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うかつに紀行文を書かないように

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 一九一五年のアメリカで、『ザ・ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』という題名の短篇集が刊行された。その年のアメリカで発表された短篇小説を可能なかぎりたくさん集めて読み、そのなかから傑作とうたうにふさわしいものを二十篇から三十篇選び出し、一冊にまとめたという、傑作短篇小説の年鑑のような本だ。それから八十七年をへて、この傑作短篇集はいまでも刊行が続いている。

 創刊したエドワード・オブライエンが一九四二年まで作品選びと編集をおこない、一九四三年からはマーサ・フォレイという人が、一九七七年まで編集作業を引き継いだ。一九七八年からは版元であるホートン・ミフリン社のシリーズ・エディターが、平均して千数百篇の短篇を読み、そこから百二十篇ほどを選び出す作業を、こなすことになった。毎年誰かひとり、著名な作家がゲスト・エディターとなって、百二十篇のなかから二十篇ほどの「傑作」を選び出す、というシステムが現在でも続いている。

 八十七年も続いているこの年間傑作短篇集のシリーズから、何種類かの年間傑作集が派生している。エッセイ。ミステリー。科学と自然についての文章。スポーツをめぐる文章。最近ではコミックスやスピリチュアル・ライティングもある。こうした広い領域のなかで、年間のベストが毎年、刊行されている。ここで紹介する『ザ・ベスト・アメリカン・トラヴェル・ライティング』というシリーズもそのなかのひとつだ。第一巻が刊行されたのは二〇〇〇年だったようだ。書店で目にしてはいたのだが、買わないままの状態が続き、二〇〇四年版をついに手に入れ、次の年は買いそびれ、二〇〇六年版、そして二〇〇七年版を買った。この三冊をほぼ読んだいま、僕はひとつの教訓を確認している。トラヴェル・ライティング、つまり紀行文を、うかつに書いてはいけない、という教訓だ。

 僕は紀行文をほとんど書いていない。記憶にあるのは一回だけだ。昨日どこかで見てきたことを今日は早くも原稿にする、ということに対して感じる恥ずかしさのような気持ちが、僕をこれまでずっと紀行文から遠ざけてきた。ある日いきなり、どこかとんでもない場所へいき、どこからどう動いてなにを見たか、なにを思ったか、というようなことについて書いたら、少なくとも書く行為は自分にとって面白いのではないか、などと思い始めた頃に、三冊手に入れたトラヴェル・ライティング・ベスト集のなかから、『ローソンにいる女の人』という文章を僕はまず最初に読んだ。二〇〇六年版に収録されている。

 三冊もあるのだから、そのなかに少なくとも一篇は、いまの日本を舞台にした文章があってもいいではないかと考えた僕は、三冊の目次に挙がっている題名を読んでいった。そして二〇〇六年版のなかに『ローソンにいる女の人』という題名をみつけた。ローソンがあのコンビニだとしたら、それはアメリカにはもうないから、おそらく日本のローソンのことだろう。そう思いながら本文にあたってみると、舞台は日本だった。そして著者はピコ・アイアーではないか。ピコ・アイアーには『カトマンズのヴィデオ・ナイト』というノン・フィクションの傑作がある。

 さっそく読んでみた。ピコ・アイアーはカリフォルニアと日本を行き来して生活しているようだ。『ローソンにいる女の人』は、ある時期に滞在していた奈良のどこかの、住まいのすぐ近くにあった小さなローソンが、自分にとっていかに異国であるかについて書いた短い文章だ。このローソンに日本のすべてがある、とピコは言う。いまの日本の人たちの日常生活を支えるものすべてを、コンビニで買いととのえることは可能だから、確かにコンビニは日本を凝縮したものだと考えていい。ほとんどの製品に珍妙な英語の単語や片言のフレーズそして文章が印刷してあることに、ピコは驚き、笑い、とまどい、不思議な気持ちになり、最後はわけがわからなくなったりしている。このあたりは外国から来た人たちにとってはよくあることだし、僕にもおなじような体験はいつでも出来る。

 いつも自分が利用している地方都市のはずれにある小さなこのコンビニが、少し離れた別の場所へ移転することになる。なじみ親しんだ地元の常連客たちとは、いったんは別れることになるので、いつもレジにいる「ローソンの女の人」は悲しそうにしている。彼女を少しでも元気づけることが出来れば、そして彼女をとおしていろんな買い物をした記念になればと、ピコはほんのちょっとした品物を彼女にプレゼントする。受け取った彼女はレジでピコに背を向け、静かに泣き始める。相手に背を向けて泣く、つまり自分がいま感じている悲しみとそのなによりの証明である涙から相手を守る、だからこそ背を向けて泣く、とピコは彼女の行動を解釈する。異邦人には解釈の自由しかない、したがってピコはそれをこんなかたちで駆使する。

 そしてその瞬間、一軒の小さなコンビニに凝縮された日本に対して、それまでさまざまなかたちと内容とでピコが感じ続けた違和感が、いっきょに最大値に達する。違和感は感じ続けるけれど、異邦人のピコといえどもそこで日常を営むのだから、すべてのものに対して距離は少しずつ縮まり、それに比例して親しさは増していく。コンビニという異国と自分とは、こうして陸続きになっていくのかなと思い始めたとたん、自分の悲しみから相手を守るために背を向けて泣く、という異国のきわみをピコは目のあたりにする。

 コンビニに象徴される日本、そしてそのコンビニのレジにいる中年の日本女性が、おなじく象徴する日本人の心に対して、距離は充分に縮まってはいるものの、ピコの足もとにはおそらく底なしと言っていいほどに深い亀裂があらわれる。亀裂という言葉を僕は使うけれど、そこに悪い意味合いや否定的なニュアンスはまったくない。意味やニュアンスは、むしろ無限に肯定的でクリエイティヴなものだ。自分と日本とのあいだにある底なしの隔たりについてピコは書き、それを僕は読んだ。ピコが目のあたりにしたその深い隔たりを、彼の文章をとおして、僕は間接的に体験する。その体験を外に向けると、いま僕が住んでいる場所から歩いて数分以内のところに、コンビニは何軒かある。しかしそのどれにも僕は用がないから、じつは一度も入ったことがない。僕はコンビニをいまだに体験していません、と言っても誇張にはならない。

 僕が地方都市のはずれのコンビニの常連で、したがってレジのおばさんとはその範囲内で親しく、そのコンビニが閉店になると聞いてどこかの神社のお守り札でも彼女にプレゼントしたら、彼女は僕に背を向けて泣くだろうか。泣くことはその人のその時の体調や気持ちのありかたと関係しているだろうし、相手がガイジンだから泣いた、という可能性もある。いろんなことを僕はピコの文章をきっかけにして考えた。近くて親しいと自分では思っている対象とのあいだに、深い隔たりがあるのを突然に発見する怖さ。これが描き出されないかぎり、うかつに紀行文など書いてはいけないのだ、という教訓を僕は手にして、そこからさらに考えを広げている。

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出典:『Free&Easy』2008年1月号


2018年2月28日 00:00
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