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ふたとおりの恐怖がやがてひとつになる

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〈書評〉東京大空襲・戦災資料センター監修 山辺昌彦・井上祐子編東京復興写真集 1945~46 
文化社がみた焼跡からの再起

 アメリカ軍による日本全土への空爆が激しさを増していた1944年の秋に僕は東京を逃れて祖父の家のあった山口県の岩国へ移住した。次の年の夏にはすっかり瀬戸内の子供になって陽に焼けていた6歳の僕は8月6日の朝、前夜に泊まった友人の家から自宅に向けて、ひとりで歩いていた。広島の上空で炸裂した原子爆弾の閃光をうしろから受けとめたのは、家まであと100メートルほどのところだった。そしてその日の夕方、例によって一日じゅうどこかで遊んだ僕は、自宅に向けてひとりで歩いていた。東に向けて歩いていた僕は、その東の方向の、瀬戸内の海と本州の陸とが接するあたり、距離にして30キロだったとあとになって知った広島の上空に、きのこ雲が立ち上がっているのを見た。数人の大人たちがそれを眺めていた。

 自分が物心ついたのはこの日である、ということに僕はきめている。年齢としてはちょうどいい。物心のきっかけとなった出来事は、日本の歴史のなかでこれを上まわるもののない最大のものだから、僕の物心の根拠としては充分すぎるほどだ。

 岩国の生活環境はきわめて牧歌的なもので、いつのどことも知れないけれど日本であることだけは確かな、子供が育つ場所としてはじつに恵まれた場所だった。東京の空爆をほんの少しだけ知っているだけで、あの戦争に関しては、それ以上のことを知らない。よく言われる、あたりいちめん焼け野原となった瓦礫の山すら、見たことがない。岩国のあとは広島県の呉に移った。住んだ場所は戦艦大和を造ったドックから歩いて数分のところだった。したがって海と接したかつての軍港や工場施設などは、徹底した爆撃を受けたほぼそのままであり、そのなかで復興がようやく始まっていた。この呉も子供にとっては素晴らしい環境だった。敗戦直後の戦争に関しては、ここでもなにひとつ知らずに過ごした。

 東京へ戻ってきたのは1953年だった。もはや戦後ではない、と日本政府が宣言する3年前だから、戦後は探せばいくらでもあったはずだが子供の僕には探しようはなく、探すための正確な知識は皆無だった。したがってこの時代の戦後も知らずに成長した。

『東京復興写真集』という、1945年から1946年の東京を撮影した、800枚を越える写真で構成された本を端的に書評するためには、まず自分の位置を明確にする必要がある。広島の原爆の閃光から1953年の東京までについて触れたのは、そのためだ。なぜ自分がこの本のなかの写真を熱心に観察するのか、その理由は僕の生い立ちの時間的な、そして環境的な背景を抜きにしては、とうてい語れない。

 ごく簡単にひと言で言うと、戦争も戦後も知らずに育ったからこそ、敗戦の明くる年の東京の、800枚を越える白黒の写真のなかを、何度も繰り返して、視線で歩きたい。70年もあと、ひどく間接的にではあるけれど、この年の東京を歩いてみたい。そのためには写真を見るほかない。ときには4倍のルーペを使って、細部をたんねんに観察しながら、何度も繰り返して。視線で歩くための経路はつきることがない。

 写真のなかを視線で歩くことによって、敗戦の翌年の東京とそこを生きる人々を、少しずつ知っていく。知らずにいることは怖いことなのだという思いは、歩くほどに確実なものになっていく。と同時に、子供であれ大人であれ、このような状況のなかを生きるのもまた、恐怖以外のなにものでもない、という思いも立ち上がってくる。

 知らずにいることの怖さに、知ることによる怖さが、知れば知るほど加算されていく。ふたとおりの恐怖はやがてひとつになり、なぜこんな状況が生まれたのかという、恐怖のおおもとへの恐怖が芽生えてくる。

出典:『週刊朝日』2016年8月19日号


2018年6月1日 00:00