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知らなかった東京が浮かび出てくる

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 昭和20年、1945年。8月にはアメリカ軍は広島と長崎に原爆を投下した。それ以前から日本全土への空爆は熾烈をきわめた。攻撃作戦を完遂するにあたっては、たとえば東京という攻撃目標に関して、作戦への参加者全員が、現状の詳しい情報を共有するため、事前に上空から大量の写真を撮影した。

 日本が降伏したあとも、アメリカ軍による写真撮影はおこなわれた。爆撃の効果や防空体制の掌握など、目的はさまざまだった。日常の任務の一部、つまりルーティーンとしての写真撮影も存分におこなわれた。敗戦直後と5年後の、東京西部のおなじ場所を低空からアメリカ軍が撮影した大きな写真を広げ、「ほら、私鉄の駅を中心に5年間でこんなに宅地が広がっている。いまのうちに宅地を安く買っておけば、何年かあとにはひと財産作れるよ」と、ハワイふうの英語で僕の父親に知人の日系2世が熱弁をふるっていたのを、いま久しぶりに思い出した。戦争中の東京空爆を攻撃任務遂行中の爆撃機から撮影した16ミリ・フィルムを、アメリカ国内では通販で簡単に入手することの出来た時代だ。

 敗戦の年である1945年に限っても、アメリカ軍が撮影した写真が大量にあり、米国立公文書館で眠っている事実は、1960年代のなかばには、僕は知っていた。その膨大な写真をなんとかしようとしている日本人を想像するとき、ごく短い期間、その日本人は僕自身だったのだが、僕とはくらべものにならないほどの慎重さと用意周到さ、そして思慮の深さを持ち合わせた日本人研究者へと、変わっていった。

 その人はずっと長いあいだ、僕の想像のなかの人だったのだが、実際に存在するとは。『米軍が見た東京1945秋』の著者、佐藤洋一さんだ。その佐藤さんが、大量の写真資料のほんの一部分を使って、中間報告のように、一冊の本を作った。

 旧日本軍が占拠していた南の島を激戦によってひとつずつ制圧し、最終的には東京へ向かってそこを制圧するという作戦は、東京への道、と呼ばれた。東京への道は海路であり、上陸は8月30日からおこなわれた。富津岬や横須賀が上陸地点であり、東京湾や相模湾には多数の米軍艦船が停泊していた。9月2日、東京湾に停泊していたミズーリ号の艦上で降伏文書への調印がおこなわれ、その上空を爆撃機や戦闘機などの大編隊が記念の飛行をおこなった。東京への道の、終結だ。『東京1945秋』の表紙に使ってあるのは、上陸するアメリカの水兵たちが、隅田川を勝鬨橋へと向かっていく、1945年10月6日の写真だ。

 大量の写真を撮影することによって、戦中そして戦後の東京のありさまは、具体的にくわしく掌握されたのだろうか。掌握されたとして、それにもとづいてどのような報告が、どこへ提出されたのか。

 撮影したアメリカ軍にとって、東京は地名や場所ではなく、主として軍事的な機能だった。写真の目的と視点は一般の写真とは大きく異なっていた。だからこそ、新たな視点の発見による、それまでは知らなかった、思ってもみなかった東京が、写真ごとに浮かび出てくる。

 日本橋の上空を飛ぶ艦載機から撮影された写真について、「堀や川の水面が写っている。堀の骨格は、多少の変化はあるが、江戸期から変化していない。そのため、建設期の江戸の空間構造の上に、焼け残ったビルが建っているようにも見える」と、この本の著者は書いている。

 戦中まで歴史を重ねてきた東京が、空爆によって破壊され焼き払われることにより、江戸が造った堀や川があらわになった。それらの堀や川は、江戸に造られた頃とほとんどおなじだった。眠っていた江戸は戦争によって揺り起こされ、それはたちまち戦後によって食いつぶされていった。新たな視点は限りなくある。

出典:『週刊朝日』2016年6月3日号


2018年5月30日 00:00