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漱石文学の“会話”の深さに驚嘆する

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〈書評〉小林千草著「明暗」夫婦の言語力学

『坊っちゃん』は子供の頃に読んで楽しかった。大人になってから何度か読み返した。そのつど痛快な気持ちになった。それ以来の夏目漱石として、たまたま書店で手に入れた、『草枕』の英語訳を僕は読んだ。

 なるほど、こういう小説なのかと、すんなり理解することが出来た。英語で読むとわかりやすくていい、などと思ったりもした。わかりついでにせっかくだから原文でも読んでみようと思った僕は、原文つまり夏目漱石の日本語で、『草枕』を読んだ。読み終えた僕は、心の底から驚嘆していた。二、三年前のことだ。

 夏目漱石が『草枕』のなかで縦横に駆使した日本語に、それを読みとおすというかたちで、僕は完全に降伏した。このような体験は、僕にとって、後にも先にも初めてのものだった。

 続いてなぜか『明暗』を読むことにした。夏目漱石にとって最後となった、しかも未完の長編小説だ。ある日のこと、僕はそれを読み始めた。文庫本で二、三ページごとに短く区切られ、それぞれに番号がつけてある。その番号の四まで読み、僕はふたたび深い驚嘆を体験した。

 これはすごい、と僕は思った。これはただごとではない、とも思った。なにがそれほどまでにすごく、なにがただごとではないのか。それは会話だ。会話のなかで人間を解き明かしていくにあたっての、作家としての技術と、その技術を支えてあまりある洞察の深さだ。

 いまから九十六年前に一冊の本となった未完の長編小説のなかに、すべてがある、と僕は判断した。一冊の文庫本を手にして、そのような判断をすることの出来る状況のぜんたいがうれしくてたまらず、そのうれしさゆえに、『明暗』はそこまで読んで、その先は読まないままにしてある。

 以上のようなごく個人的な小さな出来事をまず書かないことには、『「明暗」夫婦の言語力学』という著作の書評への、助走路が整わない。新聞の一面の下にある小さな縦位置の長方形の広告のなかに、この題名を見たときもうれしかった。僕が驚愕した『明暗』のあのことについて書いた本が出版されている、という発見のうれしさだ。

『明暗』の主人公はふたりの男女だ。男のほうは津田由雄という三十歳の勤め人で、女性はその妻で二十三歳のおのぶだ。彼の勤め先から電車に乗って帰って来て、「角を曲って細い小路へ這入った」ところにある一軒の家に、家事を分担する下女とともに、新婚の夫婦として住んでいる。

「荒川堤へ花見に行った帰り途から何等の予告なしに突発した」痔の痛みが続く津田は医師の診断を受ける。結核性のものではないが切開手術が必要だと告げられる。この場面の会話は、自宅へ帰った津田とその妻との会話への伏線となって、見事なものだ。

 夫の帰宅を待って妻は家の外に出ている。帰って来た夫を迎え、ともに家のなかに入り、夫の着替えを妻は手伝い、いまのうちに銭湯へいってらっしゃい、と夫に勧めるところから、夫妻の会話は始まっていく。

 ぼんやりと一見したところ、じつになんでもない日常の片隅の、どこの誰にでもありそうな平凡な内容のやりとりだが、じつはまったくそんなことはなく、特に女性の台詞は、戦慄的な緊張をはらんで維持される会話の中心軸であり、漱石の描いたこのような女性は近現代を突き抜けて素晴らしい。

「夫婦を論じることは、女と男を論じることでもある。女と男を論じることは、結局、人間を論じることに通じていく」と、『「明暗」夫婦の言語力学』の著者は書く。「津田夫婦とその周りの人々の会話を、物語の流れに従って――つまり、作者漱石の導くままに、読み進めつつ、生身の人と人の会話の何たるかを分析して」いくこの著作を、『明暗』と同時に読んでいこうときめた僕は、いまたいそう幸せだ。

出典:『週刊朝日』2013年2月22日号


『週刊朝日』 片岡義男の書評
2018年4月18日 00:00
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