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股関節の柔軟な歩きかた

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 秋のウイーク・デーの夜。早すぎもおそすぎもしない、とてもいい時間に、ぼくは彼女とふたりで散歩をしていた。彼女の、ほどよい高さのきれいなヒールが、歩道に心地よい音をたてていた。いっしょに散歩する女性としてぼくがまっさきにあげたい条件は、もしあげさせてもらえるなら、足音の美しい女性であることだ。

 足音が美しくあるためには、たとえばはいている靴が自分にぴったりと合った上出来の靴でなくてはならず、歩き方がきれいでなければならず、歩き方がきれいであるためには骨盤や背骨がすっきりとまっすぐでなくてはならず、股関節は柔軟でなくてはならず、歩き方がきれいなら体ぜんたいのバランスは美しいはずであり、もしそこまで出来あがっていれば、そういう女性は素敵な女性にちがいないからだ。

 足音美しく歩きながら、彼女は夜空をあおいだ。よく晴れた空だった。なにしろ東京のまんなかだから、すこしだけ星が見えた。

「もう、ほんとに、秋なのね」

 と、彼女が言った。

「服がウールですものねえ」

 たしかに、その夜の彼女は、秋のはじまりの頃のための、薄くて見るからに着心地の良さそうなウールのスーツを着ていた。そして、スーツの下は、さわやかな秋風のような美しいシャツだった。

「もう、残暑なんか、ないだろうなあ」

 と、ぼくは言った。彼女は、笑った。彼女の服がすでにウールにかわっているのに、残暑などあるわけない。しかしぼくは夏に未練を残しているから、十月いっぱいくらいまではまだ夏のつもりでいる。

「もう残暑はないわ」

 と言い、彼女はぼくの手をとった。

「残念だ」

「お仕事は、忙しいの?」

「さしあたって、ある雑誌にみじかいエッセイを書かなくてはいけない」

 と、ぼくは言った。

「そのエッセイのテーマは、〈世のなかすべてギヴ・アンド・テイク〉というのだそうだ」

「すぐに書けそうでいて、じつはなかなかむずかしいテーマだわ」

 と、彼女は言った。彼女は、よくわかっているのだ。

「洒落た書き方のできにくいテーマだな」

「そうね」

 しばらく歩いてから、彼女は、

「私たちの関係も、なんらかのかたちで、ギヴ・アンド・テイクなのかしら」

 と、言った。

 きっとそうだろう、とぼくがこたえると、彼女はぼくの手をやさしく握りなおし、

「私はあなたになにをあたえることができてるの?」

 と、きいた。あなたは私になにをくれてるの、などとはぜったいに言わないところが、彼女の素敵なところだ。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年


個人主義 彼女 歩く 片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』
2017年10月13日 00:00