界で最も有名な青春小説の主人公を絵に描くとどうなるか?

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60年前にホールデンと出会った

 シグネット・ブックスというペイパーバックの叢書がアメリカにある。その叢書から1953年に、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が刊行された。

 いまも僕が持っているのは1957年2月の第6版だ。購入してからすぐに読んだ記憶がある。10代のうちに僕はホールデン・コールフィールドに、ペイパーバックのなかで会ったのだ。

 僕がいまも持っているそのペイパーバックは、たいそう良い状態だ。新品同様とまではいかないが、古書としての日々を体験したペイパーバックとは、趣がまったく異なっている。新刊の一冊として僕はこれを購入したのだが、それがどこだったか、正確には思い出せない。

 紀伊國屋や丸善ではない。10代の僕は近づかなかった書店だ。イエナでもない。米軍の基地だろう。立川あるいは横田だ。

 二世の女性が店員にいて、ペイパーバックを何冊も買う僕をつかまえては、この作家はいい、この作家はさしあたって読まなくてもいい、などといろんなことを教えてくれた。例によって目尻の吊り上がった眼鏡をかけていた。

 彼女の口調を、かすかに覚えている。コールドウェルはグッドよ、と言われた僕は、アースキン・コールドウェルのペイパーバックは、持っていないのを見かけると、必ず買うようになった。それらはいまも手もとにある。ポール・ボウルズを勧めてくれたのも彼女ではなかったか。

『モロッコ幻想物語』ポール・ボウルズ編 岩波書店 2013年

『ライ麦畑でつかまえて』に関しては、彼女はうなずいていた。これはどうですかと、僕が訊いたからだ。

 この題名はなんという意味ですか、と僕が彼女に訊いたことは、いまでもよく覚えている。読めばわかるけれど、と前置きして、彼女は教えてくれた。

 ライ麦畑でライ麦が丈高く実っている。そのなかを子供たちが走りまわって遊んでいる。ライ麦畑を走っていくと、その縁はいきなり垂直に近い崖になっていて、丈の高いライ麦のなかで前方が見えなかった子供たちは、その崖を落ちる。子供たちが落ちる前に、待ち構えていたコールフィールドがつかまえてあげる、というのが題名の意味だと、彼女は説明した。

 本来はロバート・バーンズの詩の題名なのだが、コールフィールドはその題名を間違って覚えていて、その間違いのままにイメージを作ったのが、ライ麦畑の中を走りまわる子供たち、そして彼らが崖から落ちる前につかまえてあげる自分なのだ。

 コールフィールドが間違えて覚えなければ、この題名はなかったわね、と彼女は言った。彼が間違えて覚えなければ、ライ麦畑で逢う人は、というような意味だという。

 彼女は、ロバート・バーンズと言ったのだが、今度は僕が間違えて覚えた。ロバート・バーンズをロバート・フロストと取り違えたまま、何十年も経過した。ロバート・フロストの詩のなかに、ライ麦畑、という言葉を探したこともあった。

絵に描かれたホールデンの後ろ姿

 僕がいまも持っているThe Catcher In The Ryeのペイパーバックの表紙には、絵が描いてある。ホールデン・コールフィールドだ。ニューヨークへ出て来てすぐの彼ではないか。

Signet, 1957.

 大人の男たちの観客のために、若い女性たちが半裸の姿でショーを演じる小さな劇場の前で、ホールデンはポスターを見ている。僕が持っている第6版のペイパーバックでは、そのポスターが縦長の長方形で淡い灰色に隠されていて、その長方形のなかには、この小説を宣伝するための煽り文句の英文が印刷してある。

 苦情が来たからこのように変更したのか、それとも、出版社が自粛した結果としてこうなったのか。初版や第2版を手に入れれば、隠される前のポスターを見ることが出来るかもしれない。

 ホールデンはキャメルズ・ヘア・コートを着ている。寄宿制の学校にいるとき、キャメルズ・ヘア・コートは盗まれたはずだが。彼が文中でそう言っている。

 革製のスーツケースを右手に下げている。このようなケースがまだ皮革で作られていた時代のものだ。かなり大きいが、いま外国へ旅行する人たちが一様に持っているスーツケースよりは、小さい。細長い三角形のペナントが二枚貼ってあり、そのうちの一枚には文字があり、最初の三文字はPENと読める。ホールデンが在校生だったペンシー・プレップの、ペンの部分だ。

 ホールデンは赤いマフラーをしている。そして赤いハンティング・キャップをかぶっている。野球帽のようなかたちをしたハンティング・キャップで、ホールデンはそれをうしろ向きにかぶっている。鉄砲猟をするとき、森の木立のなかで枝葉の影にちらっと見えただけで、このオレンジ色がかった赤い色は、そこに人がいることを知らせる効果がある。

 シグネットのこのペイパーバックの表紙に描かれたホールデン・コールフィールドについて、絵に描かれたコールフィールドとしておそらく唯一のものではないか、とかつて僕は書いたような記憶があるが、けっして唯一ではない。

 アラン・パワーズという人が編纂した Front Cover というイギリスの本には、イギリスで1951年にハードカヴァーで出版された The Catcher In The Rye のハードカヴァーにかけてあったダスト・ジャケットに描かれたコールフィールドの絵が収録してある。描いたのはフリッツ・ウェグナーという人で、主として絵本の世界で活躍した人だそうだ。

Hamish Hamilton, 1951.

 ホールデンを左後ろから描いた絵で、左肩の少し下から頭の頂上まで、とらえている。ホールデンが着ているのはおそらくジャケットだろう。革製のように見える。

 彼の髪はクルーカットではない。髪はクルーカットにしていることが多い、とホールデンは一人称の文中で言っている。シグネットの表紙の彼は、ハンティング・キャップの下はクルーカットのように見える。

 ハードカヴァーの彼も赤いハンティング・キャップをかぶっている。片方の耳からうなじをへて、もう一方の耳まで、使わないときには上に向けて折り返しておくことの出来るフラップのある、ハンティング・キャップだ。

 遠景にはマンハッタンの摩天楼の一部分が単彩で描かれ、中景には回転木馬がある。セントラル・パークのなかだ。そしてコールフィールドとその回転木馬の中間で、コールフィールドを振り向きつつ回転木馬へと走っているのは、彼の妹のフィービーだ。

 この小説がアメリカで出版されたときにも、まずハードカヴァーで刊行されたから、ダスト・ジャケットが巻いてあったはずだ。小説のダスト・ジャケットだから、そこには絵が描かれたはずだ。ホールデンはここにも描かれたに違いない。

 描かれたホールデンを見るだけのために、ハードカヴァーの初版を買わなくてはいけないだろうか。描かれたホールデン・コールフィールドを集めたサイトが、オンラインにあるかもしれない。

日本で初めて刊行された翻訳版

 The Catcher In The Rye は1952年の日本ですでに翻訳されている。中央区銀座東にあったダヴィッド社から、橋本福夫という人の翻訳で刊行された。著者名はJ.D.サリンガーとなっていて、題名は『危険な年齢』だ。

ダヴィッド社 1952年

 僕はこれを古書で持っている。ベージュ色のフランス装だ。ダスト・ジャケットには帯が巻いてある。帯にある文言を紹介しておこう、次のとおりだ。

 

最も洒落た

最も奇妙な

最も真実な 青春の告白

 

あけっぱなしのエロティシズムの中でさえ

いつも純真にまたたいている若者の眼

それに写る大人の世界のひんまがったカリカチュアは何を語る?……

 

 ダスト・ジャケットには黒一色で絵が描いてある。左にあるのはセントラル・パークの一角から見た、マンハッタンの摩天楼の一部分だ。その右にシルエットとして描いてあるのは、ひとりの青年の立ち姿だ。

 髪は明らかにクルーカットだ。襟のあるシャツを着ている。ポロ・シャツだろうか。うつむきかげんの姿勢でポケットに両手を入れている。はいているのは、僕の想像では、ホワイト・ジーンズだ。靴はローファーだろう。

 以上、いまも僕とともにいる、三人のホールデン・コールフィールドだ。

出典:『現代ビジネス』講談社 2017年4月30日
アイキャッチ:Photo by iStock


サリンジャー ライ麦畑でつかまえて
2018年11月2日 00:00